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 ロエナは、凛とした佇まいでウォロの前に現れた。その姿はいつもの華やかなドレス姿ではない。村に出かけたときと同じ、動きやすいパンツスタイル。腰には鋭い光を放つレイピアが帯刀されている。長い銀髪をきっちりまとめ、身軽に動けるようにと工夫されていた。


「ドレスじゃなくていいの?」


 ウォロは少し驚いたようにロエナを見つめた。


「深淵胎を討つための話をしに行くのよ。ドレスなんか着ていたら、か弱い令嬢だと見くびられてしまうでしょう?」

「……まあ、確かに」


 ウォロはどこか遠いところを見つめながら、軽く頷いた。きっと、魔王である兄の姿を脳裏に思い浮かべているのだろう。


 ロエナは静かに一歩、ウォロに歩み寄る。そして、そっと手を差し出した。


「さあ、行きましょうか」


 その声音は柔らかいが、どこか挑戦的でもある。ウォロは一瞬だけ戸惑った表情を見せたが、すぐに真剣な面持ちで頷き、その手をしっかりと取った。


 ───その瞬間、ロエナの体はふわりと宙に浮くような、不思議な感覚に包まれた。足元から重力が消え、世界が揺らめく。


 次の瞬間、足元がひやりと冷たい石の感触を伝えてきた。世界が反転するような目眩のあと、ロエナは静かに瞼を開ける。


 そこは、これまでに見たどんな建物とも異なる場所だった。


 高くそびえる天井はまるで果てがないように暗闇へと続き、巨大な石のアーチが何本も連なっている。壁は灰色の重い石で築かれ、ところどころに苔むした装飾や、古い時代の紋章が彫り込まれていた。冷たい空気が流れ、吐息がわずかに白く曇るほどだ。薄明かりの燭台が遠くでいくつか揺れているものの、広い空間の隅々まで照らすには足りない。闇が重く積もり、静けさの中に時折、遠くから水滴が落ちる微かな音だけが響いていた。


「……もう、着いたのね」


 ロエナは小さく息を呑む。身体がまだふわりと浮いているような感覚が残っている。


「うん。転移魔法を使えば、国境を越えるのなんて一瞬さ。……慣れてないと酔うんだけど……平気そうだね」

「えぇ、なんとか」


 ウォロはロエナからそっと視線を外し、巨大な扉を見据えた。天井の高みまで続く重厚な黒い扉は、鋼と魔石が組み合わされており、古の紋章と魔法陣が浮き彫りになっている。その扉の奥からは、言い知れぬ圧力と不穏な気配が滲み出ていた。


「悪いけど、付き添えるのはここまでなんだ。……僕はここで待機するよう言われてるから」

「えぇ、ありがとう、ウォロ。心配しないで」


 ロエナが微笑むと、ウォロは小さく手を翳した。瞬間、黒い扉が重々しく軋みをあげながら開き、冷たい空気が二人の間をすり抜ける。


 その奥に広がるのは、底知れぬ闇に沈む大広間だった。


 足元には深紅の絨毯が敷き詰められ、その先には漆黒の玉座がただひとつ、空間の中心に鎮座している。玉座の背後は闇が満ち、炎のように揺らめく青白い燭台だけが、ぼんやりと不気味な明かりを落としている。壁際には無数の石像が並び、まるで訪問者を無言で見下ろしているようだった。


 ロエナは赤いカーペットの上を、一歩ずつ慎重に進んでいく。歩を進めるごとに、背中を針で刺されるような緊張感が肌に突き刺さる。やがて玉座の手前まで来ると、片膝を付き、静かに頭を垂れた。


 その瞬間、空間全体がぐわりと歪むような、凄まじい威圧感が押し寄せる。空気が震え、肌が粟立ち、思考さえ凍りつく。


「面を上げろ」


 声が響いた。低く、冷たい声。その響きは大広間の隅々まで震わせ、空間そのものに染み込むようだった。


 ロエナはゆっくりと顔を上げる。


 まず目に飛び込んできたのは、玉座の主の頭部に生えた一対の異形の角だった。


 その角は漆黒───いや、闇そのものを凝縮したかのように黒く、重々しく湾曲しながら高く天を突く。

 そして闇よりも尚、深い黒髪。その髪は、光を吸い込むように艶やかで、額の上で無造作に揺れている。瞳はルビーの如き真紅。ウォロと同じ色合いでありながら、遥かに濃く、鮮烈で、見る者の心の奥底まで見透かすような眼差し。


