2章20話 「リミース島」
「ざっぶ~ん!」
目の前で生き生きと、みずみずしく林立する波飛沫。
全身に打ち付ける感覚は、秋に入りかけのうら寂しげに冷えたものではなく、ムンムンとした熱気に満ちていた。
「やっぱ、気持ちいい~♪
ノンちゃんも入ろうよ~!」
陽気に手を振ってくるのは、大きく開いた口から八重歯をチラつかせる少女。
やや赤みがかかったご尊顔と靡くストロベリーの髪が、太陽光の下によく映えている。
ここは、一年中温暖気候のリミース島の浜辺。
「……いえ、ミープさん……。
遠慮致しますわ……」
頭から勢いよく水を被せられた少女――シノは、冷んやりとした空気を放っている。
対照的に、人のことを勝手につけたあだ名で呼ぶ先輩の少女――ミープは、足にかかる波をバシャバシャと蹴り上げてはしゃいでいる。
清潔感あふれる柔らかそうな裸体をこれ見よがしに。
身に纏う格好も、あろうことか豊麗な花柄の黄色い水着。
「わたくし達は遊びに来たわけではありませんので……」
「もっちろん、その通り!
だけどもここ、ワタシの故郷!
空き時間に満喫ぐらいしたって、ノープロブレム!」
もはや全身が完全に海水に浸かっているミープは、あざとく首を傾げてウインク。その動きに合わせるように、彼女の乳房も揺れる。
「あと数時間後には、アンノウンが発生するかもしれないのに……。
もっと警戒するべきでは――」
「さっきからそんな固いことばっか言って……さては……」
ザバーン!
「……」
顔にかけられる戯れ。口の中に不愉快で傍若無人な塩が侵入。
細めた紫の瞳に映った、ニシシというイタズラっぽい笑い。
「ノンちゃん、泳げないんじゃないww?」
「……なっ……!?」
途端にシノの顔が真っ赤になった。たじろいだ体を震わせる。
「アハハハハハハハ!
ごめんごめん、ノンちゃんが正しいよ!
お遊びは全部片付いてからだよね!」
更にミープは大きな笑いを轟かせる。彼女の無邪気さは、とてもバグ退治に来た人間とは思えなかった。
「失礼しました……!
待ってて、今あがるから……って、あれ?」
シノの背中が一瞬にしてミープの遠くに見える。
彼女は走るような早歩きで砂浜から去っていく。
「もう、知りませんわ……!」
まるで、初デート中に機嫌を損ねて1人先に帰っていく彼女のように。
「ちょっと、冗談だから!
ノンちゃん、待って!
……ねぇ、待ってってば!」
まるで、彼女に機嫌を取り戻してもらおうと必死で追いすがるデート相手のように。
(わたくしは……やっぱり兄さんとじゃなきゃ、安心して戦えそうにない……)
昨晩から四六時中、胸の中で渦巻く苦悩。
宅配の任務やバグが発生した際の住人の保護、その他諸々は、クノが隣りにいなくてもある程度平常心を保ってこなすことはできる。
しかし、それらはあくまで一時的にクノがいないだけだったから。
今回の任務は最初から最後まで兄がいないのだ。
「……くっ、」
思わず、唇を紅くするまで強く噛んだ。
この苛立ちはいったい何なのだろう。
後ろで追いかけてくる者の能天気な振る舞いへのものなのか。
それとも――
* * *
眠るように静止していた茂みが、突如吹いた風によってザワザワと揺れる。
「……ふっ、」
土砂が巻き上げられて、石ころが崖を転がり落ちていく。
「ううっ……!」
隘路を、木々が立ち並ぶ林道を緩やかなカーブを描いて駆ける軌跡。
「……!!」
足がもつれ、倒れたシノはそのまま土の中に顔をうずめた。
「……はぁ、はぁ……」
シノは泥にまみれた顔を拭いもせずに、再び超速の駆け出し特訓を繰り返す。
賢者になってから5年半。
兄は強くなった。
自分も強くなった。
体力が向上した。
身体能力や反応速度も上がった。
筋力もついた。
スピードも更に速くなった。
多くの鍛錬と実戦を繰り返し、経験値を重ねた。
思考力や精神力も大きく鍛えられた。
天啓の使用回数や扱える種類も増えて、関係のコンボも完全に習得した。最大で15回天啓を発動できる強靭な肉体を得た。
「……はぁ、はぁ、……こんなんじゃダメ……」
まだ足りない。
前回のアンノウン戦―自分に向けられたセクシーバグの青いミルク噴射をクノに庇ってもらった。
その後に唐突に取得したマイン。
「わたくしは……このままじゃ、追いていかれる……」
あの時にマインが持つ真理把握が囁いたのだ。
クノに庇ってもらわなければ、自分は死んでいたのだと。
運が良ければ、命は助かっても顔を失っていたのだと。
「わたくしは、わたくしは……」
クノは異常なまでに打たれ強い。
自分もクノに劣ってはいるが、そうだとは思っていた。
実際、5年前に現れたアンノウンの攻撃から生き延びたのだから……。
「兄さんに、追いていかれたくない……!」
