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───カツ、カツ、カツ……
石造りの階段を駆け下りてくる足音が、薄暗い牢の中に反響する。
意識の底に沈みかけていたロエナは、はっと息を呑んだ。さっきまで夢を見ていたのか、遠い過去の記憶に沈んでいたのか、自分でも判然としない。ただ、現実の冷たさだけが、容赦なく身体を縛り付けていた。
やがて、重く軋む鉄扉の音が響く。蝋燭の光が淡く差し込み、闇に微かな揺らぎを与える。
(エリシャ……?)
現れたのは、マントのフードを深くかぶった小柄な少女───エリシャだった。
彼女は鉄扉を閉めるとフードを外し、床に膝をつく。
「……!」
驚くロエナの目の前で、エリシャは自分の親指を噛み、滲んだ血で床に何やら複雑な紋様を描き始めた。
その仕草はあまりにも唐突で、あまりにも必死だった。ロエナは息を呑み、ただ呆然と見つめるしかなかった。
(……まさか)
本来この国の〝人間〟は、魔法を使うことなどできない。それは絶対の理であり、法でもあった。
けれど、たったひとつだけ───。
伝説のように語られる例外がある。
それが、「魔法陣」である。
精緻な図形、膨大な知識、絶対に許されぬ誤差。
ほんの少しでも線が乱れれば、決して魔法は発動しない。
ましてや人の血で、それも震える指で正確に描ききるなど、常人には到底不可能とされている。
それでも今、エリシャは、苦しみと罪悪感に涙を溢れさせながらその不可能を成し遂げようとしていた。
エリシャの額にはうっすらと汗が滲んでいる。唇はかすかに震え、だが指先だけは異様なまでに正確だった。
「……時間がありません、ロエナ様……!」
囁く声が、鉄と石の壁に吸い込まれて消える。
「どうか、聞いてください。……あなたが悪女に仕立てられたのは、すべて……ルベルト様の仕組んだことなのです!」
エリシャは汗を滲ませながら、ひたすら魔法陣の線を血でなぞり続けていた。
指先が血に濡れて線がかすれれば、自ら親指に噛みつく。足りなければ他の指にも歯を立て、薄い皮膚を裂き、赤いしずくを床に落とす。
蝋燭の光の下、震える指で床に描かれる文様は、どこかこの世のものとは思えなかった。
「……ロエナ様がどれだけ訴えても、誰も耳を傾けなかった……その現実を……私が作ってしまったのです」
ロエナは混乱していた。
怒り、憎しみ、不信、そして───どうしようもない胸のざわめき。
今にも声を荒げて責め立てたかった。けれど、その術はもう与えられていない。
ただ、冷たい空気の中、目の前で血を流しながら魔法陣を描くエリシャの姿から、視線を外すことができなかった。
「ですので、私が責任を取ります」
かすれた声が牢の闇に溶けていく。その声音は儚くも、決して折れないものだった。
───魔法陣を描き終えた瞬間、石の床が淡く光を放ち始めた。
血で刻まれた線が、まるで生き物のように脈打ち、冷たい牢の闇をじわじわと侵食していく。その光は温もりを持たず、ただ静かに、逃げ場を塞ぐように広がっていった。
「……私が描いた魔法陣は〝時遡の魔法〟と呼ばれています」
エリシャの声が、張り詰めた空気を切り裂く。
「時を遡ることができる……唯一の魔法」
ロエナは目を剥いた。
時を逆行する───それは、幼い頃に読んだ寓話や、古文書の片隅にしか存在しないはずの力。
それが今、自分の足元で淡く光っている。その現実が、理解よりも先に嫌悪感となって胸に迫った。
そんなロエナの動揺を知る由もなく、エリシャは深く息を吸い込み、震える膝のままこちらに手を伸ばした。
「……ロエナ様。この結末を招いてしまったのは……紛れもなく、私の所為です」
その声には震えと同時に、どこか祈りにも似た切実さが滲んでいた。
「だから私は、この力を使って過去に戻ります。あなたが悪女に仕立て上げられ、国が狂い始める前に───歪んだ未来を、うまないために」
その言葉に、ロエナの胸がかっと熱くなる。
(……結局、そういうことなのね)
エリシャが何をどんな顔で語ろうと、「過去をやり直す」だの「未来を変える」だの、そんな都合のいい台詞の裏に透けて見えるものは───。
(また、わたくしを巻き込む気なのでしょう?)
