16
その晩、村人たちはロエナたちのために、村で一番上等な宿を用意してくれた。年季の入った木造の宿屋だったが、広い窓からは柔らかな灯りが漏れ、真新しいシーツと厚手の毛布が用意されている。村の人々が手分けして用意した夕食も、パンや煮込み、甘い焼き菓子まで並び、小さな村にしては驚くほどのご馳走だった。
夜が更ける。窓の外には静かな月明かりが村を照らし、時折吹く夜風が木の葉をさらさらと揺らしていた。
寝室では、エリシャがすやすやと穏やかな寝息を立てている。ロエナもベッドに横になりながら、夜の静けさを感じていた。だがふと、部屋の中にかすかな気配の揺らぎを察知する。
そっと目を開けると、薄暗い中でウォロがベッドから身を起こし、足音を忍ばせて部屋を出ていくのが見えた。
(……もう行くつもりかしら)
ロエナは無言で起き上がり、羽織をまとってウォロの後を追う。廊下を抜け、静かに軋む扉を開けて、冷たい夜風が流れ込む外へ出る。
石畳の路地には、宿の窓から漏れる橙色の光。夜空には星が瞬き、どこか心細い静けさが辺りを包む。視線の先に、ウォロの背中がぽつんと見えた。空を見上げて、村の静寂さに視線を滑らせていた。
「もう行くの?」
ロエナは優しく、けれど確かな声でウォロの背中に問いかけた。
ウォロはビクリと肩を震わせて足を止める。まるで見つかってはいけない秘密を暴かれた子供のような動揺が、暗がりの中でもはっきりと伝わった。
「……なんで分かった」
「わたくし、人の気配には敏感なの」
ロエナは夜気を軽やかに切り裂きながら、ふふっと小さく笑った。そしてすぐ、眉を下げてウォロを見つめる。
「本当にいいの?村の方々から謝罪も、お礼の言葉さえもらってないじゃない」
「いらない」
ロエナが問いかけると、ウォロは静かに、けれども毅然とした口調で言い切った。
「そんなものが欲しくてやったわけじゃない。言っただろ?義務だ。制約があるから仕方なく、だ」
言葉の一つひとつが、静かな風に乗って広がっていく。ウォロの鉛色の髪が、淡い月明かりにきらりと光りながら、そよそよと揺れた。その様子は、どこか凛々しくも、どこか儚げだった。
しばらく黙ったあと、ウォロはほんの僅かに口元を緩めた。ふと、やわらかい笑みがこぼれる。
「……それに」
少年の表情に、かすかな恥じらいと照れくささが混じる。
「ロエナが、『頑張った』って言ってくれた。……認めてくれた。僕のしたことを、ちゃんと見ていてくれた。それだけで、もう充分だったんだ」
ウォロは、ほんの一瞬だけロエナをまっすぐに見つめた。しかしその視線はすぐに伏せられ、長い睫毛が頬に影を落とす。耳の先がかすかに赤くなっているのが、無防備な本心の証だった。
「だから、僕はもう行くよ。あんまり長くここにいたら……兄さんが心配するから」
その声は、どこか急くようで、それでいて名残惜しそうでもあった。
「そう……あなたのお兄様、本当に弟思いなのね」
その言葉を受けて、ウォロの表情が一変した。先ほどまでの戸惑いや恥じらいが吹き飛び、ぱっと明るい光がその顔いっぱいに広がる。
「ふん、そうさ。ルクルーシュ兄さんはね、魔国で一番優しくて、誰よりも強くて、かっこよくて……それに、魔国を束ねる王様なんだ。本当にすごい魔族なんだよ」
語るうちに、その声はどんどん弾みを増していく。無邪気な敬愛と、胸を張るような誇らしさが全身から溢れ出て、まるで自分自身のことを褒められているかのようだった。
「ルクルーシュ……」
ロエナは、その名を心の奥でゆっくりと転がすように反芻した。
(やっと……その名前が出たわね)
心の中でそっとほくそ笑んだ。ついに、長らく探していた糸口に指がかかったという静かな達成感と、今後への期待がないまぜになったような、妙な高揚が胸に湧き上がる。
そしてふと、ロエナは思いついたように、少し芝居がかった調子でウォロに問いかける。
「まあ……!ウォロ、あなた、魔王陛下の弟君だったの……?」
「え?……あっ!」
