悪の華道を燃やしましょう
「リュカよ…おお、リュカよ。其方は何故そのように愛くるしい?」
「あぶぅ」
「リュカよ…おお、リュカよ。其方は何故そのように天使なのだ?」
「ぶぅぅ、ぶぅ」
「リュカよ…おお、リュカよ。其方は…ちょ、リュカ、リュカたん!?パパを叩いてはならぬぞ。ちょ、目は止めて!?」
「あぶぶぅぅ!」
確実に急所を狙いに行くリュカとそれにあたふたする宰相を少し離れた所で微笑ましげに眺めてお茶をするセレスティーヌ。
「ふふ、すっかり仲良し父子ね」
「いや、どこがだ。明らかに敵意剥き出しの攻撃を仕掛けているじゃないか」
隣で共にお茶をしている義息子のマルクは呑気なセレスティーヌに呆れ気味で溜息を溢す。
生まれたばかりの頃はふわふわと頼りなげな様相であったリュカもこの頃はスッカリ赤ん坊が板についてきた。
「ま、まぁ! まぁ! ふぇ…ふぇぇ」
宰相の腕の中で突っ張り棒のごとく彼の顔に手を当ててこれ以上の接近を拒絶しつつ、セレスティーヌを求め一生懸命もう片方の手を彼女に向けるリュカ。
「あらあら」
「三分ももたなかったな」
今にも涙の大決壊が起こりそうなリュカを慌てて宰相から引き取り抱き寄せる。
「お父様に抱っこして貰って良かったわねリュカ」
「あぅ! あー」
セレスティーヌが手慣れた様子であやすと、すぐにリュカの機嫌は晴れ渡る。
本来貴族の子息は乳母の手で育てられるのが一般的でリュカにも一応乳母はつけられてはいるのだが、セレスティーヌは息子を手放そうとはせず庶民の母親と同じく殆どの世話を彼女自身が行なっている。
生まれたばかりの頃に比べるとその世話は大分楽にはなっているとは言え、その代わりに月日を重ねる毎にリュカに特性というものが出始めている。
その特性とは、所謂「ママ大好き」である。
そんなものは全ての幼児に当てはまると思うだろうが、リュカのそれは筋金入りである。
セレスティーヌの胸の中から少しでも離れれば精神が安定せずに不機嫌になり、セレスティーヌの姿が見えないと周囲の者の耳が痛くなる程泣き叫ぶ。
どんなにお気に入りの玩具で誰があやそうとも全く視界にも入らぬ様子でセレスティーヌをただただ求め続ける。
その根性たるや大したもので、このままでは喉が潰れ脱水症状が現れるのではと心配になる。
先日王の依頼により他国の王子をもてなす夜会をプロデュースした。
当然参加も義務であるので止むを得ずリュカを置いて出かけたが、その時も彼は一睡もしないどころか力の限り泣き続け疲労でグッタリし始め医者まで駆けつける騒ぎとなった。
セレスティーヌ以外の人間には全く懐こうとせず、特に実の父親である宰相に対しては敵意すら感じる。
宰相の方は愛息子をこれでもかと溺愛し天使とばかりに崇め奉っているのだが、その思いは完全に一方通行であった。
実際のところ、仕事で忙しい宰相がリュカの起きている時間に屋敷に帰って来ることは稀である。
たまに居るかと思えば、セレスティーヌの倍はありそうな巨大且つ油でテカテカな顔を近づけてリュカのモチモチホッペにこれでもかと押し付けてくる。
抱かれ心地はどっしりと安定していて悪くはないが、とにかく臭い。
ミルクの香りのリュカや華の香りのセレスティーヌとは大違いの、なんとも鼻につく異臭には辟易とさせられる。
何よりリュカが一番気に食わないのは、セレスティーヌの関心を奪われることだ。
どうやらこの気味が悪くて臭い謎のモンスターはセレスティーヌが飼っているらしい。
モンスターが来るといつもは常にリュカが独占しているセレスティーヌの優しい眼差しが奴に注がれてしまう。
これは由々しき事態である。
そんな訳でリュカはモンスターこと宰相を忌々しいライバルと認識していた。
