第九夜 「クニやん」
第九夜 「クニやん」
穴熊のクニやんは上機嫌だった。相手がいくら考え込もうと一向に気にしなかった。何しろ、相手の陣形は収拾がつかないくらいにバラバラだし、クニやんの王将はといえば、盤の隅っこで金銀三枚に守られて鎮座ましましている。クニやんはこんな時、横で指している人につい話し掛けてしまう。
「あんた、そんなもん考えることあれへんがな。飛車の頭に歩叩いて角成り込んだらもう将棋は終わっとるやん」「そうや、三手の読みというやっちゃ。それくらいわかれへんかったら十七級からやり直しやで」
『十七級からやり直し』というのがクニやんの口癖だった。横で指しているサラリーマン風の二人はそんなクニやんの言葉を迷惑そうに聞いていたが、言われてみれば成程、確かにその通りなので反論もできなかった。
「クニやん、人の将棋にとやかく言わんと自分の将棋しぃや」見かねた席主が受付から叫んだ。
クニやんは昨年妻を亡くした。四十七才だったそうだ。本人は亭主関白だと言っていたが、実際は奥さんに全く頭の上がらない生活だったらしい。
「時々、嫁さんがここに迎えに来たこともあったなぁ。家は近いんやけど、電話でなんぼ帰って来い言うたって帰らへんかったからな」席主は思い出すように教えてくれた。
「そやけど、あんなに見えて、クニやんはものすご愛妻家やってんで。嫁さんのこと褒めたら『そうかぁ、そうかぁ』言うて、そらぁほんまに嬉しそうな顔しよんね。そやそや、何でクニやんて言うか教えたろか。嫁さんの名前『邦子』言うてん。何かにつけて『クニコ、クニコ』や。そいでな、いつの間にか皆が『クニやん』と呼ぶようになったんやわ。『クニコはワシの宝もんやさかい、こないして大事に大事にしもてんねん』そない言うて穴熊に囲いよんねん。そこまでされたら嫁さんも本望やったやろ」
私はもう一度クニやんを見た。椅子の上で胡座をかき、ハイライトを口にくわえたまま腕組みをして盤面を睨んでいる。言葉数も少なくなっているところをみると、今度は形勢が大分悪いみたいだ。
「どないしたクニやん。大事なオカアチャンが他の男にやられそうなんとちゃうか」席主の声に皆がドッと笑った。
「金はる、取ってきよる、飛車成る、合いしよる、桂馬打つ、上へ逃げるか、あかんなぁ、詰めへんがな」ブツブツ言いながら、クニやんは椅子の上で座り直した。
「こんなええ将棋負けたら、ほんまに十七級からやり直さなあかんで。金はる、取りよる、飛車成る、合いしよる……」クニやんの独り言はなかなか終わりそうにもなかった。
(了)
今ではどこの将棋クラブでも禁煙だろう。私も煙草は結構吸う方だったので、対戦中に煙草を吸えないのは辛い。指し手が浮かばない時、煙草を吸えば何か新しい手が浮かぶような気になって、胸のポケットから一本抜きだし、ふっと煙草を口に咥える。そんなことがよくあった。
注文した珈琲を啜り、煙草をくゆらしながら将棋を指す。いい勝負の相手であれば、こんな楽しい時間はない。
今はどうなんだろう。飲み物はOKなんだろうか? クラブによっては入った時にお茶を出してくれる所もあった。そして、夢中になっていると、湯呑みに駒をポチャンと落としてしまい、慌てて取り出すということも。そんなことも懐かしい思い出である。
この作品は、将棋クラブにある人の奥さんと思われる中年の女性がやって来て、席主と何やら話をしていた光景を思い出し、それをヒントに書いたフィクションである。昔々の話である。