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鋭利な刃をぎらつかせる処刑台の下、ロエナ・エディノースは冷たい石畳の上に静かに跪いていた。
「顔を上げさせろ」
男の声は、氷の刃のように冷たく鋭利だった。命じられた騎士が、ためらいもなくロエナの髪を鷲掴みにした。
白銀のはずだった髪は、もはや乾ききった血と泥にまみれ、かつての艶やかさなど微塵も残っていない。乱暴に引かれ、頭皮が痛む。その痛みさえ、今のロエナにはどこか遠いものだった。
顔を上げると、視界の端が霞む。昔は宝石のように澄んでいた己の瞳も、今や灰色に濁り、死んだ魚のように生気を失っている。
「まさか、お前がこんな愚かな罪を犯すとはな……聖女を陥れ、挙げ句の果てに殺害を目論むなど……」
ゆっくりと告げる声の主───次期国王、ルベルト・バインベルク。その碧眼は、サファイアのように冷たく澄んでいる。だが、その瞳にロエナへの情愛や慈しみの色は、最後の最後まで浮かぶことはなかった。
(仮にも、かつては婚約者だった相手に向ける顔がそれなのね)
ロエナはぼんやりと、他人事のように思った。喉の奥で乾いた笑いがこぼれそうになるのを、必死に飲み込む。
「嗚呼……哀れだな、ロエナ。お前は何故それほどの才がありながら、こんな末路を選んだ?」
ルベルトの瞳には、侮蔑と嘲りが混じった色が浮かんでいる。
ロエナは、その視線を静かに受け止めた。頬についた血が、乾いて肌に張り付いている。
「……殿下は、ご自分の目がいかに曇っているか、お気付きにならないのですね」
唇の端を、ほんのわずかに持ち上げ、ロエナはかすかに微笑んだ。
「わたくしは聖女様を貶めた覚えも、殺害を企てた覚えも、一切ございません。事実も見極めず、その場の空気と感情に飲まれ、誰かの言葉に踊らされて判断を誤る……そのようなお方が国を率いる未来など、バインベルクの行く末も知れたものですわ」
言葉の棘は、鋭く会場の空気を裂いた。
「無礼者が!!」
怒声とともに、騎士の拳がロエナの頬を打った。鈍い音とともに頭が大きく揺れる。口の端が切れ、鉄錆の味が広がる。それでもロエナは、決して視線を逸らさなかった。
ルベルトは静かに眉をひそめ、怒りの色をその瞳に滲ませていた。
やがて、彼は腰の剣に手をかけ、鞘から刃をゆっくりと抜き放つ。淡い光が刃先を照らし、場の空気をさらに張り詰めたものに変える。
「ロエナ……そう焦ることはない。お前の首は、俺が誰よりも綺麗に落としてやる」
低く冷たい声で告げながら、ルベルトがロエナへと歩み寄る。
その時だった。
「お待ちください!」
切羽詰まった、けれど澄みきった可憐な声が響いた。場違いなほど清らかなその声に、誰もが一瞬動きを止める。
声の主は、亜麻色の髪を揺らして駆け寄る少女───エリシャだった。
百年に一度産まれるとされる、聖女の力を宿した少女。そして今や、次期国王ルベルトの傍らに立つ女。
かつてロエナが当然のように思い描いていた未来───王妃として玉座の隣に立つその場所を、奪い取った存在。
(───エリシャ!!)
ロエナは、鋭く彼女を睨み据えた。
その視線に射抜かれ、エリシャはびくりと肩を跳ねさせ、思わず一歩退く。まるで怯えた小鹿のように、全身を強張らせていた。
「嗚呼、エリシャ……」
名を呼ぶ声色が、露骨に変わる。
「ここに来てはいけないと言っただろう?お前に、こんな汚れたものを見せたくはない」
ルベルトはそう言って、ロエナには一度も向けたことのないほど柔らかな声で語りかけた。そして当然のようにエリシャの肩を抱き寄せる。
「わ、分かっています……!ですが……どうしても……!」
エリシャはルベルトの胸の中で、か細く震えた。その仕草はあまりにも庇護欲を掻き立てるもので、周囲の視線すら同情に傾かせる。
(演技がお上手ですこと)
ロエナは、口元にかすかな笑みを浮かべた。
(わたくしを陥れた張本人が、よくも聖女などと名乗れるものね)
ロエナは手が拘束されていなければ、今すぐその髪を掴んで引きずり倒したい衝動に駆られていた。
どれほどこの女に踏みにじられたか───その記憶が、鮮烈な憎悪となって胸を焼く。
「あ、あの……ルベルト様、お願いです……!」
エリシャは涙に濡れた目で、ルベルトの腕をぎゅっと掴んだ。頼りなげな震える声が、処刑場に痛々しく響く。
「どうか……どうかロエナ様をお許しになってはいただけませんか?」
(…………は?)