 だが、その顔立ちは息を呑むほど整っていた。整いすぎていて、むしろ不安を覚えるほどだ。白磁のような肌、理知的な額、流麗な輪郭。だがその美貌は、血も温もりも感じさせず、彫像めいた冷たさと、静謐な恐怖だけをまとっている。


「ウォロから話は聞いている。深淵胎を討つ計画があると宣っていたのはお前だな」


 低く、抑えた声。怒気も嘲りもない。ただ事実を確認するだけの、冷淡な一言。


 彼こそが、ルクルーシュ。


 ───魔族を束ねる魔国の王。


「……どのような顔をしているのかくらいは、見ておくべきだと思ったが───」


 しばしロエナを見据えていたルクルーシュは、ふいにわずかに目を細め、彼女からゆっくりと視線を逸らす。


「どうやら、計画の中身ではなく、それを口にした〝使い手〟を見誤ったらしい」


 やがて、ルクルーシュは再びロエナに正面から視線を戻した。唇の端に、冷たく歪んだ笑みが浮かぶ。


「お前のような……人間の小娘が、数百年もの間、我ら魔族さえ手に負えなかった深淵胎を討てると……本気で思っているのか?」


 その一言が落ちた瞬間、空気そのものがビリビリと震える。ロエナの肌に、見えない冷気が這い寄る。

 目の前の魔王は、ただ座しているだけで、ロエナの存在すら呑み込みかねない絶望的な隔絶を体現していた。その禍々しい黒い角が燭台の明かりを切り裂き、真紅の瞳が闇の中に浮かび上がる。


「……深淵胎の脅威については、理解しております」


 ロエナは全身を押し潰すような重圧の中で、ひとつひとつ言葉を選ぶように、静かに口を開いた。


「そして、数百年間、深淵胎の残滓の処理をも魔国が担ってきた……それが当然とされた“理由”も、承知しています」


 その瞬間、ルクルーシュの目が僅かに細められる。真紅の光が一際鋭くなり、ロエナの魂の奥底まで穿つような錯覚が走る。広間の空気がさらに重く、冷たく、色を失ったかのようだった。


「……何故、お前がそこまで知っている」


 ルクルーシュの声は、氷の刃のように鋭く低い。問いかけながら、その言葉には疑念と、ほのかな怒気、そして警戒が混じっている。見えない圧が膨れあがり、周囲の空間が圧縮されるような錯覚に陥る。


 それでもロエナは一歩も退かない。息を呑むどころか、静かにまぶたを伏せてから、再び王の瞳を見上げた。


「ウォロ殿下から、お聞きしました」


 その返答に、ルクルーシュは明らかに表情を険しくする。低く、地の底から響くような声で、言葉を吐き出した。


「……人間には、決して話すなと念を押しておいたのだがな……」


 わずかに肩を落とし、ルクルーシュは深く息を吐いた。その仕草すら、どこか威圧的で、王としての孤独と苛立ちが滲む。


「……それほどまでに、口外を禁じる理由があるのですか?」


 その問いに、ルクルーシュはわずかに瞳を細め、鋭くロエナを睨みつけた。だが、制約の真実をすでに知る相手に、無意味な威圧は通じないと悟ったのか、やがてゆっくりと口を開いた。


「……昔、一度だけだ。制約の存在が人間に漏れたことがある」


 低く、地を這うような声。その響きは広間の隅々まで染みわたり、空気がじり、と粘りつくように重くなる。


「だがお前たちバインベルクの連中は、感謝ひとつ寄越さなかった。代わりに持ち出したのは、古い過ちの数々だ。制約という楔を振りかざし、魔国は責任を取れと詰め寄り、さらには謝礼だと称して貴重な物資までも要求してきた」


 彼の声は一層冷たく、嘲りに満ちる。玉座の影に潜むその瞳が、ロエナを射抜いた。

 言葉の端々に滲む憎悪と侮蔑。玉座に座るその姿は、今やただの王ではなく、怨嗟を背負う怪物のようだ。


「……挙句の果てに、連中は禁術の記された魔法書まで持ち去った」


 ルクルーシュは静かに言葉を吐き、薄く口元を歪める。その笑みには、温もりも慈しみもなく、ただ底冷えするような蔑みだけが宿っていた。玉座の主は椅子にもたれ、長い指を肘掛けに絡めながら、まるで滑稽な小噺でも聞かせるようにロエナを見下ろしている。


