3章3話 「地獄の訓練施設」
10月29日。夕方。
その手すりのない橋は、横幅が人一人分しかなく、ただ延々と続いていた。
橋の下は――四方八方奈落。
高度240m。落下したらどうなるかは言わずもがな。
「はっ、はっ、はっ、」
一定の呼吸を保ち続けながらも、クノは一心不乱に橋の上を走っていた。
彼の頭には、虫の触覚のような奇妙で珍妙なカチューシャが括り付けられていた。
「……!」
急に、足元がこんもりと盛り上がった。
敏感に察知したクノは、大きく空気を蹴って跳躍。
「!?」
だが、今度はそれを読んでいたかのように、着地予定のポイントが針山と化した。
(避けられないなら――)
回避方法を思考する猶予すらない。
しかし、呼吸による筋肉の収縮、内圧の強化、体内のエネルギー操作をする暇は、それらを得意とするクノには十分にあった。
ブスブスブス!
痛々しい音がその場を支配した。
(避けなければいい……!)
土踏まず、足首、脛……。
両足のあちこちの皮膚に針が刺さりながらも、クノはペースを乱さずに走り続ける。
続いて、垂直にせり上がってくる鋼鉄のトーテムポール。クノの跳躍力では飛び越えられない高さ。それが、何本も。
(障害物に接触したとしても、ダメージを無効化してしまえばいいだけのこと……!)
クノはありったけの気迫を纏った全霊の肉体で、叩打や体当たり。柱の一本一本を破壊しながら、機敏な対応で先に進んでいく。
「…………ッ!」
真横から一閃の風。
クノは、文字通り針の筵になっている足の回転を上げて、腕の振りも比例させて瞬間の加速。
直後。中央に並ぶ換気扇のプロペラから放たれるサイクロンの束と、壁の穴から発射される槍のハリケーン。
「――!」
背後から受けた衝撃で、クノは押し出されるように前へ前へと吹き飛ばされる。
彼が降下に見定めた位置は、やはり先読みでもしていたかのように床がスッポリと抜けていた。
このままでは――奈落へと……。
(ぼくのジャンプでは飛び越えられない……っ!)
クノは足場がまだ僅かに存在する、予定位置よりも手前で片足を付けた。
(けど、負けない!)
間髪を容れずに、もう片足を前方に大きく伸ばして、すかさずに二段跳び。底なし沼を飛び越えて、更に三段跳び。
届かない距離を咄嗟の機転でどうにか切り抜けることに成功。
ここは――D機関が用意した訓練施設の内の、ほんの1つに過ぎない。
場外落下は黄泉行きを意味するこの狭くも長大で、その上トラップまみれなこのコース。それを全力で駆け抜けなければならないのだ。
走るペースが落ちたり立ち止まったりすれば、頭に括り付けられたカチューシャが爆発。核兵器級の威力により、己の肉体が木っ端微塵という鬼畜を超えた仕様。背後を振り返っても同様のことになる。
こんな状況でも、賢者特権の天啓を使えばもっと楽に切り抜けられるかもしれない。しかし、天啓を使うと、脳内で活性化する電気信号がカチューシャの爆破スイッチに作用してしまうので、発動することができないのだ。
「うおおおおおおおおおおお!!」
不条理だらけの逆境をはね除けるような叫び声。
クノは前だけを見て、ひたすらに進んで行く……。
* * *
「どうだ、新たな機関の設備は?」
鬼畜以上の訓練を超えた先でクノを待っていたのは、訓練と同等の鬼畜な父親。
「………コレ、他にこなせる人がいるんですか?
ぼくの耐久力と……シノの機動力でどうにか乗り越えられるように設計されています。
加えて、並の体力や精神力ではあっという間に脱落する。
かなりギリギリのバランスです。
あなた方は、ここの他の兵士達にもこのような訓練を……」
「元々は、赤髪の餓鬼を貴様ら以上に強くするために、金をかけて作ったモノだからな。
(できあがったのは最近だが)
我が機関の者どもはまだ誰もトライしてはいないが…………まぁ、やったところで序盤で呆気なく即死だろうな。
モブに過ぎない奴らが死のうとどうでもいいわ」
「あなたという人は……」
機関時代はこのように毎日が死と隣り合わせ。
トップがこうなら、その下の者達も、人を人とも思っていない。
人命や人権なんてものは存在しない。
ここには、どこを見渡しても尊い概念が見当たらない。
「明日はもっと凄いのが待ってますよ。
飢餓状態のクリーチャーとの訓練。
負けたら、あなたは朝ごはんということですね。
あははは!」
元教育係のシンダーがケラケラと嗤った。
「…………」
クノは思った。
(絶対に、この人達みたいにはなりたくない。
絶対に)
* * *
10月30日。朝。
「はぁ……」
連れ出された先は、どどめ色の亜空間のような場所。
人間の昏い本性を剥き出しにしたような闇に包まれた世界。
「クオォォォォォォォォォ!」
「ヴガアアアアアア!」
天心が割れて、クノの前に舞い降りてくる2つの巨大な影。
床に走る衝撃波と塵旋風。
「全く……本当にどこから捕まえてきたんだ……」
幼少期にも似たような生物の相手を何度もさせられた。
圧倒的な体高の巨怪鳥に、普通自動車並みの体長の巨大な狼。自然あふれるリエントの南部でもここまでのサイズの生物はいないだろう。
D機関で捕獲された後に調教された、訓練用のクリーチャーである。決して、生物実験によってこのサイズになったわけではないと信じたい。
「ヴゥゥゥ!」
「オォォォォォォ!」
早速、2体同時の問答無用。
「………………」
クノは焦ることなく瞑目し、深呼吸……。
(思い出せ……昔のぼくを……)
* * *
迫る炎。押し寄せる大波。引きずり込まれる流砂。
高熱に晒される特大の竈に閉じ込められて。
濁流に飲まれながらも鉄球を落とされて。
天地が頻繁にひっくり返る砂時計のタワーで生活させられて。
――何度も殺されそうになった。
《痛い、痛いよぉ!
