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 村に夜の帳が下りる頃、ロエナとエリシャは村はずれの小さな宿に身を落ち着けていた。


 日中、村人たちから話を聞いて回ったが、どの証言も同じようなものだった。

 「昨夜も畑が真っ黒に枯れていた」「井戸の水が濁っている」「家畜が突然暴れ出し、夜な夜な黒い影を見た」───。


 誰もが顔を曇らせ、決まって魔族のせいではないかと囁き合う。


 ロエナは窓辺に腰かけて、そんな村人たちの不安と、己に課せられた責任の重さに思いを巡らせていた。

 この異変を一刻も早く解決しなければならない。

 ヴィルヘルトが到着する前に。

 彼が処刑という最悪の未来を辿らぬためにも、時間はわずかしか残されていない。


 無意識に窓の外へ目を遣る。


 夜の村は、不自然なほど静まり返っている。どこか、死んだような空気だ。ふと、軋むような音とともに、視線の端で何かが動いた気がした。


「……?」


 ロエナは身を乗り出し、じっと夜の闇を凝視する。


 民家の屋根。その瓦の上を、何か黒いものが這うように動いている。

 月明かりにすら溶け込むほど、暗く、不定形で……まるで生きた影のようだった。

 それは屋根の端から端へと、音もなく這いずり、時折、村の中心を見下ろすように蠢いている。


 ロエナの胸の奥が、氷のように冷たくなる。

 昼間に村人たちが語った影───それが、ただの気のせいでも、集団の思い込みでもないことを、今まさに目の当たりにしていた。


 ロエナは窓辺から目を離さぬまま、静かにレイピアの柄へ手を伸ばした。

 外は漆黒の闇が支配し、村の家々はまるで息を潜めるように静まり返っている。その沈黙のなか、不吉な影の気配がじわりと広がっていた。


「エリシャ、少し外の様子を見てくるわ。あなたはここで待っていて」


 その言葉は冷静さを装っていたが、ロエナの声にはわずかな緊張が滲んでいた。

 エリシャは驚いたようにロエナを見つめ、思わず身を乗り出す。


「え……?なにか、あったのですか……?」

「異変の正体かもしれないものを見かけたの。だから、念のために」


 ロエナは慎重に答え、エリシャを安心させるように微笑みかけようとする。


「なら、私も一緒に行きます」


 エリシャはきっぱりとした声で言った。その目は不安よりも決意に揺れている。


「きっと、私にも何かできるはずです。ロエナ様の力になりたいんです」


 そのまっすぐな思いに、ロエナは一瞬だけ迷いを見せた。けれど、ここで否定してもエリシャの心は変わらないだろう。


「……分かったわ。でも絶対にわたくしから離れないこと」


 二人は互いに短くうなずき合い、夜の静寂を切り裂くように、静かに戸口へと向かった。




♦︎




 民家の壁際に張り付くように伸びていた影が、不意に屋根の上で途切れていることに気づき、ロエナは首を傾げて屋根を仰ぎ見た。だが、そこにはすでに何の気配も感じられない。ただ夕暮れの光だけが、静かに瓦を照らしていた。生温い風が一度吹き抜けた後のような、妙な静けさ。


 ……もう、動いた後だろうか。


 ロエナの脳裏に、村人の不安げな声が蘇る。


『村の外れや森の中に、得体の知れない影が──』


 あの言葉が、今になって現実味を帯びてくる。

 ロエナはじっと森の方へと目を凝らした。木々が不気味に揺れているわけでも、獣の遠吠えが聞こえるわけでもない。それなのに、森の入り口はまるで何かを隠し、口を閉ざす生き物のように、ひどく重苦しい気配を放っていた。


「……森の方へ逃げたのかもしれないわ。エリシャ、向かいましょう」


 静かにそう告げると、エリシャは小さく頷き、二人は並んで森の中へと踏み入った。


 森に入った途端、空気が変わった。昼の名残が消え、外の世界とは違う湿度と重さに包まれる。腐葉土の匂い、息を潜めるような虫の声、そして───地面の下から伝わる、かすかな震え。


 エリシャは思わず顔をしかめ、立ち止まる。


「……ロエナ様、なんだか変です。地面が……脈打ってるみたい」


 ロエナも同じ異変を感じていた。土の下から、ごく微かに規則的な振動が伝わってくる。歩みを進めるにつれ、その脈動はだんだんと強く、はっきりしていった。まるで森そのものが、何かに反応して呼吸しているようだ。


 慎重に、森の奥へと進んでいく。木々の合間を縫い、音を立てぬよう葉を踏みしめながら進むと、やがて不自然な物音が耳に届いた。


 ───バサッ。


 息を呑み、ロエナは手でエリシャを制した。そして、二人は素早く倒木の陰に身を潜めた。枝葉の隙間から、そっと視線を送る。


 そこには、異様な光景が広がっていた。


 黒く、形容しがたい〝それ〟は、まさに闇が凝縮した塊。ねっとりとした闇の触手が地を這い、幾重にも蠢きながら、マントをかぶった一人の人影を執拗に攻撃していた。

 人影は明らかに逃げることで精一杯で、身を翻すたび、マントの裾が泥にまみれる。武器らしいものは見えない。何度か地面に手をつき、もはや膝もまともに動かない様子だった。


「ロエナ様……!このままじゃあの人が……助けに行かないと!」


 エリシャが思わず声を上げ、森の闇へと飛び出しかけた。


「今行っては駄目」


 ロエナは即座にエリシャの肩を掴んで制止する。

 一歩も動かず、じっと前方の異形を観察した。

 ───あの影、何かを庇っている……?