セレスティーヌ以外の人間のことは全く関心を寄せないリュカだが、宰相のことは悪い意味で意識しまくりである。
言葉は通じずともその事実は誰の目から見ても明らかだ。
「リュカの甘えたと父上への敵対心には困ったものだな」
セレスティーヌの胸で心地よく眠り始めたリュカの様子を見ながらマルクが呟く。
「まぁあのように父上にベタベタされればリュカでなくとも嫌になるだろうから気持ちも分かるが…」
「あらそうかしら? 私は旦那様に頬擦りされるの好きよ?」
「そんな事を言うのはこの世で君だけだと思うぞ」
「ふふ、それは良いことだわ」
呆れ気味のマルクもどこ吹く風で微笑むセレスティーヌ。
「しかし父上のことは置いておくとしても、実際問題こうもセレスティーヌにベッタリではこの先リュカ自身が困ることになるぞ」
これが普通の庶民ならば幼児が母親から離れないなど当たり前であるが、宰相家の子息であるリュカにはもうすぐ貴族教育が待っている。
まだ乳飲み子だがなるべく早いうちから自立が促される風潮で、貴族の子息は10歳には貴族学校の寄宿舎に入れられる。
だがリュカはこの分ではまともな教育など難しいのではと危惧される。
「少しセレスティーヌの方がリュカから離れる試みをしてはどうだ?」
セレスティーヌがリュカを殊の外愛情深く育てていることは誰の目から見ても明らかだが、それだけでは至らないのが貴族というものだ。
セレスティーヌ自身もそれはよく分かっているはずだ。
現にマルクの言葉でその表情は複雑そうに曇る。
「…そうね」
「ワシも賛成だよセレスや」
頷くものの歯切れが悪そうなセレスティーヌに今まで黙って聞いていた宰相が口を挟む。
「リュカを愛するならば尚の事離れることも覚えなくては駄目だと思うぞ」
そう言って無糖の紅茶で喉を潤す宰相に、マルクがここぞとばかりに提案する。
「試しに数時間だけ父上にリュカを任せよう。リュカの母親離れと父上に慣れる意味も含めて一石二鳥だ」
「え……」
宰相のカップを持つ手がピクリと震える。
「そうと決まれば早速出掛けよう。丁度今日は父上も休暇な訳だし、私用での外出なんて久々だろう。さぁ支度して」
「んー…でも……」
いつも簡潔明瞭なセレスティーヌには珍しく難しい顔で言い淀む。
「そうだ。また忍びで街に行こう。もっと庶民の生活や流行を実際の目で見て体感したいと言っていたじゃないか」
「そ、そうだ。たまには息抜きしてきなさい。リュカのことはワシが守ってみせるから。乳母も使用人も居るから安心しなさい」
「…分かったわ。アナタがそう仰って下さるのなら」
震え声でマルクの後押しをする宰相を見て、ようやく頷いたセレスティーヌ。
丁度リュカの昼寝のタイミングと重なり、今ならばリュカがセレスティーヌを求める時間は少なくて済む。
宰相に眠るリュカを預け、心配そうに何度も二人を振り返りながらもようやく街に向かう馬車に乗り込んだセレスティーヌ。
その隣にはマルクが座わる。
生まれてこのかた物凄く立派な箱に入っていたセレスティーヌが護衛を付けるとはいえ一人で街まで行ける筈もなく当然の流れでちゃっかり役得である。
二人並んで街に降り立つ。
その後ろを気配を消した護衛が数名ついているが、マルクの腕が立つのでこれでも最小限である。
忙しない人々の流れに目を丸くしてキョロキョロ見回しているセレスティーヌ。
その姿は可愛らしく普段の高飛車な様子とのギャップにマルクはこっそりと頬を緩める。
「あら? あれは何かしら?」
一際人混みが激しい場所に気づく。
「ああ、どうやら人気の大衆劇のようだな」
「まぁ演劇にこのような集客があるのね」
普段セレスティーヌが嗜む観劇はゆったりとした座席が用意された貴族の為のモノで、当然予め招待される人数も決まった優雅なものだ。
人でごった返した観劇というものの珍しさに驚く。