胸に溜まり続けていた澱のような不信が、一気に表面へと浮かび上がる。
───その魔法で、わたくしを連れて過去に戻り、未来を変えると?ふざけないで。
怒りが、胸の奥から一気に噴き上がる。
わたくしへの贖罪?それとも国の未来?
そんなもののために、どうしてまた、わたくしが差し出されなければならないの。
───わたくしを、どこまで利用すれば気が済むの?!
舌がない。
叫べない。
怒鳴りつけることも、拒絶の言葉を叩きつけることもできない。
わたくしを巻き込まないで!一人で勝手にやりなさい!
喉の奥が焼けるように痛む。
言葉にならない怒りが、身体の内側を引き裂く。
エリシャは、ロエナのその目をしっかりと受け止めた。怯えも逃げもせず、ほんの一瞬、悲しげにまぶたを伏せてから、意を決したように言葉を継いだ。
「……ロエナ様は、このまま死ぬことをお望みなのですか?」
凛と響く声。
まるで揺るがぬ意志が込められているようで、ロエナは思わず息を呑んだ。
自分の絶望も、怒りも、疑念も───その問いの前では、あまりにも幼く思えた。
エリシャは少しだけ間を置き、そっと言葉を継ぐ。
「そのようなことは……望まれないはずです。少なくとも、私にはそうは見えません」
エリシャの視線が、まっすぐロエナを射抜いていた。
その目はもう、怯えも迷いもなかった。ただ、自分の罪と向き合う者の、静かな覚悟だけが滲んでいた。
魔法陣の淡い光が、二人の影を長く伸ばしながら、牢の空間をじわじわと満たしていく。
エリシャはそっと膝をつき、魔法陣の端に指先を添えた。
何度も歯を立てて血を絞り出したその指は、皮膚が裂け、爪の下まで真っ赤に染まっている。痛みに耐えながらも、その手には一切の震えがなかった。
「……過去に戻る手段は、ここにあります」
囁くように言ったその声は、決意と祈りが重なったものだった。
ふっと、息を吐く。蝋燭の炎がかすかに揺れ、魔法陣の光が、どくん、と鼓動のように強く脈打つ。
「未来を変えるかどうかは───」
エリシャは、最後にもう一度ロエナを見つめた。
その瞳には、哀しみも贖罪も、そしてひとかけらの希望さえも宿っていた。
「……すべて、ロエナ様の意思次第です」
その一言が牢の中に落ちると、世界が静止したかのような沈黙が降りた。
血と光が混じり合う魔法陣だけが、二人を包み込みながら、静かに、静かに、運命の扉が開くのを待っていた。
ロエナはゆっくりと立ち上がる。足元が頼りなく揺れ、視界が滲む。それでも、エリシャの前へ、まるで何かに導かれるようにふらりと歩み寄った。
魔法陣の上に膝をつくと、ひんやりとした石の感触が膝裏を刺す。その刹那、魔法陣がぱあっと眩い光を放ち、ふたりの身体を包み込んだ。
光は静かに鼓動し、淡く、しかし確かに、時空の隔たりを揺さぶり始めていた。
───その時だった。
「エリシャ!!そこで何をしている!」
金属が引き裂かれるような轟音。
鉄扉が勢いよく開かれ、冷たい空気が牢内に流れ込む。
「っ、ルベルト様……!」
エリシャの表情が恐怖に歪んだ。
その目には、ただならぬ怯えが浮かぶ。全身が強張り、膝の上で指が小さく震えていた。
ルベルトは一瞬たりとも迷うことなく、足早にエリシャへと歩み寄る。
彼女の細い腕を乱暴に掴み上げると、まるで玩具のように勢いよく引き寄せた。
エリシャの体は、光に包まれた魔法陣から完全に引き離される。バランスを崩し、ロエナの方へ必死に手を伸ばそうとしたが、指先は届かない。
───次の瞬間。
魔法陣の中心が、光の源となり爆ぜた。
天を衝く光の柱が轟音とともに牢の天井を突き抜け、黒々とした闇を引き裂く。