ロエナの目が驚愕に見開かれる。血走った瞳が、エリシャを射抜く。
この女、何を言い出すつもりなの───?
「わ、わたし……ロエナ様に、あんなことをされたこと、もう気にしていません。だから、どうか……命だけは───命だけは奪わないでください!」
エリシャは涙をこぼし、切実な声音でルベルトに懇願する。その姿はあまりにも健気で、場に居合わせた誰もが思わず心を動かされそうになる。
だが、その言葉を聞いたロエナは、愕然とし、そしてすぐに怒りの熱が湧き上がった。
(この女ッ!!!ここまでしておいて尚、わたくしを踏みにじる気なの!?)
ギリ、と奥歯を噛み締める。
(生き恥を晒せと?!わたくしを、これ以上辱めて楽しいの?!───殺された方が、百倍マシよ!!)
王妃という座も、自由も、誇りも奪い、挙げ句の果てには慈悲の名のもとに、命を弄ぼうというのか!!!!
ロエナの心の中に、黒い炎が静かに燃え広がる。
「エリシャ……お前は本当に、なんて慈悲深いのだろう。まるで女神のようだ」
ルベルトはうっとりと頬を紅潮させ、感嘆の息を漏らす。その声音にはロエナに向けたものとは比べものにならないほどの優しさが滲んでいた。処刑の瞬間を待ち望んでいた民衆さえも、健気に涙を流すエリシャの姿に一瞬心を奪われ、沈黙する。
しかし、ルベルトの表情はすぐに硬さを取り戻した。
「だがな、エリシャ……いかにお前が許そうとも、この女はお前の命を奪おうとした。その咎は、あまりにも重すぎる。国家の法をもってしても、決して許されることではない」
「そんな……!」
エリシャの声が震え、絶望が滲む。しかしその表情は、ルベルトの背後に隠れてロエナからは見えない。
だが、その先でせせら笑うエリシャの顔が容易に想像でき、激しい憎悪が再び胸を焼く。
そして、ルベルトがゆっくりとロエナの方に向き直り、冷酷な笑みを浮かべて告げる。
「エリシャの慈悲に感謝するんだな、ロエナ。お前の処刑は、三日だけ延ばしてやろう」
「……!」
一瞬の静寂。
だがすぐに、民衆たちの怒号が処刑台を包み込んだ。
───ふざけるな!
───こんな悪魔を生かしておくな!
───今すぐ首を刎ねろ!
罵声と怒りが渦巻く中、ルベルトが高らかに声を上げる。
「静まれ!───ロエナの処刑は三日後に延期する。その代わり……」
ルベルトの目が細められ、唇に冷ややかな笑みが浮かぶ。
「今この場で、舌を抜き、両腕を切り落として、見せしめとする」
ルベルトは微笑んだまま、非情な宣告を下す。その笑みは残酷で、どこまでも冷たかった。
執行人たちが近づく足音が響き、民衆の歓声と悲鳴が入り混じる中、ロエナの胸に燃えるのは、もはや怒りとも絶望ともつかぬ、黒く濁った感情だけだった。
♦︎
『あなたはね、王妃にならなくちゃいけないのよ』
母の声を思い出しても、そこに愛しいぬくもりは残っていなかった。蘇るのは、決して揺るがぬ命令───それだけだった。
ロエナは物心ついた頃から、未来の王妃として育てられた。ドレスの着こなしも、礼節も、舞踏も、剣より重い王家の歴史も、すべては「王妃になるため」の教養。
両親はいつも言った───「愛情は移ろいやすいもの。感情など、裏切られるだけだ。でも地位だけは裏切らない。王妃である限り、あなたは価値を失わないのだ」と。
───王妃になれなければ、自分は何者でもない。
それが、ロエナの生きるすべてだった。
だからこそ、誰よりも努力した。昼も夜も勉強し、痛みや涙に蓋をして、ただひたすら王妃にふさわしい器を目指した。どんな仕打ちにも耐え、どれほど孤独でも、道を踏み外さなかった。
わたくしは、誰よりも王妃にふさわしかった───。
けれど、その誇りも存在意義も、あっけなく奪われた。
ロエナが正式にルベルトの婚約者に選ばれ、妃教育を受けるために王宮に移り住むことになった、ほんの半年後。
国中に響き渡ったのは、〝百年に一度生まれる聖女〟の出現だった。
エリシャ。
潰れかけの孤児院で暮らしていた、名もなき少女。
稲穂の如き亜麻色の髪に、エメラルドのように鮮やかな瞳。思わず息を呑むほど、優雅で柔らかな声。
ルベルトはその〝奇跡の聖女〟に出会うなり、一瞬で目も心も奪われてしまっていた。
エリシャが聖女としての力を発現させたその日から、王宮での日々が始まった。美しい服を着せられ、毎日修道士や侍女に囲まれて、聖女としての振る舞いを身につけていく。