「演目はなんだろうか。ああ、あそこに書かれているな。ええっと、あ……」
「どうしたのマルク?」
「いや、その…」
途中で言葉が途切れたマルクに声をかけると、何故か挙動不審な様子で狼狽え始めた。
「演目は俺たちの恋物語のようだ…」
「最近流行っているというあの本のような?」
“あの本”とは明らかにセレスティーヌとマルクを意識して書かれた、義母息子の禁断の恋を題材にした作者不明の作品だ。
セレスティーヌには一体全体何故そのような話が生まれたのかさっぱり理解出来ず、それが爆発的に人気なことはあまり愉快な気分ではない。
「ああ、どうやらそうらしい」
「まぁなんとくだらない!」
「あ、ああ。そうだな。実にくだらないな」
呆れまじりのセレスティーヌにどこか動揺しつつ頷くマルク。
「では行きましょう」
「ああ…って、そっちは劇場だぞ!? まさか観るつもりか!?」
「そうよ。自分達が題材にされてるのですもの。気になるじゃない」
「た、確かに気になるがしかし…」
まごついて口の中でブツブツと何事かを呟いているマルクを置いて迷う事なく進む。
そのまま劇場に入ろうとするセレスティーヌに護衛が慌ててチケットを買い皆で入場する。
中は既に満席で立ち見客もかなり居る。
セレスティーヌとマルクも立ち見するしかないが、演劇を立って観るなどカルチャーショックを受けてはいないかと心配になったマルクは横目でチラリとセレスティーヌを確認するが特に気にした様子はなく黙って隣に佇んでいる。
マルクもどこか落ち着かない心地になりながらも開演するのを待つことに。
この二人を見た周囲の客達は目配せしたりヒソヒソと囁きあったりする。
裕福な街人風の装いをしているが、その立ち居振る舞いは良くも悪くも貴族の匂いがどうしても抜けない。
オマケに連れている護衛もいかにも腕が立ちそうな堅気ではない雰囲気だ。
すぐに貴族のお忍びだと気付いた人々だが、二人の組み合わせを見て更に何かに気付いた。
劇場が薄暗くてよく見えない中でも分かる、身なりの整った貴族の美男美女。
人目を忍んだ様子。
今から始まる演劇の内容。
この二人が噂の宰相夫人と宰相子息だと考察するのは自然な流れであった。
俄然周囲は静かな盛り上がりを見せる。
二人の入場後も人はどんどん増えていったが気軽に二人と護衛達の近くに寄れる猛者は居らず、その周囲だけ不自然に人が疎らだ。
周りに気付かれている事を察知したマルクは人目を気にしたが、セレスティーヌはどこ吹く風で漸く始まった劇を静かに見つめた。
劇の内容はオリジナル要素も多いものの概ねの流れは本と似たようなものだ。
醜い老いぼれで散々悪事を働く貴族と政略結婚させられた麗しき美女が、義理の息子である美青年騎士と禁断の恋に落ちて駆け落ちするストーリー。
老いぼれ貴族の魔の手が迫る中、二人は真実の愛の力によりそれを跳ね除け幸せになって終わった。
演者の演技は情熱的で演出もかなりこった作りで物語に引き込ませる魅力を持っている。
この演劇が評判なのも肯ける素晴らしい出来である。
誰もが美しい恋人達の恋物語に酔いしれた。
舞台の幕が下りると割れんばかりの拍手喝采が起こる。
「いやぁ! どうもどうも!」
二人が引き上げようと出口を探して見回していると、大きく張り上げた男の声が響いた。
何事かと見やると、舞台側から男が一人両手を軽く広げた姿勢でこちらに向かって来る。
誰に掛けられた声なのか分からず周囲の観客全員が注目する中、男はセレスティーヌとマルクの前で立ち止まった。
年齢は中年に差し掛かったといったところか。
背丈は随分とあるが肉が付いていない身体はヒョロリと頼りなく、長い手足を持て余している様子だ。
