第1話 夏眠暁を覚えず
水平線が広がっている。
どこまでも続くそれを眺めていて、まぶしさに目を細める。
太陽の光が、水面に反射していた。まるでダイヤモンドのように複雑な輝きを放っている。
神秘的で、美しい光景。誰もが心を奪われるだろう。
ただ、俺の目はそれを背景にたたずむ少女に釘付けになっていた。
ああ、なんて綺麗なんだろう。
息を飲む。声をかけるだけなのに、緊張で心臓が痛いほどに拍動する。
ああ、しかし、この手を伸ばさないと。
うっすらと輪郭がぼやけているのに気づき、俺は焦りを覚えた。このままだと消えてしまう。手を伸ばしながら、俺は彼女の名前を呼んだ。
「……ちゃん」
「おっきろーっ!」
「うわっ」
今まで見ていた景色が吹っ飛んだ。ついでに体も吹っ飛んでいる。
急な衝撃で、混乱しているだけで痛みはない。ないのだが、それ故にその混乱は大きい。
「いったい何が」
何とか現状を把握しようと、自分を見る。敷き布団ごと、ベッドの下に転がり落ちていた。どうも、掛け布団が落下地点に敷かれていたようで普段とは逆の挟まれ方をしている。
覆い被さっている布団をどかして、何とか這い上がる。
「おっはようございます。沖田」
くりっとした、大きな瞳と目が合った。そこで、すべてを理解する。
「……おはようございます。シズヤカナ」
「フルネームで呼ぶな」
ぷぅ、と頬を膨らませている。つつくと破裂しそうだな、と寝ぼけている頭で想像する。今度、実際に試してみよう。
はぁ、と一度大きく息をついた。
「いったい、何のまねだ。静谷」
「はい。今日はカナちゃんの突撃寝起きドッキリリポートです。びっくりした? 大成功?」
寝起きドッキリって、こういうものではないだろ。
俺は、右手をびしっとあげてケラケラと笑っている静谷に対して、分かりやすくため息をついた。
「あれ、もしかしなくても、スベってる? あたし」
「相当な」
「採点は?」
「12点」
「きびしっ」
おっかしいなー、と首を傾げる静谷を見ながら俺はようやく立ち上がった。
俺の名前は沖田幸人。高校二年生。
「いいかげん、許可なく人の部屋に入るのはやめてくれ。昔と違うんだし」
いたって普通の男子高校生のつもりである。そう、だから普通に他人に寝顔を見られることに恥ずかしさは感じるのだ。
あと、単純にプライベートは確保したい。気心の知れた相手だとしても、土足で踏み込まれた気がして気分が悪い。
……とはいえ、本気で嫌がるほどでもないのが困ったところだ。きっと、こいつの無遠慮さがなくなってしまうと寂しいと思ってしまうだろうから。
「えー、今更じゃん。それにおばさんから頼まれてるんだし。感謝されても、非難される言われはないと思うなぁ」
そして、こいつの名前は静谷可南。俺と同じく高校二年生。
物心つく前からの付き合いで、いわゆる幼なじみ。家も隣だし、家族同士の仲も良好。昔、「本当は男の子も欲しかったんだけど、幸人くんが遊びに来てくれるから満足しちゃった」と静谷母に頭をなでられながら言われたことがある。
幼稚園、小学校、中学校はもちろん同じで。学力には差があったし、静谷には推薦の話もあったから、高校はさすがに別になるかと思っていたが。
「ほら、早く準備して学校行くよ。今日は沖田も朝練の予定でしょ?」
腐れ縁は、現在も継続中である。
俺を急かす静谷がぴょんぴょんと飛び跳ねている。胸元の空色のリボンが揺れていた。そういえば、あのリボンがかわいいと言ってたっけ。こいつ。
思い返すは受験期。一緒に勉強したこともあるし、そうじゃない日、分からない問題があると窓から突撃してきたこともある。こちらの予定はお構いなしに。
ああ、確かに今更だな。
