3章12話 「シノセカイ」
時間の感覚がなかった。
過去・現在・未来――今それらのどこに自分がいるのかも分からない。
どこまで進んでも、果ては見えてはこない。
どれだけ経っても……。
* * *
一切の疲労や苦しみ、危険などから解放されたそこは――現世で毎日をあらがっていた衆生の時の感覚とは正反対だった。
一歩踏み出す度に、がっしりと打ち付けられた頑丈な木板の感触が伝わる。
左右には、情熱的なまでに鮮やかな赤い欄干がアーチを描いている。
歩いている橋の下には、濁りなく澄み切った色合いの浅い川が続いている。
あらゆる不からの解放を約束して、幸福に眠れる世界。
永遠の太陽。
衆生はそこを【天国】と呼称する。
「……怖い…………」
否。
解放されるのは、肉体に直接通じる感触のみ。
そこに自分が知る者がいないのならば、永久的に押し寄せてくる耐え難い孤独を抱え続けなければならなかった。
そう、当人にとってそこは幸福の天国などではなく、むしろ――【地獄】なのだった。
* * *
「…………嫌…………」
裸の少女は足を止めた。
これまで、ひたすらまっすぐに橋を渡り続けた。
どれくらいの日が経ったのかも分からない程に……。
それでも――何も変わらない。
ここから抜け出すこともかなわない。
「……兄さんも姉さんもいない……。
わたくししかいない世界……」
そこにいる少女は、現世の時間で5日前――唐突に命を落としたシノだった。
【魂が作る思念体】となった自分がなぜここに来ているのかは分かっていた。知らない人間に毒ガスを吸わされて殺されたからだ。
けれども、納得がいかなかった。
何故殺されなければならなかったのか。
(もう……歩けない……。
歩きたくない……)
そして、何故この道を進み続けているのかも。
(やっぱり、わたくしは弱い……。
兄さん……誰か頼れる人、心から信じられる人が側にいないと、前に進めない……)
ただただこの道を進まなければいけない。
そんな気だけが、ずうっと変わらずに精神に残り続けている。
(リミース島で長官はわたくしに発破をかけてくれた……。
その時は、兄さんのために無様なまま終われないと奮い立ったけど……今は誰もわたくしに声をかけてくれる人がいない……。
誰かが声をかけてくれても、わたくしには届かない……)
自分は命だけではなく、魂ごと終わったのだと悟った。
シノという人間は完全にリエントから存在が消えて、何もかも終わったのだと……。
「結局……わたくしは昔から何も成長できていない……。
1人じゃ、何もできない……!!」
漏らす嗚咽に流されて、涙や唾が地に滴り落ちる。
ぼやける瞳の中に――
《お兄ちゃん……!
ずっと、わたしの側にいて……!》
《ふふっ、ぼくはどこにも行きませんから、大丈夫ですよ》
すがり付いて血涙を流す自身。
そんな自分に微笑みかける、服が破れて裂傷だらけの兄。
クノは常に冷静で強かった。
妹である自分が弱ければ、邪険にされて見限られるのではないかと怖かった。
だから、強くなるしかなかった。
しかし、努力をしても結局は兄のようにはなれないと痛感することになった。
その現実にあらがうために――シノは嘘をつくことを決めた。
《……うん……お兄ちゃん!
いいえ、…………はい……!
兄さん!!》
強いフリをすることにした。
幼い子供ではなく、大人の振る舞いをするクノに喋り方を寄せて。一人称も変えて。
少しでも、クノが自分に気を遣わなくて済むように。
* * *
「…………!?」
気がつくと、誰かの足音が近寄ってきていた。
上品で淑やかな律動。
主張してこない気配。
引き寄せられる芳香。
「………………ッ!」
シノは息を呑んでたじろいだ。
「お待ちしていました」
目の前に――丁寧にお辞儀をしている幼い少女が立っていた。
屈託なく鮮明な【純白】が、静かな風の中で靡く……。
「……あ、あなたは……」
見上げた少女は、垂れた瞳をそっと柔らかく微笑ませた。そこには穢れも曇りも感じられない。
年齢は恐らく7・8歳程度だろう。自分と同じく服を着ていなかった。
「………………覚えててくれたんですね」
忘れもしない。絶対に消さないと誓った記憶。
その白い髪と同色の右手。
「――【ファム】さん……ですわよね……?」
「はい、そうです」
目を慌てて擦って恐る恐る尋ねると、逡巡もなく、そこはかとなく嬉しげに返ってきた。
「混乱してますよね、状況が飲み込めずに。
無理もありません」
「…………ええっと…………」
外見年齢不相応に、ハキハキしっかりとした言動。以前出会った時もシンパシーを感じてはいたが……。
ファムは毅然とした表情で手を差し伸べてきた。
「――シノさん。
突然ではありますが、今からお話したいことがあります。
よろしいでしょうか?」
「……!
は、はい……お願いします!」
自分はファムにここまで導かれていたに違いない。
彼女から話を聞けば、きっと前に進める、何かが掴めるとシノは直感した。
(きっと、まだ終わっていない……!)