「魔力がなくとも、魔法を操れる───そんな都合の良い術が記された書だ。人間というのは、いつの時代も〝手に入らぬ力〟に執着するものだな」


 彼の言葉は低く抑えられていたが、そのひとつひとつが鋭い棘となって、空気をじわじわと冷たく染め上げていく。


「だが……」


 ルクルーシュは一瞬、赤い瞳を細め、口角を持ち上げた。


「───バインベルクには魔法を使える人間は一人もいないようだな。せっかく持ち帰った〝秘術〟も、その器がなければただの紙切れだ。……愚かな話だな」


 その声には、諦念と侮蔑と、そしてどこか哀しみの影すら宿っている。


 ロエナはその瞬間、すべての点が繋がるのを感じていた。回帰前、エリシャが行使した時遡の魔法───それはまさしく、かつて魔国から持ち出された、禁断の魔法書に記されていた術だったのだと。



「弱みを知れば、それを責任と呼び、奪うことを正義にすり替える。自分の正しさを疑うことなく、相手を支配し、搾取する口実とする。人間というものはつくづく勝手だ」


 その声音はあくまで淡々としているが、冷たい嘲笑が言外に滲んでいる。高い天井に反響し、玉座の間の空気がゆっくりと、だが確実に冷え込んでいく。


「その歴史がある故、だ」


 その言葉と同時に、目には見えぬ圧力が、まるで薄く広がる霧のように、ロエナの周囲を覆い始めた。心臓をじわりと掴まれるような、息苦しい感覚。ロエナはまぶたを伏せて、それを受け止める。


「制約の存在を知る者は、敵か、あるいは同罪者に成り果てる。例外はない───そう、俺は決めている」


 ルクルーシュの真紅の瞳が静かに、だが鋭くロエナを見据える。その瞳は、彼女の外側だけでなく、心の奥底までも見透かしているようだった。


「……制約の真実を知った以上、それがまた交渉の道具や、他者への圧力として用いられるのを止めなければ───たとえ自分自身が直接手を下さずとも、黙認した時点で、利用した者と同じく同罪と見なされる、ということですね」


 ロエナの言葉は玉座の間に吸い込まれ、やがて静寂が広がる。その静けさこそが、魔王と人間───絶対に交わることのない存在同士の境界線を、決定的に浮かび上がらせていた。


「それで?」


 ルクルーシュは低く静かな声でそう言い、ゆったりと足を組み替えた。


「──そろそろ聞かせてもらおうか。お前の言う〝計画〟とやらを」


 その言葉は冷たく、だがどこか愉しげでもあった。ルクルーシュの口元に、薄い笑みが浮かぶ。けれどその微笑みには決して人間的な温もりはなく、嘲りと諦観が溶け合っている。


「……言っておくがな。今、魔国で辛うじて抑えている深淵胎をたとえ一体、討ち滅ぼしたとして───何も終わりはしない」


 ロエナは静かに目を上げ、その真紅の瞳を真正面から見返す。

 ルクルーシュは再び、口元だけで嗤う。


「深淵胎は、人間どもの穢れ───欲望や嫉妬、嘘や裏切り、そういった穢れから生まれる化生だ。お前は人間共から、その穢れを完全に消せるとでも?」


 その問いは、最初から否定の答えを望んでいるようだった。


「……無理だな。人間が人間である限り、穢れは尽きない。どれほど討伐を繰り返そうが、また新たな深淵胎が生まれ続けるだけだ。討伐とは名ばかりの、際限なき徒労よ」


 ルクルーシュの声に、僅かに自嘲めいた響きが混じる。それは、長き時を生きてきた魔王だけが知る、果てしない絶望の重みだった。


「さて───」


 その真紅の瞳が、鋭くロエナを射抜く。


「それでもなお、お前は〝計画がある〟と、そう言い張るつもりか?」






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― 新着の感想 ―
魔王の住まいの表現と魔王の様子を表す表現に感動しました。魔王がこちらに迫ってくるようで、美しさよりも怖さが勝っているように感じました。
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