身なりはそれなりに厳選されたものだが、ニコニコというよりニヤニヤと表現した方が的確な笑みがどこか胡散臭さを醸し出している。
「本日はこの私、モーンチャミーが支配人を勤める劇場へお越しくださり大変光栄でございます」
男は大袈裟な身振り手振りとよく通る声で二人に頭を下げる。
支配人を名乗ったがもしかしたら元は演劇畑の人間だったのかもしれない。
男を警戒して険しい顔をした護衛達が前に出る。
しかし男はそれに一切怯むことなく不審な笑みを浮かべたままだ。
「さる高貴な方々とお見受けしましたが、失礼を承知で窺います。もしや御二方は伯爵家のセレスティーヌ様とマルク様ではございませんか?」
「だったらどうだと言うのだ?」
マルクもセレスティーヌを隠すように一歩前に出る。
男の笑みが一層深くなる。
「そうであればこれ程光栄なことはございません! まさかまさか本物のセレスティーヌ様とマルク様にお越し頂けるとは! 我劇場が御二方にお認め頂けるとは!」
最早周囲に聞かせるのを目的としているとしか思えない音量で声を張り上げる男。
周囲からも「やっぱり」と静かなざわめきが起こる。
この劇場の宣伝に利用されていることは明らかでマルクの眉間にシワが寄る。
「やんごとなき御二方にこのような所で立ち話させるなど言語道断。急ぎ茶を用意させますのでさぁさぁどうぞ裏へ」
「いや、我々はもうお暇する」
「あら良いじゃないマルク。是非お茶に誘われましょう」
素気無く断ろうとするマルクを制止するセレスティーヌ。
その表情はいやに和かだ。
セレスティーヌの内心が分からず困惑するマルクだが、こういう場合は大抵何か考えがあるはずだ。
彼女の好きにさせようと黙って付いていくことにした。
通された部屋で二人並んで茶を出され、その向かいに座る支配人。
護衛は外に待たせてある。
「いやぁ、御二方のお墨付きを頂けた今、この舞台は益々繁盛致しますなぁ。本当にありがとうございます」
上機嫌が隠せない様子でペラペラと喋りはじめる支配人。
「しかし御二方に立ち見をさせてしまい大変申し訳ございませんでした。知っていれば一番の特等席をご用意しましたのに…いや、所有されているとお噂に聞くオペラハウスに招待して下されば御二方の為だけに出張公演を開きましょう。勿論宰相様のお留守の時に伺いますよ」
茶目っ気を出して片目を瞑る支配人を冷めた目で見つめるマルク。
だが支配人はそれに気付いた様子も見せずに未だ上機嫌だ。
「それで如何でしたか劇は? 是非とも忌憚ない意見をお聞かせくださいますでしょうか?」
「そうねぇ」
セレスティーヌが笑顔で口を開く。
「旦那様役が素晴らしかったわ。本物には到底敵いませんが、大人の魅力と哀愁の漂い具合が絶妙でした」
想定とは違う返答だったのだろう。
一瞬面食らった瞬きをした支配人だったが、すぐに持ち直して笑顔を作る。
「そうでしょう、そうでしょうとも。何せ彼はウチで一番のベテラン役者。悪役に定評がありましてな。人に嫌悪を抱かせるようなあの醜悪さは並みの役者では表現出来ません」
自慢げに語る支配人の口は止まらない。
「今回の演目は特に気合が入っておりましてな。巷ではあの本の舞台化などと言われておりますが、実は脚本は二人の噂の悲恋に感銘を受けて自分が書いたオリジナルなのです。少しでもお二人の恋の助けになればという願いを込めております」
好きに喋りまくる支配人にセレスティーヌが微笑みかける。
「そのことなのだけど、モデルは私達で本当に間違いないのかしら?」
「ええ、間違いございません。お二人を題材とした恋物語を書かせて頂きました」
支配人が自信満々に頷いた瞬間、セレスティーヌの背後に黒い薔薇が一気に開花。
瞬時にそれに気付いたマルクは密かに背筋を正す。
「ふふふ。では、モデル料を貰ってあげなくてはいけないわねぇ」
