第17話 お守りはここに【Side : Sayaka】
「日本に帰ってきて、よかった」
足早に立ち去ったあの人の背中が見えなくなった時、私は小さく呟いた。心の底からわいてくる思いだった。
こんなにも心が軽くなったのはいつぶりだろうか。覚えがない。思い返せば、ずっと何か重いものを私の心は抱えていた。
あの人は言っていた。ここで、何かできることを見つければいいと。いきなり言われても難しい。例えば、どんなことができるのか。
色々と優先順位をつけて諦めていたことも、お父様から離れた今ならば、できるかもしれない。
日本にいない間に何か変わったことはないだろうか。調べてみるのも面白いだろう。
「あら?」
ふと、自分の頭の中の思考が活力あるものに満ちていることに気づいた。とりとめのない、ただ漠然と思いつくだけの未来。
「ふふ、我ながら単純ですね」
私は自嘲気味に笑った。そんな笑いも、心地いい。今日の朝まで、あんなに沈んだ心があったのに、今はどこにいってしまったのか。探す気には、なれない。
「……そうですね。こんなことを考える、余裕も無かった」
私、沢城紗也夏はずっとお父様に置いて行かれないように走ってきた。勉学、習い事、作法などなど。大人になったら必要だから。そう言われて、お父様に、そしてお母様に、習い事の先生達にたたき込まれた。
小学生の時、私はそれを辛いと感じていた。まず、単純に体が辛かった。ぎっしりと詰まったスケジュール。仲の良い友達も、できなかった。まず時間が合わない。話題が合わない。そもそも、同級生ですら私が沢城家だという色眼鏡をかけてくる。子どもらしいイベントも皆無だったから、少しずつ心も荒んだ。他の子のことを、心底ずるいと妬んだこともある。
でも、ある時期から前向きに取り組めるようになった。辛いこともあるけれど、これは私しか経験できない。得がたきことだ。この幸運を活かさなければ、と。
だから、事業のために海外に行くお父様から着いてくるよう言われたとき、悩んだけれど私は一緒に行く選択をした。側で学べることはたくさんある。私は、もっと成長できる。
それなのに。
「しばらく、日本に戻りなさい。生家でもいいし、それが嫌ならば住居は用意しよう」とお父様に言われたときは、言葉を失った。最初の話では中学、高校の六年間という話だった。それを、こんな中途半端な時期での方針転換。
お父様は立派な方だ。だから、私は基本的には了承する。しかし、あのときは。
「なぜでしょうか?」、私は生涯で二度目の反抗をお父様に試みた。「私に、何か不備がありましたか?」、そんなものはないはずだと、私は食い下がった。
うまくはいかなかった。お父様の表情を変えることもできなかった。うまくいっていたら、今、私はここにいない。
沈んだ心が戻ってきた。そうなると、周囲の視線が気になった。通りがかる人が、私をじっと見つめてくる。視線を合わせると、そらされる。
「ふぅ」
小さく息を吐く。ちょっと、落ち着きたくなった。
まだ次の授業まで余裕がある。私は人通りの少ない階段横の倉庫前に移動した。騒がしいのに、ここだけは切り取られているかのように静かだった。
「お父様は結局、私のためにならないから、としか言ってないんですよね」
あの人はお父様の真意は分からないといった。私もそうだ。それを勝手に否定的に捉えて、自分を責めていた。ただ、それだけ。
「せっかく予定外の経験ができるんだから、活かさないと」
私はあの人の口調を真似てみる。そうだ、どうせ分からない。聞けていないんだから。それならば、本当に分かるまでは今しかできない経験をしよう。
「結局、同じことなんですね」
子どもの頃、私が前向きになれたのは、これは私にしかできない経験だという想いから。そして、今は、前の私にはできなかった経験ができるという事実が私を奮い立たせている。
「ふふ」
やはり単純な話だったんだなって思う。だから、あの人の単純な他人事にこれだけ心が救われたんだ。
「……」
私は制服の下に隠した、手製のペンダントを取り出す。その先には、指輪が一つぶら下がっている。
私はそれを手のひらにのせた。体温の暖かさを感じる。
おもちゃの指輪だ。石も偽物だし、リングも年季が入っている。
でも、私はこれを無くさないように壊れないように大切にしてきた。手入れをしながら、ずっと側に置いてきた。小さすぎて指にはめることはできないのだけれど。それでも、ずっと、肌身離さず身につけた。
私のお守りだ。ずっと、私の心を護ってくれていた。どんなに、辛いときも。
それでも、最近は限界だった。冷静になれば、自分でも観測できた。ずっとぎりぎりで走ってきた。裕美子さんも、明らかに気を遣っていた。
そんな私を見ていられなくて、何とかしたくて、お父様は私を突き放したのかもしれない。これも、あの人に言わせれば、他人事なのだけど。
「ああ、本当に」
指輪に、水滴が落ちた。私はいつのまにか、涙を流していたらしい。
「日本に、帰ってきて、よかった」




