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将棋千一夜  作者: 秋月しろう
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第十五夜 「負け歩」(別バージョン)

「将棋千一夜」がずっと『連載中』となっているのが気になっていた。この「千一夜」は全部で十五話あって(と言うか、十五夜までしかない)、これまで十一のショートショートをここに納めた。第八夜、第十夜、第十三夜が抜けているが、お見せするにはあまりにも出来が悪く、投稿するのを躊躇していたのである。(投稿しないのが賢明だと判断している)

『連載中』のまま宙ぶらりんの状態は気持ちが悪く、何とか処理せねばと考えていたところ、別投稿している第十五夜「負け歩」にバージョンの違う作品があるのを思い出した。なぜ違うバージョンがあるのかを話せば長くなるし、今ここでそれを書いても読者には興味もないことだろうから省略するが、そうだ、これをアップして「千一夜」を閉じようと考えた。

 この別バージョンは先に投稿した「負け歩」をずっと後になってから、違った角度から書き直したものである。ただ、読み返してみたが、物語の『あらすじ』の域を脱しておらず、本来なら、これを骨として肉を付け、血を通わせなければならないところのものである。

 やはり私の書きたい作品は先に投稿した手紙バージョンであったのだと、今さらながら思っている。(そうだとしても、自他共に認める拙作には違いないが)

 最後、お口汚しならぬお目汚し、お読み汚しになるかも知れないが、ご容赦を乞うところである。


              第十五夜 負け歩


 出会い


 一間(いっけん)の間口に硝子戸を二枚はめ込んだだけの小さな店構え。店先に吊り下げられた暖簾は梅紫の地に白抜きで「のみ処 やすこ」とある。しかし「やすこ」の文字は夜ともなれば周りの薄闇に溶け込んでしまうのではないかと思うくらい頼りなく心細げであった。大阪南、場末の飲み屋である。

 舞い散る粉雪が一層寒さを誘う二月のある日、六車達治は一日の鳶の仕事を終え、偶然見つけたこの「やすこ」の暖簾をくぐった。

 ガラッと店の戸を開けると、中に客は誰一人おらず、つい今し方までカウンターの内側で無聊を慰めていたような小柄な女がすっくと立ち上がって「いらっしゃい」と声をかけた。達治はその声を斜めに聞いて、手に提げていた大きなバッグを足元に置き、カウンターにどっかと腰を下ろした。熱燗を注文してから店内をぐるりと見回す。

 十人も入りきらないカウンターだけの店。壁に貼られた一品料理の品書きはこの店ができた時から張り出されたままなのではないかと思うくらい黄ばんでいた。

 達治は酒を一口含んだあと、足元のバッグを膝の上に乗せた。

 女将の康子はそんな達治の様子をカウンター越しに窺っていたが、彼がバッグの端からはみ出ている板を何とか中に押し込めようとしているのを見て、それが折りたたみの将棋盤だとわかると、つい声に出して訊いてしまった。

「お客さんて、将棋しはるんですか?」

 達治は康子の方へ顔も向けず、「これかいな」と言いながら、結局入りきらなかった将棋盤をゆっくりと抜き出した。そして、盃に残っていた酒をグッとあおると、悲しそうな目で盤面をジーッと眺めたまま何も言わなくなった。

「変な人やわ」と思ったが、康子はそんな淋しげな達治に、遠い過去を責められている自分の姿を重ねた。

 その日は、全くといっていいほど客が来ず、達治の帰った後も常連客が三人立ち寄っただけで、康子は早々と店じまいを始めた。

 最後暖簾を外す時、狭い路地裏に勢いをつけて激しく舞い乱れる粉雪を見ながら、康子はなぜか達治のことを思い出していた。


 揺さぶり


 達治はそれ以降、何度も「やすこ」に顔を出した。勘定も安かったが、何よりも康子と話が合うような気がしたのだ。通ううちに達治は今までの生活をぽつりぽつりと話し始めた。

 将棋の魅力に溺れ、従業員二十人もいた鉄工所を放ったらかしにし、大きな借金を背負い倒産したこと、最後は妻にも愛想を尽かされて離婚し、家も出てその日暮らしの生活をしていること、しかし、将棋盤と駒だけは捨てきれずに持ち歩いていること。これまで人には話せなかったことが、なぜか康子の前ではためらいなく話せた。

 康子にも人には言えない過去があった。夫の浮気がもとで、彼女にも好きな男ができ、二人して逃げるように東京へ行ったが、その男はすぐにつまらない事件に関わり人を殺めてしまった。しかも、しばらくして刑務所内で遺書も残さず自殺してしまったのだ。