「え…?」
今までの友好的な態度を一変させ、頬杖をついて愉しげに支配人を見上げるセレスティーヌ。
美しい顔と対照的に背後のオーラはドス黒く、その迫力たるや空気だけで支配人を押し潰してしまいそうなほどだ。
突然のセレスティーヌの変化に固まる支配人を更に追い詰めるように更に続ける。
「そうねぇ…舞台の出来は悪くなかったし、五割のところをオマケして売り上げの三割で良くってよ?」
セレスティーヌの緩やかな笑みから暗黒物質が漏れ出て、支配人の顔色がみるみるうちに青くなる。
宰相があまりに酷く表現されていたことに対して、実は激しく怒っていたセレスティーヌ。
役者の演技は良かったが、愛するヒトがあそこまで勝手に悪く言われるのは気分の良いものではなかった。
「そ、そんな突然言われましても困ります!」
「あら、どうして? 舞台はあんなに好評じゃない」
狼狽する支配人を鼻で笑うセレスティーヌ。
その表情には小虫の羽を毟って痛ぶるような残酷なものが浮かんでいる。
「別にここを潰すことだって造作もないのよ? それを三割で収めてあげると言ってるの。どこに不満があるの?」
「しかし、それではあまりにもっ…」
例の本に関しては作者不明であり、原稿は匿名で出版社に送りつけられているのは有名な話である。
まだ著作権も曖昧なこの世界で、セレスティーヌとマルクの噂を広めた本の作者は金銭を得てはいないだろう。
よって出版物の方は仕方なくも目を瞑っていたが、今回の演劇は明らかに金を得ることを目的としている。
宰相家をダシにして金儲けをしようなど、喧嘩を売っているのと同義であった。
「三割も徴収されればこの劇場はやっていけませんっ……どうか、どうかお慈悲をっ」
容赦ないセレスティーヌの要求に追い詰められた支配人は失意に膝から地面に崩れ落ちる。
そのまま俯き肩を震わせさめざめと泣き始めてしまった。
身なりはきちんとしており清潔感もあるが、やはり寄る年波には勝てないのか若干薄くなり始めた残念な頭髪が晒される。
その姿はあまりに哀れでマルクは思わず口を挟む。
「セレスティーヌ、もういいんじゃないか?」
セレスティーヌも溜飲を下げたのか、小さく溜息をつくと支配人への視線を和らげた。
「だったらもっと動員数が増やせばいいのではなくて? それならマージンを抜かれたとしても問題ないでしょう?」
「そんなに簡単にはっ……」
抗議の声を上げかけるがセレスティーヌの圧を思い出し最後まで言えない。
その様子を見て少し考えたセレスティーヌは、支配人に向けて妖しく微笑む。
そのまま支配人へと顔を近づける。
危険な色香にドギマギさせた支配人の耳元でそっと囁いた。
「だったら、こういうのはどうかしら———」
※※※※※
「ねぇあの劇もう観た?」
「クリスティーナと義息子の騎士の恋の物語か?」
「違うわよ。そっちじゃなくて、ショー=サイの献身の物語よ」
「なんだそれ?」
「やだ知らないの!? 今街で一番話題の演目よ!」
「それなら私も観たわ!」
「俺も観た観た!」
「あれってどうなんでしょうね?」
「私は良かったと思うわ。ショーの献身が報われて」
「いいや、あれはないな。観終わった後もずっとイライラしたぜ」
「やっぱりそうよね。私もあの女は許せないわ」
「なんだその劇…つまり面白くなかったのか?」
「そうじゃないわ。面白かったわよ。うーん、とにかく一度観てみなさいよ」
街の人間が口々に噂する劇の話題。
しかしそれは以前からヒットしていたセレスティーヌとマルクの物語ではなく、それと同時公演している新しい演目。
悪女妻に翻弄される美中年の話だ。
これもセレスティーヌ達が題材で、悲劇の美中年は明らかに宰相をモデルとしている。
