12
「……深淵胎」
やがて低く呟かれたその名は、辺りの空気すらひやりと震わせるほど、重く不可解だった。ロエナはまるで初めて聞く古い呪文のように、その言葉を反芻する。眉間に皺を寄せ、小さく首を傾げる。
「深淵胎……?」
問い返すロエナに、青年はどこか遠い目をしたまま、静かに語り始めた。
「人間の穢れから生まれる存在だ。その力は桁違いで、どんな魔法も通じないから、僕たち魔族ですら倒せない。でも深淵胎は、ただひたすら膨張を続ける……」
淡々と語るその声には、疲れ果てた諦念と、微かな恐怖が滲んでいた。
「普段は魔国で封じているけど、たまに抑えきれなくなった深淵胎の残滓が、こうして人間の国の人里に流れてしまうことがあるんだ。だから……時々こうして僕が処理しに来るんだ」
回帰前の記憶がロエナの脳裏をよぎる。
あのとき、強大な力を持つ魔族が、なぜ人間の村人に殺されるほどまでに消耗していたのか。すべてはこの〝深淵胎〟との死闘の果てだったのだろう。
つまり、村で起こっていた怪異や異変は、この青年の所為ではなく、彼が必死に相手取っていた深淵胎の残滓の仕業だったのだ。
(なるほど……ようやく筋が通ったわ)
ロエナは静かに頷いた後、視線を再び青年の顔に戻す。
「それにしても……魔族であるあなたたちが、何故人間のためにそんな危険を冒すの?」
ロエナはゆっくりと言葉を選びながら、真正面から問いかけた。彼女の眼差しは真剣そのもので、決して責め立てるものではなかった。
しかし、その問いに対し、青年は堪えきれないものが溢れたように、鋭く声を張り上げた。
「好きでやってるわけじゃない!」
その一言に込められた痛みは、鋭い刃のように空気を震わせた。ロエナは眉をひそめることも、目を逸らすこともせず、静かに青年を見つめた。
「なら、どうして?」
ロエナは人間と魔族、互いに嫌悪し合う歴史の重さを感じながらも、あえて踏み込んだ。深淵胎が人間の穢れから生まれるのなら、魔族がそれを必死に封じる道理など、どこにもないはずだ。
青年は、今度はロエナの視線から目をそらし、口元をきゅっと引き結んだ。戸惑いと、何か大きなものを隠そうとする気配。やがて、しぶしぶと吐き出すように呟く。
「……兄さんが、人間にこのことを言ってはいけないって」
青年の言う、兄───とは、間違いなく魔国の王を指していた。しかし、ロエナは知らぬふりをして微笑みかける。
「……他言はしないわ」
その微笑みは、どこまでも無邪気で、けれど揺るぎない信頼に満ちていた。
そして、洞窟内に沈黙が落ちる。外からは、遠く森を渡る風の音だけが微かに聞こえてきた。
やがて、青年はぽつり、ぽつりと言葉を紡ぎ始める。その声音には、古い傷跡をなぞるような痛々しさがあった。
「……大昔のことだ。魔国はかつて、バインベルクに……決して償いきれないほどの過ちを犯した。何があったかは、今となっては僕たちも詳しくは知らない。ただ、それが……語るに値しないほどの恥なのは、間違いない」
ロエナは黙って、青年の言葉を受け止める。その目には、相手の告白をどこまでも誠実に受け止める覚悟があった。
「それで、魔国とバインベルクの間に〝制約〟が結ばれた。深淵胎が世界を蝕むとき、魔国は自らの命を削ってでも、それを抑え、ブルクハルトを守らねばならない……見返りも、理由も何もない。ただ、そう定められたから」
青年の指先が、膝の上で小さく震える。
「その制約は、初代魔王が自らの魔術で結んだものだ。王権と魂を媒介にした、絶対の呪い……王家の血筋である限り、現魔王でさえ、その運命からは逃れられない」
青年は遠くを見つめ、吐き捨てるように、けれどどこか諦めたような声音で続けた。
「……だからだよ。好きでやってるんじゃない。やらなきゃいけないんだ。僕が、僕たち魔族が背負わされている───呪いみたいなものだ」
その最後の言葉には、深い諦念と、それでもなお逃げられない血の重みが滲んでいた。
焚き火の炎が、ゆらりと青年の横顔を照らす。彼の声はかすかに震えていて、握り締められた拳に爪が食い込んでいるのが見えた。
