第十八話
火野との対局から一ヶ月が過ぎた。
アカデミーでの将吾の立ち位置は当初と変わらなかったが、明らかに将吾と対局する相手の態度が変わっていた。
畏怖。
そして憧れ。
対局する相手は皆一様に将吾を畏れ、対局できる喜びを噛みしめていた。
将吾も将吾で、将棋に対してひたむきに学ぶ彼らを眩しい気持ちで眺めていた。
そんなある日のことである。
将吾は突然、父の高倉将造から呼び出された。
いや、勘当された身であるため、元父である。
そんな将造が、将吾に対して一切の関わりを絶っておきながら使用人の唐沢を使って将吾を屋敷に呼んだのだ。
「将吾さん、お迎えにあがりました」
アカデミーの門前でリムジンの横に立つ唐沢は、将吾に深々と頭を下げていた。
今までの蔑んだ目を向けていた時とは違い、今では客人を丁寧に迎える顔をしている。
当然、将吾は断ろうと思った。
元の身体の持ち主の父とは言え、あまり興味がなかったからだ。
それに将吾の記憶から読み取れる将造の性格はあまり好きじゃなかった。
「申し訳ないが……」
「旦那様がお待ちです」
唐沢の放った「旦那様」という言葉に、将吾の身体が無意識に反応した。
ぶるぶると震えだしたのだ。
それは恐怖だった。
抑えようと思っても抑えられないほどの震え。
唐沢の言う旦那様すなわち将造に対して、将吾はトラウマになるほどの恐怖を感じている。
将吾の身体に宿っていた神木はそれに気づくと、唐沢の背後にいる将造という男に怒りを覚えた。
(そうだ、この純粋な青年を橋から飛び下りるきっかけを作ったのは将造という男だ。将棋の楽しさを教えることもせず、苦しみだけを与えた男。棋士の風上にも置けないヤツだ)
過去の記憶から、将造の見下した顔が思い起こされる。
(この青年の無念を晴らすためにも、このままにはしておけんな)
将吾はひどく低姿勢な唐沢に促されるままリムジンに乗りこみ、アカデミーをあとにしたのだった。
かつて将吾が住んでいた屋敷にたどり着くと、多くの使用人たちが門の前に立ち、頭を下げて出迎えていた。
いつから待っていたのだろう。
まるでVIP待遇だ。
勘当された時とは雲泥の差だった。
思えば冷たく蔑んだ目をしていた唐沢も、今ではへりくだった態度をとっている。
将吾は唐沢の後を歩き続け、屋敷のとある一室に案内された。
「旦那様のお部屋です」
将造の部屋である。
数回のノックの後、「入れ」という言葉が聞こえてくる。
将吾がドアを開けて中に入るや息を飲んだ。
きらびやかなトロフィーや賞状、そして写真が所狭しと並んでいる。
政府の要人のような人と握手を組んでる写真まであった。
虚栄心の塊のような部屋である。
そしてその奥で一人の男が椅子に座りながら将吾を見つめていた。
(高倉将造……)
将吾の父であり、A級棋士の一人である。
その鋭い眼光は何も言っていないのに責められているかのようだった。
そんな将造が将吾を一目見るなり言った。
「座れ」
将吾は言われるまま、近くのソファに腰を下ろす。
「ようやくお前も高倉家の一員に相応しくなったようだな」
「……?」
「アカデミーで快進撃を続けてるそうじゃないか」
「……」
「高倉家の者であればそうでなくてはな。たとえ落ちこぼれでも」
ニヤリと笑う将造は、どこまでも将吾を見下した表情をしている。
それがことさらに不愉快だった。
「今日お前を呼んだのは他でもない、高倉家のことだ」
「高倉家のこと?」
「お前を一度勘当させたが、戻してやろうという話だ」
何を言ってるのだ、こいつは。と将吾は思った。
自分から親子の縁を切っておいて、自分の利となるとわかったからまた結ぼうというのか。
将吾の中でふつふつと怒りが込み上げてくる。
「お言葉ですが、父上。いや、将造さん。そう言う話はけっこうです」
「なに?」
「あなたの世話にならずともやっていけますので」
「なんだと?」
正直、どこまでできるかわからない。
しかし神木鉄心として生きてきた知識と経験はある。
高倉将造の力に頼らなくても生きていけると思っていた。
「話は以上ですか?」
将吾はそう言って立ち上がった。
将造は名前で呼ばれたことよりも、断られたことに眉を寄せた。
「私の言葉に逆らうというのか?」
「ええ」
バカな! と将造は大きな声をあげた。
「高倉家に戻ることを許可すると言ってるのだぞ!?」
「お断りします」
将造は怒りに震えた。
まさか拒否されるとは思ってもみなかったのだ。
しかし将吾はさらに将造の神経を逆なですることを言ってきた。
「せっかくなので、一局やりませんか?」
将吾の指さす先。
そこには将棋盤が置かれている。
来客用に置いてあるものだ。
将吾はそれをいち早く見つけ、勝負を挑んできたのだ。
「あなたの先手でいいですから」
将造は一瞬唖然としたが、すぐに顔を強ばらせた。
「……貴様、自分が何を言ってるのかわかっているのか?」
静かだが、ドスのきいた声である。
並の将棋指しならそれだけで震え上がって逃げ出してしまうだろう。
しかし将吾は柔和な表情をしたまま頷いた。
「もちろん。対局の申し込みをしています」
「A級棋士のこの私が? アカデミー最下位の貴様と? 冗談も休み休み言え」
「逃げるんですか?」
「なに?」
「そりゃそうですよね。A級棋士とあろう者がアカデミー最下位の男に負けた日には、将棋連盟から何を言われるか……」
最後まで言い切らぬうちに、将造は机をバンッと叩いた。
「図に乗るなよ、小僧! 屋敷へ戻ってくるのを許そうと思ったがやめておこう。それよりも、貴様にはお灸を据えねばならんようだな!」
言うなり、将棋盤を将吾の前に置いた。
「座れ。完膚なきまでに叩きのめしてやる」
「受けてたちましょう」
将吾はそう言って将造の前に腰を下ろしたのだった。