うら若き美貌の妻に骨抜きにされ財産を削って金品を貢ぎ、挙げ句の果てには息子と不倫までされてしまう悲劇の美中年。
最終的には美中年の愛が悪女妻に伝わり改心させてハッピーエンドを迎える。
この演目が今巷の人気を欲しいままにしているのだが、肝心の演目の評価は悪い声も大きい。
なぜかというと美中年を弄んだ悪女妻が、彼にした仕打ちに対して全く報いを受けておらず終始やりたい放題で胸糞悪いという意見が多いからだ。
美中年の献身が素晴らしいという意見と、悪女妻が許せないという意見が口々に人の噂に上り、それを聞いてどんな悪女なのかと気になった人間が劇場に足を運ぶ。
そしてまた劇を観た人間が自分の意見を喋り、連鎖が生まれる。
そんな庶民の間で一番人気の演劇に招待された宰相夫妻。
劇を観終わり今は以前マルクと二人で通された部屋に夫婦で案内されて茶を出されている。
「本日はわざわざ足をお運び頂き大変光栄にございます」
恐縮する支配人に笑顔で頷くセレスティーヌ。
「ええ、観た者達の実際の反応を目にしたかったので丁度良かったわ。久々にデートも出来たし。ね、旦那様?」
「うむ、リュカもこの頃は成長して少しならばセレスと離れても我慢出来るようになったしな」
あの日、セレスティーヌとマルクが屋敷に戻ると宰相は目に見えてボロボロになっていた。
目を覚ましたリュカはどんなにあやそうともセレスティーヌが居ないという事実を認めようとはせず、ついでに宰相という存在も認めようとはせず泣き喚いた。
気合の入りまくった泣き声はいつまでも止むことなく屋敷中に響き渡り、近くに居た者は耳が壊れそうになり頭痛まで発症。
セレスティーヌが戻ると、涙と汗とヨダレでデロデロになったリュカを抱いて、こちらも同じように汗まみれになっていた宰相。
疲労困憊の様子の彼を見たセレスティーヌは、それでもリュカを他人に任せることなく自分であやそうと頑張っていた愛おしい人に感激してリュカとまとめて抱きしめた。
結局リュカと宰相の絆が深まることはなかったが、夫婦の絆はより強くなったので結果オーライといったところだ。
今回は夫婦二人での外出に際して、マルクがリュカの面倒を見てくれることになった。
マルクとしてはリュカと今のうちから仲良くしておきたいという思惑もあったようだが、彼はリュカにとって宰相の次に気に入らない人物だと認識していることを大人達は気付いていなかったりする。
なので安心してマルクに預けてきた訳だが、今頃はかつての宰相と同じく怪獣のようなリュカにてこずっていることだろう。
「それであの、今回の演目は如何でしたでしょうか?」
恐る恐る意見を聞かれたセレスティーヌは少し考えて口を開く。
「そうねぇ。主人公の直向きな思いには胸打たれるものがあったわ。でもね…その主人公の役者のイメージが私の見解と違いすぎるわ!」
くわっ目を見開いたセレスティーヌは拳を握って震える。
「そもそもなんであの役者が旦那様なのよ! 彼ではまだまだ若すぎて中年の渋みや余裕が出ていないわ! あれでは若者を卒業しただけのキラキラした無味無臭のただの青年ではなくて!? 苦悩あればこその象徴であるハゲも、代謝の衰えを気にせずカロリーを摂取し続けた末の剛気の証とも言える貫禄ある巨体もないなど激しく遺憾の意をここに表明するわ! 旦那様のあの独特の癖のある魅力はあんなキラキラ青年では到底表現出来なくってよ!」
セレスティーヌの熱弁ぶりに引き気味の支配人と、なんだか褒められたような貶されたような微妙な心地で照れる宰相。
「え、ええっと、その辺りは持ち帰り検討致します」
困った支配人は有耶無耶な感じで茶を濁す。
気持ちを切り替えるように咳を一つし、ところでと切り出す。
