20
ルクルーシュの真紅の瞳が、嘲るような光を湛えたまま、ロエナをじっと射抜く。その視線は剣よりも鋭く、逃げ場のない闇の中でただ一人さらされているような感覚をロエナに与えた。
だがロエナは、すぐには答えなかった。
わずかにまぶたを伏せ、一拍、呼吸を深く整える。その沈黙には、恐れも、迷いも、虚勢すらなかった。むしろ、重苦しい空気の中で己の覚悟を磨き上げるような静けさがあった。
やがて、ロエナはゆっくりと顔を上げた。
その口元には、静かだが確かな微笑みが浮かぶ。
「……ええ」
短く、けれど力強い肯定だった。
ロエナの瞳はただ真っ直ぐに自分の意志だけを携えて、ルクルーシュを見据えている。
「まずは、討伐しますわ。あなた方が長きにわたり抑え込んできた深淵胎を───この手で」
ルクルーシュの表情が、わずかに揺れた。
その眉が一瞬だけ動き、冷たい無表情の奥に、ほんの僅かな驚きが浮かぶ。
「……話を聞いていなかったのか?深淵胎は倒しても、時が経てばまた新たに生まれる。徒労に終わると、そう先ほど言ったばかりだ」
その声音には、嘲りと憐れみがないまぜになっている。しかし、ロエナは臆せずまっすぐに返す。
「魔王陛下───順を追って説明いたしますわ。討伐は始まりにすぎません」
ロエナは静かな微笑みをたたえたまま、玉座に座すルクルーシュを真っ直ぐに見上げた。その微笑は、決して媚びでも挑発でもなく、覚悟に裏打ちされた誠実なものだった。重苦しい空気のなかで、彼女だけが鮮やかな意志の色をまとっている。
「深淵胎には、魔法も剣も通じません。決定的な一撃を与えられるのは───聖女の力のみ」
その言葉に、ルクルーシュの目が僅かに細められる。しかしすぐに、嘲るような声が返った。
「そんな事は知っている。制約が結ばれるより前、深淵胎の駆除は聖女だけの役割だった。……だが、お前たちバインベルクは、その歴史すら都合よく闇に葬ったらしいな?」
皮肉と憤りをまぜた声が、石壁に反響する。ルクルーシュの真紅の瞳が、じりじりとロエナの心を試すように揺らめいた。
それでもロエナは、一切ひるまず、柔らかく笑みを深める。
「ええ。確かに───その事実は、記録から消されているようです。この場に聖女はおりませんが……しかし、今のわたくしには、聖女の加護が与えられている。そしてこの手に携える武器にも、加護を宿しています」
ロエナは腰に差したレイピアにそっと触れ、その冷たい輝きを見せる。
「……けれど、わたくし一人の力だけでは、深淵胎を討ち滅ぼすことはできません。聖女の加護だけでは足りないのです」
一呼吸。ロエナは、玉座のルクルーシュに向かって、再び頭を垂れた。
「無礼を承知で、お願い申し上げます。魔王陛下、どうか───お力を、貸していただけませんか」
その言葉は、大広間に静かに響く。
敵対する人間でありながら、王の前で己の無力を認め、それでも誇りを失わずに協力を求めるロエナの姿は、あまりにも真っ直ぐだった。
「……仮に俺が、お前に手を貸し、深淵胎を討ったとしよう」
ルクルーシュはじっとロエナを見下ろしていたが、ふいに視線をそらし、天井の闇を見上げる。その横顔には微かな翳りが差し、長い睫毛の影が頬をなぞる。
「だが、生まれ続ける深淵胎はどうする」
その声は低く、もはや問いかけというより、未来に対する深い絶望を滲ませていた。
ロエナは即座に、しかし落ち着き払って答える。
「もちろん、人間と協力し合い、共に解決するのです」
その言葉を聞いた瞬間、ルクルーシュの瞳から一切の温度が消えた。
氷のように冷たい、無表情な双眸。その中には、哀れみも期待も、何もない。
「協力、か……」