ロエナは、ルベルトが日に日にエリシャに惹かれていく様子に気付いてはいたが、焦りも嫉妬もなかった。
もとより、ルベルトへの恋愛感情など微塵もなかったし、たとえ彼がエリシャを王妃に選びたいなどと愚かにも言い出しても、積み上げてきた妃教育や知識が一朝一夕で平民の少女に凌駕されるはずがないので、何も心配はいらない───ロエナは本気でそう信じていた。
けれど、世界は音もなく変わり始めていた。
最初に耳に入ったのは、取るに足らない噂だった。
───エリシャ様が、一人で泣いているのをよく見かける。
───どうやらロエナ様に酷い仕打ちを受けているらしい、と。
誰もが初めは笑い飛ばした。この国で最も聡明と讃えられるロエナ様が、陰湿な苛めをするなどあり得ない、と。
ロエナ自身も、もちろん全く身に覚えがなかった。だから、疑われても毅然と否定できた。
ルベルトにどれだけ激しく責め立てられても、やっていないことはやっていない。問い詰められるたびに否定する。これを何度も繰り返した。
───だが、不意に気づく。
ロエナを信じる者は、いつの間にか一人、また一人と消えていった。
廊下ですれ違えば、すぐに途切れる会話。下げた目線。遠巻きの視線。
侍女たちはロエナに近付くのを避け、廷臣たちは表面上の敬意だけを残して、明らかに距離を置く。
気づけば、周囲の空気が変質していた。
悪意は音もなく、じわじわと王宮中に滲み広がっていく。
まるで自分だけが、何か見えない病にかかったかのようだった。
やってもいない罪を囁かれ、背中で笑われ、薄暗い廊下の奥で何かが確実に腐っていく。
否定しても否定しても、噂だけがひとり歩きして肥大していく。
なぜ、こんなことになったのか───ロエナにはわからなかった。
誰も信じてくれない。やっていない罪が次々と積み重なり、冷たい視線と噂ばかりが増えていく。皆、まるで見えない手に操られるかのように、自然にロエナから離れていった。
助けてくれるはずの人たちも、気がつけば遠い存在になり、孤独と絶望だけが静かに広がっていく。
ルベルトが冷たい目で己に詰問するたびに、必死に否定した。だが、周囲の状況は容赦なくロエナを追い詰めていく。
そして、決定的な事件が起きた。
ルベルトの生誕を祝う、盛大な祝賀会。
天井から垂れる光の結晶が眩く輝き、楽師たちの音楽が華やかに流れる中、ロエナは定められた席に静かに座っていた。誰もが笑顔を浮かべ、祝福の言葉を口にする───そのはずの夜だった。
不意に、乾いた音が響いた。
割れたグラスが床に散らばり、淡い色のモクテルが飛び散って、宝石のように照明を反射する。
エリシャが喉を押さえ、よろめいた。次の瞬間、その身体が崩れ落ちる。
「エリシャ!!」
悲鳴が上がるよりも早く、ルベルトが駆け寄った。抱き起こされたエリシャは苦しげに息をし、唇は青白く、指先は震えている。
その光景を見た瞬間、ロエナの背筋に冷たいものが走った。
「ロエナ!貴様……エリシャになんてことを!!」
怒声が、雷のように落ちた。
ルベルトは振り返り、まっすぐにロエナを睨みつける。その瞳には、疑いではない。最初から答えを決めている者の、断罪の色だけがあった。
「お待ちください!わたくしは───」
言い終える前に、周囲の視線が突き刺さる。
エリシャが倒れた。ただそれだけで、すべてが確定したかのようだった。
───あらあら、ロエナ様……とうとう……
───女の嫉妬は、恐ろしいものですわ。
───くすくす……聞こえてしまいますわよ。
───それにしても、聖女様にまで手をかけようとするなんて……なんて恐ろしいお方。
言葉は低く、甘く、毒のように広がる。誰一人として、声を上げてロエナを庇う者はいなかった。
誰もが「そうだと思っていた」とでも言うような目で、ロエナを見る。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れ落ちる。
怒りでも、悲しみでもない。ただ、空っぽになる感覚。
ロエナはその場に立ったまま、微動だにできなかった。華やかな祝宴の音楽が、ひどく遠くに聞こえる。
その夜、ロエナ・エディノースは完全に世界から切り離された。
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