布団を定位置に戻しつつ、俺は思わず苦笑した。
「分かった。分かった。あと、それと感謝もする。ありがとうな」
机の上にあったスマホを手に取る。アラームが鳴った形跡が残っていた。きっと、音が鳴っているのにもかかわらず爆睡していたのだろう。
静谷が起こしてくれなかったら、遅刻していた可能性もある。いつもなら別にいいのだが、今日は約束があったし、助かった。
「ふふん。その感謝、受け取りましょう!」
「何でそんなに偉そうなんだ。いいけど、起こし方はもう少し考えてくれ」
あと、胸を張るな。胸を。
夏服でそれをやると危険だから。気を遣え、ちゃんと。
「だって、この時期の沖田、全然起きないんだもん。春眠暁を覚えず、って言うけど夏眠はそんなに気持ちよくないでしょーに」
「今はエアコンという文明の利器がある」
「つけたままで布団かぶって寝ない方がいいと思うけどなー。もったいない」
俺に文句をつける静谷を見て、ふと思う。カナちゃんの突撃寝起きリポート、か。
そのワードで起こされる前に見ていた夢の映像が頭によぎった。ほとんど記憶から飛んでいってしまったが、少しは思い出せる。
「……なぁ、カナちゃん」
「ふぇっ!」
俺の突然の呼びかけに、静谷は文字通り飛び上がった。そんなに驚くことだったろうか。
まぁ、静谷がこうなるかもしれないってのは、予想通りではあるのだが。
「え、えっと、なにかな」
体温が急に上がったのか、顔を赤くしながら上目遣いでこちらの様子をうかがう静谷。俺と身長が変わらないのに、下から見上げる形になっているのは体が縮こまっているせいだ。
悪いことした。そんなに驚かせたか。
しかし、この反応は間違いない。
「そうだよな。俺、こんな風におまえを呼んだことないよな」
「ほ、本当に何のかな、急に」
自分でもぎこちなく思うし、静谷の新鮮な反応からしても確信を持てる。俺は幼い頃から「ちゃん」付けで誰かを呼んだことはない。
可能性があるのなら静谷だったんだが、その芽もつまれたみたいだ。
「悪い、忘れてくれ。気まぐれだ」
「あ、あんたがそう呼びたいんだったら、あたしは別に」
「ああ。大丈夫。そういうわけじゃない」
この一回でこんなにぎこちなくなるって、慣れるまでどれだけかかるんだ。前の時だって、しばらく会話がうまくいかなかったのに、その再演はごめんだ。
「むぅ」
静谷がまた頬を膨らませていた。何がそんなにご不満なのだろう。
まぁ、いいか。
気にしないことにしよう。
そうなると、やっぱ謎だよな。夢の中で、俺は誰を呼んでいたんだろう。作り物だとしたら、俺が普段しない呼び方をしているのが分かんないし。
まぁ、でも、夢ってそんなもんか。理不尽の極みだし。
いつもの感覚でクローゼットの前に立つ。そういえば、と思って振り返った。
じー、とこちらを見ている静谷と目が合った。
「あの、着替えたいんですけど」
「ああ、お構いなく」
「構うわ!」
何が悲しくて幼なじみの女子の前で裸にならなきゃならんのだ。そんな趣味、俺にはない。
「じょーだん、じょーだん」
ようやく部屋を出て行こうとする静谷を見て、小さく息を吐いた。そのまま部屋の外に出て行って、扉を閉めるかと思ったら顔だけひょっこりのぞき込んできた。
「そだ。朝ご飯はトーストでいいよね?」
「あ、ああ。うん」
あまりにも自然に提案してくる静谷を見て、一瞬言葉に詰まった。
「卵はどうするかな。焼く? ゆでる?」
「任した」
俺の言葉にニカッと静谷は笑う。
「任された」
それだけ、残して今度こそ本当に扉を閉めた。
一階へと降りていく静谷の足音を聞きながら、笑みがこぼれた。
「ほんと、今更だな」
この喧噪をなくしてしまうのは、やっぱり寂しいと思うのだった。