口元に、皮肉げな笑みがゆっくりと浮かぶ。その微笑はあまりにも薄く、まるで他人の物語を聞いているかのようだった。
「人間が好んで使う言葉だな」
吐き捨てるような、短い声音。ルクルーシュはロエナを見もせず、ただ虚空に呟く。まるで〝協力〟という概念そのものに深い不信を抱いているかのように。その言葉の奥には、人間に裏切られてきた長い歴史と、信頼することをやめてしまった魔王の諦念が色濃く滲んでいた。
ロエナはその反応を、むしろ当然だと受け止める。その冷たさは、あまりにも真っ当なものだった。
ロエナは静かに微笑む。
だが、その微笑みは今までのものと違い、どこか悪女めいた艶やかさを帯びていた。彼女の唇が僅かに吊り上がり、瞳が妖しく揺れる。
「人間とは、思い込みの激しい生き物ですわ。陛下」
その声音は甘く柔らかいが、言葉の奥には明確な策謀が隠れている。
「見たいものだけを見て、信じたいものだけを信じる。……だからこそ、〝そう見えるように仕向ければ良い〟のです」
彼女の声は静かだったが、その奥底には確かな熱と鋭さがあった。まるで氷のような微笑みをたたえ、彼女は玉座の王に正面から向き合う。
「人間は、魔族を〝こちらに害をなす悪〟だと、何の疑いもなく信じ込んでおります」
ロエナのの瞳は一切の揺れなくルクルーシュを見据えている。その言葉の端々に、長い差別の歴史と人間社会の歪んだ価値観を見抜く冷静な観察眼が宿っていた。
「ですが───」
ふ、とロエナは目を細める。微笑みすら浮かべず、どこか遠いものを見るような視線。そのまま、静かに続けた。
「その〝悪〟が、実はバインベルクを陰から守ってきた〝正義〟であった───もし、そう認識させることができれば?」
その一言は、空気をわずかに震わせる。
「きっと人間たちは、魔族を自分たちの都合の良い〝正義〟に仕立ててくれるでしょう」
ロエナは冷ややかに微笑む。
「つまり、〝悪〟だった魔族が〝正義〟に変わる理由として、これ以上ぴったりなきっかけはない、ということですわ」
ロエナはそれまでの冷たく鋭い微笑みをふっと解き、今度はどこか包み込むような柔らかな笑みを浮かべてみせる。その表情は一瞬にして場の空気を和らげ、同時に、したたかな計算を包み隠すヴェールとなった。
「そうなれば、人間たちも魔族の言葉に耳を傾けてくれるはずです。自分たちを守ってくれていた正義の声を無視などできるはずありませんもの」
その言葉は静かに大広間へと広がり、石壁に幾重にも反響して消えていく。
ルクルーシュはしばし沈黙したまま、思案するように顎を撫でていた。長い指先が輪郭をなぞり、紅い瞳はどこか遠くを見るように細められている。
そして、やがて決意したように、静かに玉座から立ち上がった。
その動きは重厚で、王者の威厳と余裕が滲み出ている。漆黒の角が天井の灯りを切り裂き、その長い影が床を這う。
ロエナのすぐ目の前まで歩み寄り、彼女を真上から見下ろす。
その眼差しは、威圧的でありながらも、どこか新たな興味や評価の色を湛えていた。
「……立て」
低く、短い命令。だが、その声には今までとは違う響きがあった。
ロエナは素直に従い、静かに立ち上がる。その瞬間、不意にルクルーシュの手が彼女の手を取った。
ルクルーシュの手は冷たく、そして決して揺るがない強さに満ちている。
「?」
次の瞬間、視界が一気に白く塗り潰される。
重たい石造りの広間も、玉座も、深い闇も、一切が消え去り───ただ無重力のような浮遊感だけがロエナを包み込んだ。
ほんの一瞬の沈黙。
そして、二人の姿は、その場からすでに消えていた。
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