第十七話
生徒会室は静寂に包まれていた。
将吾と火野の放つ駒の音だけが時折鳴り響く以外は一切の音がない。
しかし、将吾は火野から会話以上の対話を盤上で感じ取っていた。
(銀をここに置いたぞ。さあ、どう攻める?)
(なるほど、そう来るか。ならこちらはここに置こう)
(これならどうだ? 受けられないだろう?)
火野は火野で、一手指すごとに体中が歓喜の声をあげていた。
将吾の指す将棋は想像以上だった。
自分が想定していた手をするりと抜けて、さらに一歩先を進んでいる。
本当にアカデミーの生徒かと思える駒まわしである。
しかし火野は負けるとは思っていなかった。
アカデミーに入ってからは同世代との対局は負けなしなのだ。
だが将吾相手に勝てるとも思っていなかった。
勝つか負けるかわからないギリギリの対局。
一手ですべてがひっくり返る緊張感。
それが火野には嬉しくてたまらなかった。
(……これこそが、私が求めていた将棋だ)
ライバルらしいライバルがいなかった火野にとって、全力を出し切れる相手がようやく現れた。
嬉しくないわけがない。
100手目に差し掛かった頃。
火野は手を止めた。
長考に入ったのだ。
入学以来、常に1分以内に駒を進めていた火野にとって長考に入るのは初めてのことだった。
将吾も黙って火野が指すのを待った。
お互い目線の先は将棋盤である。
全神経を九×九のマスに集中させている。
数十分が過ぎ、ようやく火野は指した。
金の頭に歩を置く。
それが長い時間をかけて考え抜いた火野の答えだった。
一見、無意味な戦法に見える。
なんの後ろ盾もない歩のため、通常なら金で取って終わりだ。
しかし火野はその金を動かすことが何十手先に効いてくると確信していた。
対する将吾も一瞬思案したがすぐに歩を取った。
(そうか、やはり取るか)
火野はここぞとばかりに攻めた。
長考など一切ない。
将吾が指した直後に駒を置く。
まさに思い描いていた流れである。
このままいけば想定通り二十手先で詰むことになるだろう。
(久しぶりに楽しい将棋ができた。礼を言う)
火野がふと気を緩めた瞬間。
将吾の駒が想定外の場所に置かれた。
さきほど前進させた金の後ろに歩が置かれたのだ。
それを見て火野の手がピタッと止まった。
わからなかった。
なぜそこに歩を置くのか。
前進させた金を後退させれば歩は取れる。
まったく意味のない手だ。
それこそ、さきほどの火野の打ち歩よりも無意味な一手。
しかし火野は取れなかった。
自身が認めた相手。
その男がなんの意味もなく歩を置くはずがない。
火野はあらゆる手順を想定していく。
「……!!」
そして気がついた。
将吾の指した手がまさに起死回生の一手だということに。
その歩を取ることによって後退した金は身動きが取れなくなり、ゆくゆくは王が詰まされる。
かといって取らずに放置すれば戦況はさらに悪化する。
つまり将吾が指した歩は、火野の急所をついたのだ。
有利に事を運んでいたと思っていたが、すべて将吾の手のひらの上で踊らされていただけだった。
「ふ……」
それがわかった瞬間、火野は笑った。
まさに完敗である。
火野の心に「悔しい」という気持ちがわき上がる。
久しく感じていなかった感情だ。
それが逆に嬉しくもあり、複雑だった。
「私の負けだ」
そう言って火野は素直に頭を下げた。
「よい将棋だった」
火野の負けを受けて将吾も笑った。
こんなに楽しい将棋はいつぶりだろう。
「感想戦でもするか?」
火野の問いかけに将吾は頷く。
普段はあまり感想戦をしない将吾も、火野との対局は振り返りたくなる将棋だった。それほど魅力的な対局だった。
(まるで若かりし頃の私と指しているかのようだったな)
アカデミー主席・生徒会長の火野が、裏では「棋神の生まれ変わり」と呼ばれていることを将吾は知らない。
噂は噂だが、将吾自身もそう感じたのだった。
火野と将吾。
規格外の二人の感想戦は、数時間続いたのだった。