 触手のうねり、動きの軌道、その中心にいる人影への間合いの取り方。周囲からの干渉を拒絶するかのように、その身を包み込んで守っている。


 冷静に、呼吸を整える。森の湿った空気が肺の奥まで満たされる。

 一瞬、触手が緩んだ。その瞬間を、ロエナは逃さなかった。


 踏み込みは疾風のごとく。森の腐葉土を跳ね、静かな剣閃が闇の塊へと一直線に突き立つ。

 レイピアの細身の刃が、影の本体───いや、庇うように広げられた黒い膜を、深く貫いた。


「……!」


 手応えはある。だが、影は呻くこともなく、淡々と触手を蠢かせるだけだった。


 庇うような動きをしていた為、そこが弱点だと踏んだが、予想は外れる。


 逆にロエナの間合いが乱れた一瞬、影が反撃に転じる。

 複数の触手が地面をえぐり、勢いよくロエナの脚元と側面へ同時に襲いかかった。


 ロエナは即座に体を捻り、剣で振り払いながら後方へ飛び退く。その刹那、黒い触手が彼女の肩口へ鋭く迫る。


 ───バチン!


 何かにぶつかったような音とともに、触手が弾き飛ばされた。

 ロエナはすぐに体勢を立て直し、レイピアを再び構え直す。しかし、その時だった。


 ───突然、空気が引き締まり、黒い影が一気に淡く揺らめいた。


 触手が解けるように溶け、闇が霧のように散っていく。あれほど猛り狂っていたはずの影が、次の瞬間にはまるで煙のように森の地表から消え去っていた。


「……っ、消えた……?」


 息を詰めるロエナの視界の先に、ただ一人、マントを深くかぶった人影が残されている。

 人影の肩は大きく上下し、息も絶え絶えの様子だ。フードの奥からは表情が見えない。


「あなた……」


 ロエナは慎重に声をかけようと、一歩前へ進み出る。


 その瞬間───。


 人影の膝が崩れた。まるで糸が切れた人形のように、パタリと地面へ倒れ込む。


 影が消えた直後、ロエナとエリシャは同時に駆け寄った。森の地面に倒れ伏したマントの人影───呼吸は浅く、肩が小刻みに震えている。


 ロエナは咄嗟に脈を取り、顔色や呼吸の速さ、体の震えを見極める。命に別状はなさそうだが、極度の疲労と衰弱が見て取れた。


(呼吸が浅い……早く手当てしないと)


 ロエナはすぐさま後ろのエリシャを振り返る。


「エリシャ、治癒を頼める?」

「は、はい!」


 エリシャは膝をつき、両手をそっと人影の胸元へかざす。淡い光がエリシャの掌から零れ落ち、静かにマントの人物を包み込む。

 森の空気が一瞬、澄んだものに変わったような錯覚さえ覚える。


 呼吸は次第に安定し、胸が静かに上下し始めた。

 ロエナは安堵の息をつきつつ、倒れている人物の全身を観察する。

 背丈は自分よりやや低い。腕や手の甲はしなやかだが、しっかりとした筋肉がある。手のひらには小さな傷が幾つか走り、村での労働者というより、どこか鍛えられた印象を受ける。


 ロエナは慎重にフードの端に指をかけた。


 ───その瞬間、夜気を切り裂くように、エリシャが小さく息を呑む音が響いた。


「……!」


 森の木漏れ日がわずかに降り注ぎ、フードの奥に隠れていた顔があらわになる。

 目の前に現れたのは、年若い───しかしどこか気高さを纏った、整った顔立ちの青年だった。

 だが、それよりも目を引いたのは───。


 優美な曲線を描く尖った耳。

 額から真っ直ぐに伸びた、細く光沢のある角。

 どこかこの世界のものとは思えぬ、凛とした存在感。


「……ま、魔族……っ」


 エリシャの声は震えていた。

 彼女は思わず数歩後ずさり、ロエナの背に縋るように立ち尽くす。


 ロエナ自身も、思わず息を呑む。

 間近で見る魔族の容姿は、どこか神秘的で、そして人間離れした美しさと脆さを同時に感じさせた。


 青年は気を失ったまま、静かに眠っている。長い睫毛が頬に影を落とし、淡い唇はかすかに開かれて浅い呼吸を繰り返している。


(……やっと、見つけた)


 ロエナの心の奥底で、何かがカチリと音を立ててはまった気がした。

 間違いない。目の前にいるこの青年こそ───かつてヴィルヘルトが処刑されるきっかけとなった、あの魔族。


 魔国の王の血を引く、王弟で間違いなかった。


「そ、そちらの方……魔族ですよね……?」


 エリシャはわずかに声を震わせながら、ロエナの背に問いかけた。森の薄明かりの中、彼女の瞳は大きく見開かれ、恐怖と警戒、そして同時に好奇心の色も浮かんでいる。


 ロエナは一度だけ静かに頷き、短く答える。


「……ええ、そのようね」


 恐れる様子もなく、ロエナは地面に倒れたままの青年のそばにしゃがみ込んだ。土と草の匂いが混じる森の空気の中、ロエナはそっと青年の身体を抱き起こす。

 その体は思いのほか軽く、無防備なほど力が抜けている。肩越しに覗く横顔は、眠るように静かで、戦いの直後とは思えぬほど穏やかだった。


「どうするのですか……?」


 エリシャの問いに、ロエナは腕の中の青年を見下ろしながら、毅然とした声で答える。


「このまま森に置いておくわけにはいかないわ。彼が村に災いをもたらした張本人なのか、それとも巻き込まれた被害者なのか……どちらにしても、話を聞かずに判断はできないもの」


 そう言うと、ロエナはしっかりと青年の体を抱き直し、立ち上がった。


「村に戻りましょう。まずは彼を手当てして、話を聞くことが先決よ」

「……そうですね」


 ロエナの決然とした背中を、エリシャは追いかけるようにしてついていった。





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