その言葉に、ウォロの顔色がみるみるうちに変わる。驚きと焦りがない交ぜになった表情で、はっと自分の口を手で覆い、目を不自然に泳がせ始める。
(ふふ、大丈夫よ。すべて知っているもの)
静かな愉悦を胸に、ロエナはひとつ、くすりと唇を緩めた。彼女の目元には、悪戯っぽい光が浮かぶ。
「それなら、これからはウォロ殿下とお呼びした方がよろしいですか?」
「やめろよ今更気持ち悪い……敬語もいらない」
わざとらしく丁寧な所作で、ロエナが頭を下げてみせると、ウォロは不機嫌そうに眉をしかめ、小さく唸った。
「───でも……それなら、ちょうどよかったわ」
「……? 何が?」
ウォロが問うと、ロエナはにこやかに微笑んだ。何でもないことのように、けれどもその瞳の奥にはひそやかな決意の色が宿っている。
「ウォロ、わたくし───魔王陛下に、つまりあなたのお兄様にお会いしたいの」
その一言に、ウォロの動きがぴたりと止まった。目を大きく見開いたまま、口をぽかんと開けて絶句する。しばし硬直したあと、彼はあわててロエナから距離を取った。
「なっ……!何を言い出すんだよ急に……!ま、まさか……僕を助けたのも、兄さんとのコネを作るため……?」
「いやね、そこまで打算的じゃないわよ」
あっけらかんと笑って、ロエナは手をひらひらと振る。
───まぁ、半分は正解なのだけれど。
胸の内では、ひっそりと呟く。思惑がまるきり無欲なものではないことは、自分自身が一番よく知っている。
ロエナはひとつ息をつき、すっとウォロの方へ歩み寄った。
「わたくし、深淵胎を討つ計画を立てているの」
その言葉に、ウォロの顔がはっきりと強張る。
「……そのために、魔王陛下───あなたのお兄様のお力が、どうしても必要なの」
ロエナはまっすぐにウォロの目を見つめ、静かに言い切る。その声には揺るぎのない重みがあった。
「ロエナ……制約の話を聞いて、魔国に哀れみをかけているのなら、やめておいた方がいい」
ウォロは苦しげに眉を寄せる。握りしめた拳が小さく震えた。
「たしかに、深淵胎の残滓は倒せたけど……本体は、あれの比じゃない強さなんだ」
「分かっているわ。けれど……あんな話を聞かされて、何もせずに日常に戻ることなんて、わたくしにはできないのよ」
ロエナは優しく微笑む。その微笑みには、強がりや無謀さではなく、確かな意思と優しさが込められている。
「お話をさせていただくだけでもいいの」
ロエナは静かにそう告げ、ウォロの返事をじっと待った。言葉の端に滲んだ本気と諦めきれない願いが、彼女の瞳に揺れる。
ウォロは小さく唸り、ぐぬ、と唇を噛んで考え込む。やがて彼はふっと息を吐き、決心したようにロエナに背を向ける。
「……分かったよ。兄さんに聞いてみる。ロエナには借りもあるしね」
「ありがとう、ウォロ」
ロエナは微笑み、やわらかく礼を述べる。その声音には、ウォロの決断への敬意と、ほんの少しの親しみがこめられていた。
「じゃあ、また……兄さんの返事がわかったら、伝えに来るよ」
ウォロは照れ隠しのように小さく手を振る。
「えぇ、またね」
ロエナも穏やかに手を振り返す。その一瞬、二人の間に静かな信頼が生まれたような、不思議な安堵が広がった。
その瞬間だった。ウォロの体を淡い光が包み、空気がわずかに揺らぐ。転移魔法の痕跡がきらきらと光を弾き、ウォロの姿は一瞬でかき消えた。風だけが、そこに彼の存在を名残惜しむように残っていた。
……しんとした静寂。ロエナは一人、その場に立ち尽くす。髪をなでる風が、彼女のスカートの裾をふわりと持ち上げた。
やり遂げたことの余韻と、これから始まる戦いへの予感が、胸の奥に静かに広がる。
───ウォロは救った。これでヴィルヘルトが処刑される未来は、確かに消えたはずだ。
あとは……そうね。ルベルトのくだらない英雄譚───その偽りの伝説を、わたくしの手で終わらせられれば。
ロエナは風に目を細め、遠い空を見上げた。その瞳には、新たな覚悟の光が宿っていた。
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