それでも、やはり自分は脆いのだと真理把握に教えられてしまった。
セクシーバグに見られた自分の内面は図星だった。
クノの足を引っ張っているのではないか、この先引っ張ってしまうのではないかという恐怖。
「もっと、もっと速く、速く……!!」
クノと同じ領域の防御力を得ることは不可能だ。
ならば――自分の強みである速さと柔軟性、回避力、空中戦などを高めるしかない。
クノと離れた今だからこそ。
兄の助けを借りられない今だからこそ。
自分がクノの分も動いて、ミープに負担をさせない戦いをしなければ……。
「……」
上を覆う緑に遮られて、空から照り付ける日光は殆ど届いていない樹海迷宮。
ブレインマップでは、あと700メートルでここを抜けて居住区に到達する。
それまでに、今の速度を数倍引き上げる。
足にどれだけの負荷をかけようと、ベルウィンが作ってくれたこのイザナミなら耐えられるはずだ。
「もっと、蹴り出す足の回転を――」
「ノ~ンちゃん」
「!?」
前方から不意打ちで垂れた蔓のロープ。
「みぃ~つけた」
猿のように足を木の枝に引っかけて、ぶら下がる影。
「いぎゃああああああああ!!」
ミープが目と鼻の先に現れた。
逆さまにこちらを見る様は、ほぼコウモリ。
ドッキリをかけられたシノは大絶叫を上げながらも、前方宙返りでミープの真上を華麗に抜けた。
……が、流石に力と気が抜けてしまい、その場に崩れ落ちて静止。
「アハハッ!
まさか、そんなに驚くなんて思わなかったよ!」
スルスルと地上に着地したミープは、シノの肩に手を置いて朗らかに笑っている。反省したのか、賢衣に着替えていた。
「……~~~っっっ、心臓に悪いことしないでください!
それから、せっかくの鍛錬の邪魔もしないでください!」
手を振り払うまでは、礼節とプライドがさせない。けれども、シノは強気に孤高と拒絶の意を示した。
(わたくしが強くないと……この人の足も引っ張って――)
「……ごめんごめん!
別にイタズラとか邪魔をしたかったわけじゃないの!
むしろ、ストイックで頑張ってるなぁ~ってトキメイちゃったくらいだし!」
ミープはシノの態度にも普段の雰囲気を崩さなかった。
「ただちょっと、もう少し肩の力を抜いた方が……ね。
周りも見えなくなっちゃうし」
ミープはスッと、人差し指を突き出した。
「?」
その指し示す先――
視線の奥でジッと様子を伺う巨大過ぎる四足の生物。
こちらの身の丈の倍以上はある。
広々と展開された両翼のように枝分かれする硬そうな角。
直進しかできない狭い道幅は完全に塞がれており、どかさないと進めそうにない。
「ヘラジカの……オス?」
「そう」
「……あんなに大きいのは初めて……」
シノの耳元に吹き付ける吐息。
(このままノンちゃんが進もうとすると、びっくりして襲いかかってくるよ)
陽気さが鳴りを潜めた神妙な耳打ち。
「避ければいいのでは……?
別に襲われたって、あの程度なら倒せますし」
D機関時代は、あのような……あれ以上のサイズの生物の相手を幾度となくしてきていた。最近はバグとしか戦っていないが、目の前のアレとやり合ってもこちらが負けることはないだろう。
(刺激するのはダメ。
パニックにさせちゃえばお互いに危険だし。
倒すなんてもってのほか!
この島では狩猟は解禁されているけど、規定以上の数を狩ってはいけないからむやみに殺すのはご法度。
それに、この林は狩猟区域じゃない。
人間の方が介入するのを避けなきゃいけない場所なの!)
厳しめに諭すような口調による主張。
要するに彼女が言いたいのは……。
「生きものを……自然を大切にしろと?」
「まぁ、そういうこと。
ワタシ達が通せんぼで邪魔しているから、あの子はこの先に進めなくなってる。
ほら見て、警戒心もマックスだよ」
確かにヘラジカは佇んではいるが、その強張った表情からいつ興奮してこちらに向かってきてもおかしくない。
「では、引き返せということですか?」
「上から行けばいい話!
ワタシの家までもう少しだし」
ミープはそう言って、軽やかな身のこなしで傍らの木によじ登った。
「ついてきて!
戦いの前なんだから、腹ごしらえして、休も!」
「ミープさん、ちょっと!
食べ物ならば、わたくしは道端の草でも平気ですわ!」
「またまた、そんな面白い冗談と真面目な遠慮を!
いいからついて来てよ♪」
手招きしながらミープは次々と木を乗り継いで進んでいく。
サーカスのように枝から枝へ飛び移り、宙を回転しながら跳んで、蔓をターザンロープにしての長距離大ジャンプ。
「……」
仕方なく言われた通りの慣れないルートでシノも先を進む。
(……でも、軽快で躍動感に満ちたあの動き……自然を味方につけているみたい……)
更なる高みを目指すシノの瞳には、その姿が印象的に映っていた。




