第九話
氷堂との対局が始まった。
「遠慮なく先手からいかせてもらうぜ」
そう言って2六歩とついた氷堂の手に、将吾はあろうことか9四歩とついた。
通常、大駒である飛車や角を動かすためにその筋を空けるのが定跡である。
しかし将吾がついた手は飛車も角もまったく関係ない筋の手だった。
「なんだ、その手は。バカか!」
氷堂はさらに2五歩とつく。飛車を攻めさせる一般的な手である。
ここで飛車の向かいにある角を守る動きをしなければ陣地に攻め込まれてしまう。
だが将吾はさらに9五歩とついた。
あり得ない手だった。
バカにしているとしか思えなかった。
「貴様。おちょくってるのか!?」
案の定、氷堂は歩を進ませ、大駒である角をもぎ取った。
しかし将吾は少しも気にすることなくさらに歩を進める。
(なんだこいつの戦法? ド素人でももう少しまともに打つぞ?)
困惑する氷堂に、将吾はさらりと言ってのけた。
「ああ、そうだ。私が勝ったらお前には全裸になって彼女に謝ってもらおう」
「な!?」
氷堂の眉間に皺が寄る。
将吾は今の自分の状況をわかっていないのか。
序盤から圧倒的に不利になったにも関わらず、氷堂を完全にコケにしてる。
しかし氷堂は冷静だった。
ここで怒りに身を任せれば安易な手を指すことにもなりかねない。
百戦錬磨の氷堂は深く深呼吸して心を落ち着かせた。
(まあいい、深く考えるな。いきなりこちらが優勢になったんだ。このまま一気に押し込む)
「いいだろう。ならば貴様が負けた時は全裸になってアカデミー中を歩いてもらおうか」
「わかった」
氷堂の申し出に躊躇なく頷く将吾。
氷堂はそれを見てニヤリと笑った。
そして二人の指し合いが始まった。
将吾は守ることを一切せず、攻撃することに集中した。
今まで経験したことのない指し方に、氷堂も慎重になっていく。
そして──。
気がつけば氷堂は詰まされていた。
アカデミー四天王とまで呼ばれた氷堂が、序盤で角を取ったにも関わらず万年最下位の生徒に負けていた。
「ま、負け……ました……」
何が起きているのかわからなかった。
悪い夢を見ているのではないかと思った。
隣で見ていた少女も、氷堂の取り巻き立ちも将吾の快進撃に目を丸くしている。
「ま、負けた? 氷堂さんが?」
「さっきまで氷堂さんが優勢だったろ?」
「なんで詰まされてんだ?」
取り巻きとはいえ、アカデミーの生徒は優秀な人材が多い。
それでも将吾の駒の動きを誰も分析できないでいた。
「私の勝ちだな。では約束通り……」
「ま、待て! もう一局、もう一局だ!」
負けを認められない氷堂は、将吾に再戦を申し込んだ。
無論、このアカデミーでは負けた側がそれを言う立場にはない。
しかし将吾はそれをすんなり受け入れた。
「いいだろう」
そう言って駒を並べる将吾。
しかし彼は、王と歩そして金銀香車だけを自陣に並べた。
「……?」
「ハンデとして四枚落ちで勝負してやる」
「よ、よん……!?」
氷堂は目を疑った。
四天王と呼ばれる自分が、アカデミー最下位の男からハンデをもらう。
屈辱以外の何物でもない。
いや、それ以前に勝負にならないのではないか。
「何をそんなに驚いている。須藤といったか、あの男は六枚落ちだったからな。お前にはこの香車2枚分の実力は認めてやると言ってるんだ」
まるで歴戦の棋士と相対しているかのような雰囲気だった。
「ひ、氷堂さん……」
取り巻きの男たちが心配そうに彼を見つめる。
仮にこれで負けたら氷堂はおそらく二度と駒を持てなくなるだろう。
しかしそれは負けたらの話で、どう考えても氷堂に負ける要素は見当たらなかった。
「わ、わかった。そっちがそれでいいなら」
こうして二度目の対局が始まった。
※
「ま、負けました……」
今度も氷堂はあっさりと詰まされた。
周りの男たちは目の前で起きていることが信じられなかった。
いや、ただ一人。
氷堂だけは自分が負ける気がしていた。
最初の一局目から将吾の強さはずば抜けていた。
四天王としての実力があったからこそ、将吾の強さを実感していたのだ。
持てる力の限りを尽くそうと思っていた矢先、まさかの四枚落ちで勝負された。
氷堂には彼の力量を計るほどの力がないと宣告されたようなものだった。
それでも一縷の望みをかけて挑んだ対局は、結局ボロ負けだった。
氷堂は潔く自分の負けを認め、その場で裸になった。
「氷堂さん!」
取り巻きたちが慌てて制止しようとする。
よもや四天王の一人、氷堂が約束通り裸になるとは思ってもいなかった。
しかし氷堂は周りの制止を振り切り、パンツまで脱いだ。
そして全裸となった彼は約束通りいじめていた少女の前で土下座をしたのだった。
「大変、申し訳ないことをしました。心からお詫びします」
「い、いいえ! いいえ!」
氷堂の突然の行為に、少女も目をつむって首をふる。
ある意味、目のやり場に困る。
「よしてください、氷堂さん! アカデミー四天王の一人が女の前で……」
「オラ、てめえらも裸んなって謝れ」
「……は?」
「オレと一緒に騒いでたろうが。謝れ」
「そんな……。負けたのは氷堂さんで……」
「あ?」
氷堂に睨まれた取り巻きたちは、青ざめた顔で一斉に服を脱ぐと、彼と同じく土下座して少女に謝ったのだった。
「「「本当に申し訳ございませんでしたー!」」」
「ひええー! わかりました、わかりましたってば!」
本来ならばそれでも許されないほどの暴挙だったが、当の本人がそれ以上何も求めなかったため、将吾は何も言わずに「歩の間」をあとにした。
「……あ!」
そんな彼の姿に気づいた少女は、慌ててあとを追いかけた。
「あ、あの!」
少女の声に将吾は振り向く。
少女は顔を真っ赤にしながら将吾に頭を下げた。
「た、助けてくださってありがとうございました! あのままだったら私……」
「私は何もしてない。将棋を指しただけだ」
「私、Cクラスの朝日萌絵といいます。確か、将吾さんとおっしゃいましたよね?」
「ああ」
「本当にありがとうございます。このご恩はいつか……」
「言っただろう? 私は将棋を指しただけだ。気にするな」
そう言って将吾は立ち去った。
朝日と名乗った少女は、その後ろ姿を黙って見つめていたのだった。




