17
翌朝。やわらかな朝日がカーテン越しに差し込む静かな部屋。エリシャはまどろみの中でゆっくりと瞼を開き、ぼんやりと天井を見上げた。昨日の出来事が夢だったかのように思えて、一瞬現実感が揺らぐ。
しばらくして、ふと隣のベッドに視線を向ける。そこにいるはずの少年の姿が見当たらないことに気づき、エリシャは慌てて身を起こした。
「あれ……ウォロくんは……?」
寝ぼけ眼のまま、辺りをぐるりと見回す。だが、部屋のどこにもウォロの姿はなく、彼が使っていた毛布もきちんと畳まれていた。
「先に帰ったわ。魔国に戻って、色々とすることがあるみたい」
「そ、そうでしたか……最後にご挨拶したかったのですが……」
ロエナの言葉に、エリシャはしゅんと肩を落とし、手元で小さく指をもてあそぶ。その空気を変えるように、ロエナはすっと表情を引き締める。
「さあ、そろそろ宿を出るわよ。迎えの馬車も来る頃だろうし」
「迎え……?ロエナ様、馬車を手配してくださったのですか?」
エリシャはきょとんと目を丸くした。
「いいえ?でも、来るから」
ロエナは不敵な笑みを浮かべて答える。その自信たっぷりな口ぶりに、エリシャはますます首を傾げた。
朝の澄んだ空気の中、ロエナとエリシャは宿を出た。ひんやりとした空気が頬を撫でる。荷物を持って石畳の道に立つが、周囲を見回しても馬車の姿はどこにもない。
エリシャは不安げに辺りを見渡し、首を傾ける。ロエナは微笑みながら、空を仰ぐだけで何も言わない。そのとき、不意に背後からざわざわと人の気配が近づいてくるのが分かった。
振り返ると、そこには村人たちの一団が立っていた。皆どこか決まり悪そうに目を伏せている。一人、村のまとめ役らしき男が意を決したように前へ出ると、深く頭を下げた。
「ロエナ様……聖女エリシャ様……それに、魔族の彼にも……。村の者一同より、改めて感謝を申し上げます。……そして、大変なご無礼、ひどい仕打ちも……どうか、お許しください。心からお詫びいたします」
男の声は、朝の静けさに染み込むように低く、真摯だった。彼の言葉に続くように、他の村人たちも次々に頭を垂れる。誰もが後悔と謝意をその身に纏っていた。
その光景を目の当たりにし、エリシャは目を大きく見開いた。
「な……何を今さら……!謝罪が遅すぎます!ウォロくんはもう居ないのに……!」
エリシャは悔しさと悲しさを隠しきれず、声を震わせて叫んだ。その肩を、ロエナがそっと優しく包み込むように手を置く。
「エリシャ」
ロエナは静かに、しかし毅然とした表情でエリシャを制し、ゆっくりと村人たちの前へと歩み出る。
「まずは、こうして謝罪の言葉を伝えに来てくださったこと、その誠意に感謝いたします」
穏やかだがどこか芯の通ったロエナの声に、村人たちはおそるおそる顔を上げた。まだどこか不安げな目に、後悔と罪悪感が滲んでいる。
「……信じることも、疑うことも、人として当然の感情です。どちらが悪いということではありません。ですが、今回はお互いに慎重になりすぎて、真実を見失いかけた───それだけのことです」
ロエナの静かだが力強い声が、しんとした空気に響く。その凛とした立ち姿に、村人たちはしばし呆然と彼女を見つめていた。どこか噂で聞いていた〝悪女〟の面影は、そこには微塵もなかった。憶測や偏見で塗り固められてきた虚像が、静かに崩れ落ちていくのが感じられる。
その時───。
甲高い馬のいななきが、空気を裂いた。場に張り詰めていた静けさが一瞬で動き出す。ロエナは一瞬だけ遠くを見やり、やがてにっこりと微笑む。
(……来たわね)
エリシャも気配を感じ、ぱっと顔を上げた。二人で振り返ると、朝日に輝く王家の紋章が燦然と刻まれた馬車がゆっくりと村道に入ってくるのが見えた。美しく磨かれた車輪、堂々とした馬の足取り。前後を固める王宮騎士団の鎧が、朝日を反射して眩しく光る。
村人たちもざわつきながら視線をそちらへ向ける。やがて馬車が止まり、騎士たちが一糸乱れぬ動きで扉を開ける。その中から、見慣れた青年───ヴィルヘルトが姿を現した。
「……ん?ロエナ?それにエリシャ様まで……! 二人とも……祈りの巡礼に行ってたはずじゃ……?」
ヴィルヘルトの目には明らかな困惑が浮かんでいた。
ロエナはそんな彼の様子を見て、内心ひそやかな満足感を覚えた。
どうにか間に合ったようね───。
安堵と余韻を胸に、ロエナはそっと目を伏せ、小さな微笑みを漏らす。
「異変なら、もうすっかり解決しましてよ」
さらりとした口調で、まるで何でもないことのように言い放つ。その余裕たっぷりな態度に、ヴィルヘルトはますます目を見開いた。
「はっ……?」
「それにしても……はあ……わたくしたち、慣れない戦闘をした所為でとっても疲れましたわ。ね、エリシャ?」