「今回の演目、こちらとしては話題が話題を呼びとんでもない収益を上げることが出来て大変ありがたいのですが、セレスティーヌ様を悪役に描いてしまって本当に宜しかったのですか?」
実は今回のシナリオの案はセレスティーヌ自身から発案されたものであった。
「ええ、もちろん。誹謗だろうが中傷だろうが、私が話題の華であることに変わりないもの」
セレスティーヌがニヤリとあくどい笑みを浮かべる。
「人間は良い噂より悪い噂の方が興味を引くし大きく広まり記憶に残るものよ。劇中の悪女妻がどれだけ心根の曲がった人間で、結末がどれだけ理不尽で納得いかないものだったのか。いかに自分が情に厚い常識人で歪みを許さない正義であるかを、人々は声を大にして勝手に宣伝してくれるわ」
これと同じ現象はセレスティーヌの前世の世界でもあった。
いや、不特定多数の人間と繋がり発言が気軽に世界中に発信出来るインターネットが存在していた分その傾向は顕著と言える。
「この劇の脚本は駄作だ失敗だと人は口々に嘯きモデルである私を罵るのでしょうが、それこそが狙いであり成功と言えるのよ」
勿論この世界でも前世と同じような現象は起こせる。
より刺激的で反発と議論が起き易い話題というのは口伝えでもすぐに広まるものである。
どこをどのように印象操作すれば人々はどのような行動に出るのかは、前世でその流れをよく目にしていたセレスティーヌがこの世界の誰よりも把握しているだろう。
「人々の興味を引くことと金を生むことは同義と言っても過言ではないわ。しかも自動で宣伝されてその広告費用はタダ。これほどお手軽なものはないわね」
つまりこれは話題性で注目を集める所謂炎上マーケティングというやつである。
高らかに笑うセレスティーヌに支配人はそれでも不安げな顔をする。
「街では宰相夫人…セレスティーヌ様の為人は悲劇の美女として捉えている者と、亭主を手玉取るとんでもない悪女として捉えている者に二分しております。本当に大丈夫なのでしょうか?」
炎上マーケティングとはリスクの方が高いものである。
セレスティーヌを心配する支配人に対して彼女はふっと鼻で笑う。
「下々の者が私をどう捉えようと一向に気にならないわ。真実はどちらも不正解。本当の私は旦那様のことを愛するただの一人の女よ」
胸を張って支配人にそう言うと、宰相に向き直りそのパンのように膨らんだ手を取る。
「でもね、それは旦那様だけが知ってくださっていればそれでいいの…」
「セレスティーヌ…」
頬を赤らめそう伝えたセレスティーヌに、宰相は彼女のそっと抱き締めた。
その姿はどこからどう見ても幸せな夫婦そのものであった。
どのような火の粉もこの夫婦にかかれば何も気にすることはないのかもしれない。
劇場の外では待機している宰相家の家紋の入った豪華な馬車に気づいた人々が、噂の悪女妻とはどのようなものかと遠巻きに待ち構えていた。
どんな邪悪な女かを野次馬して友人や家族に自慢してやろうと誰もが好奇心に胸を弾ませていた。
中には一言文句を言ってやらなくてはと息巻く無鉄砲なお節介者もいる。
そこに宰相にエスコートされたセレスティーヌが劇場から出てきた。
その美しさに誰もが息を呑み、時を止めた。
全てにおいて洗練された輝かんばかりの美貌はこの場にいる全員が間違いなく初めて目にするレベルの美しさだ。
街の人間達は完全にセレスティーヌの美貌を侮っていた。
実際目にすると圧巻の一言である。
「嗚呼、確かにこのヒトになら騙されてもいいなぁ…」
誰かが夢心地に呟くと周囲も無言で頷いた。
別の誰かはセレスティーヌと目が合い、何気なく微笑まれてその場に失神して倒れてしまった。
よく見れば先程まで大きな事を言っていた無鉄砲なお節介者であった。
そのまま夫婦は何食わぬ顔で馬車に乗り込む。
悪の華道がどんなに燃え盛ろうとその歩みを止めることはない。
end