* * *
「ここは――天国も地獄も煉獄も総括した【死の世界】。
死んだ人間の魂が眠る場所……。
わたしは5年前、ある人と一緒に命を落としました。
それからずっとここにいるんです」
ファムはシノのとなりを歩きながら、話しを続ける。
「ある人とは……アルシンさん……ですね」
「はい。
わたし達はあなた方に賢者になることを反対されましたよね。
ですが、あの時のわたし達はそれでも諦めたくなかった……。
後日、賢者になる申請をしようと、無断でハウモニシティまで行きました。
…………そこで……わたしとアルシンは――」
ファムは一旦言葉を切って、僅かに躊躇うように、言いにくそうに俯いてから、
「わたしとアルシンは、【バグ】になって人を襲い、退治されて死んだんです」
「…………えっ…………!?」
その言葉は、シノが予想していたものとは全く異なっていた。
てっきり、【そこでバグによって殺されてしまった】……と言うのだと思っていた。
「わたし達が町を歩いていると、突然次元の狭間の中に閉じ込められたんです」
(ま、まさか……)
明かされたその事実に驚きを隠せなかった。
足が止まりそうになる。
「わたし達を次元に閉じ込めたのは、意思を持つ赤い宝玉――【辰砂】。
辰砂の意思に選ばれたわたし達は、その欠片を強制的に心臓に刻まれました。
あの時のとてつもない嫌悪――トイレの水を飲み下すことへの拒否感よりも勝りました……。
その影響かはわたしにも分かりませんが、」
ファムの清楚な足音が、張り詰めた緊張の律動に変遷。
「――わたしとアルシンは暴走して融合……。
その時の記憶は殆どありませんが、巨大なバグになったことは覚えています」
「それじゃあ、あの時のアンノウンは……まさか……」
シノの脳裏に長い光芒が駆け巡る。
5年前に突然現れた最初のアンノウン。
桜色の巨人バグ。
「そうです、アレはわたし達だったんです……。
その後、賢者さんに退治されたわたし達は辰砂の邪悪な意思とともに死亡し、アルシンと一緒に魂になってこの世界に来ました。
でも、わたしの魂の中に、辰砂のほんの一欠片――マインの力が僅かに残っていたんです。
わたしのマインの力は――【死者の蘇生も可能とする霊薬】。
わたしはこの力でアルシンだけでも生き返らせたかった……何としてでも」
(辰砂さんが……マインの力が……人をアンノウンに変える……。
そして、ファムさんもマインを使える……)
「アルシンを生き返らせて現世に蘇らせることには成功しました。
わたしのこの魂の中には、今もまだ辰砂の欠片が残っています。
ですが、アルシンの蘇生で僅かなマインの力を使い果たしてしまい、わたし自身はこの世界から出られなくなりました」
(アルシンさんが生きている……!?
リエントのどこかで……!?)
迫っていく真相。
次々と告げられる情報の理解と整理に苦心しながらも、シノはただそれらをひとえに受け止め続ける。
「現世に再誕したアルシンを、わたしはずっとここから見ていました。
マインの暴走を克服し、力を覚醒させたアルシン。
彼はわたしのことをこの世界から出して、生き返らせようとしてくれています。
でも、それを成し遂げるためなら――彼はあなた方を殺すことも厭わなかった」
「!?
では――」
あの時――視界を遮る毒ガスで即死したシノには、彼の左腕が見えていなかった。
だから、気づけなかった。
「はい。
お察しの通り、先日あなたを殺したのはアルシンです。
わたしはここから、アルシンにやめてほしいと呼びかけ続けました。
それでも、彼にはわたしの声は届かなかった。
そして、あなたは殺されてしまいました……」
(……【辰砂を持つべきではない】というあの方の言葉は、その危険性を身をもって知っていたから……)
ファムの歩みが停止。
「…………ファムさん……?」
ふと見渡すと、一面にはこちらを迎え入れるような菊、百合、胡蝶蘭の花畑。
花びらを巻き上げてそよぐ暖かい風の下、ドーム状の大きなガラス球が幾つも埋められていた。
「これを見てください……」
ファムはガラス球の1つを指し示した。
「……?」
ガラスの向こうに、ここの情景とは全く異なる光景が映っている。
「この中に映るものは、今現在リエントで起こっていることです。
わたしはここで5年間、アルシンを見守ることしかできなかった……」
ガラスの先で、大きな漆黒の影と2人の賢者が戦っている。
「これは……バグ――新たなアンノウン……。
それに、ミープさんと、ドリアンさん……?」
アンノウンの背面で旋回する、絡み合う長大な物質。
その手には蒼い焔。
「に、兄さん……!?」
どのくらい顔を合わせていなかったのだろう。
やっと見ることができた最愛の顔は――自分が知っているものではなかった。
けれども…………自分の魂が間違いなくそうであると叫んでいた。
「アレは……兄さん!
あのアンノウンは、兄さん!!」
「……はい、おっしゃる通りです……」