ロエナはエリシャに軽く微笑みかける。エリシャも最初は驚いたようにヴィルヘルトを見つめていたが、すぐにロエナの意図を察し、小さくうなずいた。
ロエナはまるで散歩の帰り道のような軽やかさで馬車に歩み寄る。その背中にはもう迷いはない。スタスタと馬車のステップを上がり、中へと入っていく。エリシャもそれに続く。
馬車の中でロエナは悠然と座席に腰を下ろし、窓から外の様子を眺める。ヴィルヘルトは混乱したまま、馬車の扉の前に立ち尽くしていた。
「ま、待ってくれロエナ。異変が解決したって……どういうことだ?一体何があったんだ。ちゃんと説明してくれ」
焦りと疑念が入り混じった声で問いかけるヴィルヘルト。その真摯な眼差しに、ロエナは一瞬だけ柔らかな視線を向けた。
「何があったかは……村の方々にお聞きするのが一番かと存じますわ。彼らこそ、すべての証人ですもの」
ロエナは静かにそう答え、窓越しに朝の陽光を受けて微笑む。その表情は静かな自信と誇りに満ちていた。
外では、村人たちがそっと集まってくる。ヴィルヘルトはしばらく逡巡していたが、やがて深く息をつき、村人たちの方へ歩み寄った。
───馬車の中、ロエナはそっと目を閉じた。長い夜が明け、静かな勝利の余韻が、心の奥でやさしく広がっていくのを感じていた。
♦︎
村の広場を後にして、ロエナとエリシャの乗った馬車がゆっくりと王宮へ向けて走り出す。他の騎士団や村人たちを残し、二人だけの静かな空間が広がった。
しばしの沈黙。車輪が石畳を踏みしめる音と、時折窓から差し込む朝の光が、昨夜の疲労をほんの少し和らげてくれる。だがロエナの心は、落ち着くどころか次なる策で忙しい。やるべきことは、まだ山ほど残っている。これで終わりではない。ヴィルヘルトの処刑を回避しただけ───ルベルトを王の座から引きずり下ろすという大きな目的が、まだその先に待っているのだ。
そのとき、不意にふわりとした空気の揺らぎを感じてロエナは視線を向けた。向かいの座席で、エリシャがにこにこと眩しい笑顔をこちらに向けているのに気がつく。
「どうかしたの?」
ロエナが不思議そうに声をかけると、エリシャは慌てて身を縮めた。
「あっ、い、いえ!すみません、つい……なんだか嬉しくて……」
「嬉しい?」
ロエナは首を傾げた。エリシャは恥ずかしげに頬を染め、うつむいたまま、それでもはっきりとした声で答えた。
「はい。私のせいで……ロエナ様が、世間から悪女だって噂されるようになって……本当は、こんなに優しい方なのに……それがすごく、悔しくて、申し訳なかったんです。でも今回、村の方々にだけでも、ロエナ様の本当の姿を知ってもらえた。それが、すごく嬉しくて……」
そう言うと、エリシャは窓の外に視線を移す。彼女の目は遠い過去を見つめているようで、そこにはささやかな安堵と、ほんの少しの切なさが滲んでいた。
「……エリシャ……」
ロエナはそっと呟き、唇を歪めた。
(馬鹿ね)
心の中で、思わずそう呟いてしまう。
(あなたに優しくしたのは、全部───計画のため。貴女をルベルトの支配から救ったのも、必要だったからよ。わたくしが優しい人間だからじゃない)
本当は打算で動いた。そのはずだった。けれど、なぜだろう。エリシャのまっすぐな瞳に見つめられると、心の奥に小さな棘が刺さる。
───……それなのに。
ロエナはふと、回帰の夜のことを思い出す。血のにじむような決意を宿したエリシャの横顔。禁術だと知りながら、誰にも頼らず、一人きりで過去を変えようとした、あの必死な姿。
あの夜、エリシャの運命も、そして自分の運命も、確かに変わったのだと、ロエナは改めて胸の奥で感じていた。
───ねえ、エリシャ。わたくしはね、初めて人に感謝されたの。優しい、なんて初めて言われたわ。
王妃になるためだけに選び取ってきた人生には、そんな言葉など一度も必要なかった。ただ、強くあろうとした。冷たく、計算高くあろうとした。褒められるより、恐れられるほうが生き残れる世界だったから。
……でも。
こんなにも澄んだ心を持つ人がいる。その人から向けられるまっすぐな感謝の言葉が、これほどまでに自分の胸を、静かに、けれど確かに救ってくれるものだなんて───ロエナは、知らなかった。
ふと視線を落とし、膝の上で組んだ自分の手を見つめ、ロエナは静かに、深く息を吐いた。
(エリシャ……あなたには、幸せになってほしいと……わたくしは心から、そう思ってるみたい)
ロエナの胸に灯ったものは、確かな決意だった。利害や計算を超えて───ただひとりの幸福を心から願う、真っすぐで、揺るぎのない想い。
───ロエナの中に残っていたエリシャへの憎悪は、もう完璧に消え去っていた。
それに気づいた瞬間、ロエナの心はほんの少しだけ、あたたかく、軽くなったような気がした。
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