激しい風が渦を巻き、まるで世界が裏返るような轟きが牢全体を揺るがせた。
光と闇、そして時間さえも混じり合い、世界は一瞬で塗り替えられていく───その瞬間、ロエナの意識は、激しい眩暈とともに奈落へと落ちていった。
♦︎
「───ロエナ、お前にはがっかりだ」
耳奥に、よく知った声が鈍く響いた。
ハッとして、夢か現実かも判然としないまま、ロエナは反射的に声のほうへと顔を向けた。
そこには、苛立ちを隠そうともしない表情をしたルベルトの姿があった。
冷たい碧眼で、まるで罪人を見るような鋭い目つきで睨みつけてくる。その様子は、あの日、処刑台の下で彼が見せた表情と何一つ変わらない。
混乱に脳が追いつかず、ロエナは何度も瞬きを繰り返す。
鼓動が激しく波打つ。自分がどこにいて、なぜこの場に立っているのか、一切の手がかりが掴めなかった。
ふと、視線を落とす。
手───指先が動く。恐る恐る自分の腕を見下ろすと、白い手袋に包まれた華奢な両腕がそこにあった。
思わず息を呑む。
(腕があるわ……!)
その瞬間、ロエナは自分の身体を改めて見下ろす。
纏っているのは、つい先ほどまで牢の中で身にまとっていた薄汚れた囚人服ではない。
宝石をちりばめた、煌びやかなドレス。絹の感触が肌に心地よく、胸元には以前持っていたお気に入りのブローチまで飾られていた。
現実味がない───けれど、全身を包む衣服の重みや、指先をわずかに締め付ける手袋の感覚、首筋に流れる髪の重さ、それらは間違いなく本物だった。
混乱と驚愕が入り混じる中、ロエナはゆっくりと周囲を見渡した。
そこに広がっていたのは、きらめくシャンデリアと、深紅の絨毯。
間違いなくここは───王宮の大広間だった。
意識の底で、魔法陣が生んだまばゆい光の残滓がまだまぶたの裏で揺れていた。
すべてが夢の中のようで、目覚めたばかりのような現実感のなさに、ロエナは自分の呼吸の音さえ遠く感じる。
けれど、そんな混乱などまるで無関係だと言わんばかりに、ルベルトは冷ややかに口を開く。
「エリシャの頰を見ろ。こんなに腫れて……可哀想に」
何気なく言うその声には、どこか芝居がかった憐憫と、優越の響きが混じっていた。
反射的にロエナは視線を向ける。
ルベルトの腕に抱かれるようにして、エリシャがいた。
その頰は赤く膨れ、涙で濡れたエメラルドの瞳がロエナを見上げている。まるで儚げな子鹿のようなその姿には、ひと目見ただけで庇護されるべき存在としての印象が刻まれていた。
嗚呼、思い出した。この状況には確かに覚えがある。
あれは───二年ほど前。王宮で開かれた、格式高い夜会だった。
パーティーのパートナーは本来、婚約者が務めるのが慣例。しかし、ルベルトは迷いもなく「今年はエリシャと行く」と言い切った。
その頃にはもう、そうした扱いにも慣れてしまっていた。表面上は笑顔を保ちながらも、内心では苛立ちと屈辱が渦巻いていたのを、ロエナは今でも鮮明に覚えている。
周囲の好奇と冷ややかな視線を避けるため、わざと時間をずらしてパーティー会場へと足を運んだ。
重い扉を開け、華やかな音楽ときらびやかなシャンデリアの下に足を踏み入れた瞬間───
まさに、今と同じ状況が広がっていた。
ルベルトが声高に言う。
「パートナーの座を奪われた腹いせに、ロエナがエリシャを平手打ちをしていた」と。
もちろん、そんな事実はない。
けれど、誰もロエナの言い分など聞こうとはしなかった。
ただ、加害者としての立場を一方的に押し付けられ、冷たい沈黙の海に沈められるだけだった。
今、再び目の前に繰り広げられる同じ光景。