 将棋で身を滅ぼした男。男に恵まれなかった女。どこか相通じるものがあったのか、二人はよく夜遅くまで語り合った。

 ある日、店の中で最後に二人きりになった時、達治が折りたたみの将棋盤を広げ、その横に駒をあけた。そして、その中から指先で駒を一つ綺麗に摘み上げると、それを人差し指と中指でいとおしむように盤に落ち着かせた。達治は駒を置いてからもしばらく駒から指を離そうとしなかった。駒が「もういいよ」と言うのを確かめてからやっとゆっくりと手を離した。少なくとも康子にはそう映った。

 それを見た時、康子のからだに熱いものが走った。それは彼女の中の何かを壊した。今まで閉じ込めていたものが堰を切って一気に流れ出した。どうしようもなく涙が溢れて溢れて止まらなかった。


 仄めかし


 康子の誕生日の夜、達治は小さなケーキを買ってきた。康子の歳の数だけ蝋燭を立て、達治が「さ、願い事しぃや」と言う。康子は戸惑ってしまった。こんなことは幼い時にもしてもらったことがなかった。

 ようやく「私、今幸せや。この幸せがずっと続きますように」と願い終えて目を開けたら、ケーキが蝋だらけになっていた。笑いながら二人で蝋を取り除く。今、康子はこれが幸せなのだと感じた。

 その夜、達治は康子を抱いたあと、隣に寝ている康子の手を握り、天井を向いたまま、独りごとを言うように話し出した。

「あのな、素人将棋に『負け歩』言うのがあってな、将棋するやろ、もう一回やろ思て駒並べるんや。ほんなら歩が一枚足らんことがたまにあるねん。お互い自分の周り探すんやけど、たいがい負けた方に歩が隠れとんね。これ『負け歩』言うんや。さっきの将棋、この歩があったら、もしかしたら勝ってたかもしれへん。そう思たりもすんねん。……俺、考えてみたら今まで生きとって、人生なんぼこれで負けたかわかれへん。目の前のことばっかりに気取られて、自分の手の中からこぼれ落ちた駒、全然見とらんかったんやなぁ」

 将棋をよく知らない康子は、達治の話している意味がその時よく理解できなかった。ただ、達治の指を強く握りながら薄暗がりのせいかちょっと削げかけた彼の顔をぼんやり眺めていた。


 軋み


 康子が達治と出会って二年目の冬、達治が急死した。建築現場の二階から転げ落ちたのだ。枝がポキンと折れたようなあっけない最期だった。  

 康子が駆けつけた時にはもう息を引き取っていた。康子は人目もはばからず、達治のからだにしがみついて泣いた。どれくらい泣いていたのかわからないくらい泣き続けた。頭の中が空っぽになり、逆に訳のわからないもので一杯になった。

 病院からどうやって帰ったのか、ふらふらと店に戻ると、康子は二階に上がって小さな箪笥の引き出しを抜き、忍ばせてあった睡眠薬の小瓶を取り出した。手一杯に錠剤を盛ると口に含み、水を求めて店に降りた。蛇口を捻ろうとしていたその時だった。足元に『歩』が一枚落ちているのを見つけた。それは彼が持ち歩いていた駒の一枚に違いなかった。それを見つけた瞬間、こみ上げた感情が嗚咽となり、口の中に溜めていた白い錠剤を全て吐き出させた。


 兆し


 葬儀が終わり、四十九日の法要も済ませた頃、康子は妊娠していることを知った。達治の子だった。まだ何の変化もない腹に手を当てて、達治の子を身ごもっているのだと思いを巡らしていた時、康子は突然思い当たった。…もしかしたら達治が人生の一番最後に気がつかなかった『歩』というのは、このお腹の子どもではないのか。

 そう考えると、達治の人生は最後まで何とも哀れだった。

 だが、と康子は思う。これまで彼の人生に自分を重ね合わせて来たが、今ここで達治のためにも自分は違う道を歩まねばならないと。

 思いあまって店の外に出た。雪が舞っている。達治と出会ったあの日のように。灰色の雪曇りの空。大きく仰いで康子は達治に誓った。

「この子どもは絶対『負け歩』にせぇへん」

 店先の暖簾が風にはためいている。見ると、今日は少し大きめの牡丹雪をその身一杯に引き受けていた。


                 (了)

やっと「将棋千一夜」を終えることができました。千一夜と言いながら、たった15(投稿は12)の作品群で、若書きの稚拙な文章であるけれど、私にとっては残しておきたいものでした。最後までお読みいただいたすべての読者に感謝いたします。

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