お兄ちゃん、死にたくない!!》
《大丈夫、ぼくのそばから離れないで!
ぼくが、絶対に守るから!
絶対に……!!》
あの四六時中の危機的な状況。
生き残りたければ、妹を生かしたければ、機関の人間の言う通りにして戦って――勝つしかない。
大人達にも、訓練にも怯える血を分けた最愛の妹を安心させるには、【自分が周りのどんな人間よりも、心身共に完璧になる】必要があった。
強い人格を作り、それを演じて、完全に自分のモノとしなければならなかった。
クノは修行の過酷さや、狂った食生活で何度も吐いた。
現在目の前にいるような奇怪生物に、何度も骨を砕かれそうになった。
そんな生活を続けていたせいか、多くの大人達を凌駕する鉄壁の身体に成長していき、敵の攻撃を受けることにあまり抵抗がなくなっていった。
シノは何度も目を潰されそうになった。よく片目から血を流しながら泣き叫んでいた。
彼女はクノよりも打たれ弱かった。故に、カウンター戦法を用いることからダメージ上等のクノとは違って、できるだけ攻撃を受けないように、スピードや旋回による回避と跳躍を磨いていた……。
* * *
遡り、冴え渡る思考に後押しされるように。
体内の血の巡りが活発になる。
「――ッッ!」
カッと、鋭く見開かれたクノの双眸は、紅く充血し、瞳孔が猫のように細く変貌。
(今更、こんな相手に手こずっていられない……)
明鏡止水のクノは、大きな予備動作もなく、軽やかにワンインチパンチによるストライク。
攻撃を繰り出す動作。
こちらの拳が、硬い牙で噛まれてダメージ。
体内の衝撃操作による防御。
相手の攻撃を利用して威力の増加。
カウンターストライク――たった1回放たれた縦拳に、これらの攻防全てがほんの一瞬で集約されていた。
「グエェェッッ……!」
牙を貫通する鉄拳によって、口元が大きく歪んだ狼はのたうち回る……間もなく、顔面に打撃を浴びせられまくっていた。
(シノに通じる障害は全て――【壁】だ……。
ぼくは壁を壊して、前に行く……!)
前傾で懐に入り込んで、ニーバット。
膝で狼を蹴り飛ばして、怪鳥の嘴へとシュート。
「ギャアアアッ……!」
(前へ……前へ……前へ……!
壁を全て……壊すんだアア……!!)
跳躍したクノは、宙を舞っている狼の首の骨をエルボーアタックで砕き、ストンピングで地上へと蹴り落としてトドメを刺した。
蹴り落とす際に、狼の頭を足場にして更なる跳躍。悶える怪鳥の嘴をガッチリと掴んで、折り潰す。
「…………グェェ!?!?」
ミサイルを打ち上げるかのように、怪鳥の体がグングンと上昇。
怪鳥を持ち上げているのは、止むことがなく発射され続ける機関銃の如き連続パンチング。
深淵に眠る闘争本能と生存本能が邪な闇を振り払って、穴の空いた天心に向けて加速していく……。
* * *
花火が上がった……。
空高く打ち上げられた怪鳥は、アッパーで引導を渡されて役割を終えた。
D機関の最頂部。クノは天を突き抜けて外に出た。
あの宇宙に届きそうなまでに。
「てっぺんは、こんな風になっていたのか……」
晴れたクノの視界に、
「――!!」
澄み渡る空……と言いたいどころだったが、
「よう、再戦といこうじゃねぇか」
マントのように翻るローブの裾と、髪の毛のように靡くフードのドローコード。
いつの間にか目の前に、因縁の人物が立っていたのである……。