心の奥底からこみ上げる怒りと虚しさが、鮮やかに蘇る。
ロエナは静かに息を吸い込み、ゆっくりと吐き出してから、真っ直ぐにルベルトを見据えた。
「殿下、その告発に、確かな証拠がございますか?」
その場の空気がぴんと張り詰める。ルベルトはわざとらしいほど大げさにエリシャの頰を指し示し、不満げに声を張り上げた。
「これが証拠だろう!見ろ、この腫れ上がったエリシャの頰がすべてを物語っている。それに、当人であるエリシャ自身が、ロエナから暴力を受けたと認めているんだ。なあ、エリシャ?」
「……は、はい……」
エリシャは小さく肩をすくめ、声を震わせながら答えた。
以前のロエナなら、その姿を見てただ苛立ちしか覚えなかった。演技───そう決めつけて疑いもせず、悔しさだけが胸に募っていた。
しかし───。
あの牢でエリシャが泣き叫んだ言葉が、ふいに脳裏に甦る。
『あなたが悪女に仕立てられたのは、すべて……ルベルト様の仕組んだことなのです!』
あの涙も、この怯えも、すべて本心なのだろうか?それとも、まだ何か見えていないものがあるのか。
今はまだ、どちらとも断定できない。
「何か弁明はあるか?」
ルベルトの低く抑えた声が、会場の隅々まで染み渡る。
その問いには、もはや救いも情けも感じられなかった。それでもロエナは、静かに息を整え、堂々と顔を上げる。
「ありませんわ」
一切の怯みもなく、さらりとした口調だった。ルベルトの眉がわずかに動く。
「ほう。潔く認めるのか?」
淡々と投げかけられたその言葉にも、ロエナは微笑すら浮かべて応じた。
「いいえ。わたくしはやっていませんもの。弁明のしようもございません」
しんと静まり返る空気。
会場の貴族たちが息を飲むのが分かった。しかし、その沈黙はすぐにざわめきへと変わる。
───あんなに堂々としていると……逆に怪しいのよねえ。
───確かに。自信満々で否定するなんて、隠していることがあるからでしょう?
───聖女様が可哀想だわ。謝罪の一言もないなんて。
どこからともなく、ヒソヒソと囁き合う声が広がる。ロエナの潔白も、毅然とした態度も、この場では逆効果でしかなかった。
冷静に思考を巡らせても、打つ手は何もない。
この国では現在、聖女エリシャと王太子ルベルトが絶対の正義であり、自分はすでに悪女という役回りを押し付けられているのだ。
どんな言葉も、空しく虚空へと吸い込まれていく。
しかし、ヒソヒソとした噂話があまりにも露骨に耳に入ってくると、さすがに黙っていられなくなった。
ふいにくるりと振り返り、噂の主たちを正面から見据える。
会場の空気が一瞬にして凍りつく。
ざわめきが止み、ロエナの動作を食い入るように見守る視線だけが降り注ぐ。
「殿下、失礼いたします。お話の途中で大変恐縮ですが……」
ロエナはにっこりと微笑んだ。その笑みは妃教育で鍛え上げた〝完璧な貴族の微笑〟だったが、その奥には冷ややかな意志が宿っている。
「どうにも、こちらのお部屋の〝空気〟が合わないようですわ。少々、休息を取らせていただきます」
ルベルトが何か言い返す前に、ロエナはドレスの裾を軽やかに持ち上げ、会場をゆっくりと歩き始めた。
背筋を伸ばし、怯みも揺らぎも見せない。
誰もがロエナの一挙手一投足を見守っていたが、彼女は振り返らなかった。
───これ以上ここにいても、立場が悪くなるだけだ。〝前回〟も、そうだったのだから。
心の奥で冷静にそう判断しながら、ロエナは会場の扉へと歩みを進めた。
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