第5話 嵐は突然に
嵐は前触れなく訪れる。空気を切り裂く音とともに。
「センパァーーーーイッ!」
気づいたときには左腕にぶつかってきた衝撃に耐える姿勢をとることで精一杯だった。あまりの勢いによろめきかけるが、その一撃を与えた張本人が腕ごと引き上げてくる。物理的に柔らかい何かと、柔らかい香りに包まれる。
下を見る。二つに結った髪がふわふわと揺れている。そして、その大きな瞳に俺の戸惑った表情が映っていた。満面の笑みで、そいつはさらに力強く俺の腕を抱きしめた。
「センパイ、今日はわざわざ私のために時間を作ってくれて、ありがとうございます!」
耳を突き刺す高い音に頭がクラッとする。
元気なのはいいことだ。でも、そんなに大声を出さなくても聞こえてる。というか、鼓膜が破れる。こんな耳元で出す声量じゃない。
ただ、そんなことよりも先に注意したいことがある。
「都築、前も言ったろ。女の子が、そんな簡単に男に抱きつくなって」
俺は淡々と、説教する口調で言い放つ。そんな俺に、都築はぷくぅと頬を膨らませた。
「えー、センパイ。いつになったら萌って呼んでくれるんですか? 私は幸人さんって呼ぶ準備は万端なのに」
聞いちゃいねぇ。俺の話、これっぽっちも耳に入っちゃいねぇ。
「いや、そうじゃなくてだな」
「センパイは細かいですね。これぐらい、仲のいい先輩後輩のコミュニケーションとして常識なのです」
聞いてるじゃねぇか。そんな常識あってたまるか。男女でそんなの見たことないぞ。女子同士なら見たことあるから許す。男同士は……うわ、想像したらぞわっときた。
「だから、離しなさい。いい子だから」
「いーやーでーすー」
俺の非難の声を受けても、そいつは二コニコと笑っていた。
無理矢理引き剥がそうとしたら触っちゃいけないところを触りそうなので強くでれない。それを知ってるからか、都築はさらに距離を詰めてくる。
「ここは諦めて、身を委ねたらいいんですよ。センパイ」
なんか変なことを言い出したこいつの名前は都築萌。この春にできた、美術部の後輩の一人。見ての通り、なつかれている。いや、これはなついていると言っていいのか。からかうにもほどがある態度だ。
思い返せば入部当初から都築の距離感はおかしかった。こいつがこんな感じになっている原因に心当たりがあったから、最初の頃は許していた。まぁ、それも仕方ないかな、と。それが駄目だった。都築の行動はどんどんエスカレートして、現在に至る。
絶対、初動ミスったよな。慕われるのは悪い気はしないけど、都築のそれは度を超している。
まぁ、でも部活中は真面目だから。うん。こういう過度なスキンシップさえ除けばかわいい後輩なんだ。
そうじゃなかったら、顧問のいない朝の部活の時間に指導して欲しいなんて申し出を受けることはしない。
「センパイ、もっとこっち」
都築が強く腕を引いてきた。よろける。小柄なのに意外と力強い。いや、俺が弱いのか。モヤシなのか。
情けなくなってきた。静谷の練習に参加した方がいいのだろうか。
……静谷?
都築の登場に混乱していた頭がようやく回り出した。そういえば、まだ静谷と別れていなかった。あいつはどうしているだろう。
恐る恐る前を見る。なんか、よどんだ空気がそこから流れ出てきているような気がした。
「ふーん、聞いてたよりずいぶんと仲が良さそうだね」
そこには胸の前で腕を組んで仁王立ちしている静谷がいた。
「まぁ、強くでれないのは分かるけどさ。沖田って、そういうやつだし」
ああ、これはまずい。静谷が怒っているときによくみるポーズだ。いや、怒っているときは無視をしてくるから、どちらかといえば俺に文句を言いたいときか。
とにかく、静谷は何かこちらに不満があることをこれで示してくる。分かりやすいが、恐い。子どもの時を思い出す。震えそうになる。
直情的に、時に情熱的に、まっすぐに言葉を発するこいつが、この態度をとっている時はこちらの反論を一つ一つ冷静に打ち返してくるのだ。静谷のお気に入りのおもちゃを壊したとき、ただ謝るだけでは許さず、なぜ壊してしまったのか、原因をとことんまで追求してくる姿には肝を冷やした。
「誰ですか、あなた。これからは私とセンパイの時間なので、邪魔をしないで欲しいです」
そして、都築は静谷を睨んでいる。ちらりと、下を見る。横顔だから耐えられるが、こちらもかなり恐い。
都築は幼さが強いせいか、あまりそんな印象はないが、顔立ちがとても整っている。はっきり言って美形だ。そんな都築が見せる迫真の表情は、簡単に相手の心を突き刺す。
一回、真正面から食らったもんな、俺。殺されるかと思った。
「はじめまして。あたし、静谷可南。沖田と同じ二年生」
静谷はそんな視線を受け止めても、微動だにせず挨拶をする。強い。見習いたい。
「はじめまして、静谷先輩。私は後輩の都築です。それでは、あちらからお帰りください」
おーい、先輩のイントネーションが堅いぞ。いつもの感じはどうした、都築。頼むから、仲良くしてくれ。
そんな俺の願いもむなしく、しばらく微動だにしない二人。都築に抱きつかれているので、同じく身動きできない俺。気まずい。
「ふぅ」
小さく息を吹いた静谷は腕をほどいて、くるりと振り返る。
「じゃあ、そういうことで。またね、沖田」
そして、手をひらひらとして先ほどの緊張はどこへやらといった声の調子で言う。
「え、静谷」
助けてはくれないのですか、とすがるような目で見ると静谷はもう一度息を吐いた。
「言ったでしょ。本当に困ってたら助けてあげるって。あんた、あんまり困ってないみたいだし。それじゃあね」
俺の心を、視線の意味を完全に読み切ったうえで静谷は無情にも立ち去っていった。
なんだったんだろ。俺が静谷の本意を読もうと考えているとなりで、都築は都築で先ほどの恐さはどこへやらな満面の笑みで俺を見上げていた。
「さぁ、センパイ。私達は二人の愛の巣へ行きましょう」
「美術室な」
どういう思考回路だったら、そんな言い間違いができるんだろう。俺は大きく息を吐いた。