「……僕は、人間が嫌いだ」
吐き捨てるような言葉。けれどその声は怒りよりも、悲しみややるせなさを含んでいた。
「勝手に想像して、勝手に悪者だって決めつけて……自分たちが見たいものだけ見て、都合の悪いことは全部、魔国や魔族のせいにする」
堪えきれずに握られた小さな拳。炎の明滅が、わずかに濡れた睫毛を照らす。
「迫害して、追い払って……僕たちがどれだけ必死に抑えてきたかなんて、知りもしないで!」
言葉の尾はかすれ、青年は深く俯いた。その肩が、小刻みに震えている。悔しさと怒り、やり場のない絶望が、焚き火の上にじっとりと垂れ込める。
ロエナは、すぐには口を開かなかった。焚き火をはさんで、ただじっと青年の横顔を見つめる。
慰めも、否定も、安易な言葉も投げかけず、黙ってその沈黙ごと受け止めていた。
───知っている。その感情を。その理不尽さを。
己もかつて、悪女と罵られ、裏切られ、手を差し伸べられることなく孤独と憎悪の中で過ごした日々を思い出す。回帰前の痛みが、静かに胸を締め付けた。
「……ええ」
炎の揺らめきが、ロエナの顔に淡い陰影を落とす。彼女は静かに唇を開いた。
「それは、とても理不尽ね」
言葉は静かに、けれど確かに火を灯すように焚き火の向こうへ届く。
「何も知らないまま、勝手に像を作られて……悪者にされる」
その言葉に、青年がわずかに顔を上げた。紅い瞳が、炎を映して微かに揺れる。
「理由を聞かれることもなく。弁明する機会すら与えられないまま、裁かれる」
ロエナはふっと小さく笑う。
それは苦さを滲ませた自嘲の笑みだったが、同時に、同じ痛みを知る者の優しさがあった。
「……よく、分かるわ」
しんと静まる夜の帳の下、二人を隔てていたものが、わずかに溶けた気がした。誰にも理解されない苦しみが、今だけは、そっと寄り添っていた。
「あなたは、よく頑張ったわ。バインベルクの民として、心から感謝させてちょうだい」
ロエナは、焚き火の灯りに揺れる青年の横顔をじっと見つめ、柔らかな微笑みを浮かべて声をかけた。その言葉は、ささやかな温もりとともに夜気に溶けていく。
青年は、その一言をずっと待ち望んでいたかのように、一瞬、ぱっと瞳を見開いた。燃えるような紅の瞳に、かすかな光が宿る。けれど、その表情はすぐに拗ねたように陰り、そっぽを向いてしまう。
「……魔族の僕の言葉をすぐ信じるなんて、警戒心ってものがないの?これが全部、アンタを騙すための作り話かもしれないのに」
「でも、本当なんでしょう?」
ロエナは微かに肩をすくめ、いたずらっぽく笑う。確信めいた優しさが、言葉の端々に滲む。
青年は返す言葉を失い、唇を引き結ぶ。何も言えず、ただ焚き火の明かりの中でそっと頬を赤らめるだけだった。
ロエナはそれ以上追及せず、静かに話題を変えた。
「話してくれて、ありがとう。……そういえば、自己紹介がまだだったわね」
わざと肩肘張らずに、いつもの軽やかな調子で名を告げる。
「わたくしはロエナ・エディノース。あなたのお名前は?」
焚き火の炎が、ロエナの髪を白銀に照らし出す。その名は夜の静寂の中に静かに響き、空気に新たな緊張感をもたらした。
「……ウォロ」
小さく、しかし確かに名乗るその声は、頼りなくも芯のある響きだった。
「ウォロ……ね」
ロエナは彼の名を口の中で転がしながら、心の中で密かにほくそ笑んだ。
ルベルトの英雄譚───あの忌々しい伝説を、ロエナはいつか自らの手で打ち砕くつもりでいた。そのためにも、このウォロが生き延びる未来を手繰り寄せる必要がある。
焚き火の音だけが、夜の静寂を優しく刻む。
ロエナはそっと目を細め、青年の横顔をもう一度見つめた。その視線には、ただの共感でも、憐憫でもない、静かな決意が宿っていた。
───わたくしが、きっとその未来を変えてみせる。
夜の闇の奥で、ロエナの決意がそっと熱を帯びる。
それを知らず、ウォロは焚き火の炎を見つめ続けていた。
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