第十四夜 ジレ・シュール奇譚
第十四夜 ジレ・シュール奇譚
ジレ・シュールは京都御所の近くにある喫茶店。野暮ったい喫茶店が多い中、ジレ・シュールは通りに面した側が前面ガラス張りになっていて、ちょっとは洒落た店に見える。
私は外がよく見える窓際のテーブルを選び腰を下ろした。暮れかかった表通りには、夕焼けを背景に街路樹が続き、道行く人が皆ロマンチストに見える。さながら一枚の油絵を見ているようだった。
アメリカンコーヒーをゆっくりと口に運び、その軽やかな苦さを味わっていると、私の思いはいつの間にか過去に呼び戻される……。
少し眠ったのだろうか、うっすらと目を開けると目の前で野島栞が微笑んでいた。
「よく寝ていたみたいだったから声を掛けなかったの」萌葱色のワンピースに金のブレスレット。耳元に小さなイヤリングが揺れている。
「お久しぶりです」懐かしさが自然に言葉になった。
「ほんとに、お元気でした?」
栞と最後に会ったのはいつだったろう。ずっと昔のような気もするし、数ヶ月前のような気もする。
「身体の方はどうなの、悪いって聞いていたけど」
「えぇ、ちょっと悪くしちゃって、一年ほど入院してたんだけど、でももういいの」
「へぇー、一年も入院していたの。入院生活って大変だろうなぁ」
「最初はね。でも、時間はいっぱいあるし、本なんかいくらでも読めるから、開き直ってその気になれば結構気楽なものよ」
なるほど、そういうものかも知れない。入院など一度も経験したことのない私には、そう言われればそう思えてくる。
「私ね、入院中に将棋覚えちゃった」鼻で短く息を吸い込むのは栞が得意になっている時の癖だ。唇の両端が心持ち上がり、とても魅力的な表情になる。
「それでね、将棋の必勝法を見つけたのよ」
虚だろう? そんなものがあったらすごい発見だ。いやいや、すごい発見どころじゃない、将棋というゲーム自体の存在に関わってくるような大問題だ。
でも待てよ、絶対に必勝法がないとは誰も言い切れまい。野島栞といえば、K大で理論物理学を勉強していた女性だ。本当に何か発見したのかも知れない。軽々しく嘘をつく人間ではない。
「もし、それが本当なら是非聞きたいね」私は真剣になってきた。
「いいわ、あなただけに教えてあげる」栞は顎の下で両手を組み、私の目をじっと見詰めた。白というより青磁に近い色をしたものの中に黒く大きな瞳があった。そして、その瞳の中に私の顔が小さく映っている。私は自分がそっくりそのまま栞の瞳の中に吸い込まれていくような不思議な感覚を覚えた。
「将棋をするというのは、結局思考と思考の対決なのよね。相手の指す手を推測しながら、自分はそれを上回る手を考える。それをお互い繰り返していくんですものね。純粋に考えれば、すべての将棋の行き方っていうのは天文学的な数字になるけど、有限なの。でも、それを全部知るっていうのは人間には絶対出来ないことでしょ。だからこそ将棋は面白いのよね」
微笑みながらコーヒーカップに少し口をつけ、それを静かに受け皿に戻すと、再び確かめるような目で私を見た。そのまなざしにはどこかゾクッとする艶めかしさがある。
「でも、言ったように将棋というのは思考と思考の対決。次にどう言う手を選ぶかっていうのは、その人の持っている思考の範囲を出ないのよ。思考の範囲はもちろん人によって様々だけれど、その人はその人なりに、言ってみればエントロピーをできるだけ小さくさせるように考えているものなの。そこでは意識の他に無意識というのも働くわ。そう、精神分析でいうところの無意識もその中に入りそうね。だから、問題は相手の思考の範囲を知り、次の一手を選ばせる思考パターンをあらかじめ知ればいいわけで、それには思考空間の位相を考えてやればいいじゃない。時間軸と空間軸を交差させた時にできる隙間をほんの少し広げてみればそれが見えるわ。それで広げたために出来た歪んだ思考空間を元に戻してやって、自分の思考空間に重ね合わせ……」
「思考空間の位相? 歪んだ思考空間を? ちょっ、ちょっと待って。段々分からなくなってきた。思考空間がどうなったって? もっと分かりやすく教えて」
しかし、私の言葉も振り切り、栞の唇は動き続ける。
「……リビドーの持つエネルギーを負に転換するの。そうすれば自分の無意識も最大限に活用され、トポロジカルな座標が……」
「ちょっと、あれっ? どうしたの? どうなっちゃったの!」
紅いルージュが私の目の前で躍り、それに合わせて両耳のイアリングが激しく揺れ動いた。
耳の奥で栞の声が響いた。こだまのように反響し、私を呑み込んでしまいそうだった。
「あなたに教えてあげるの! ねぇ、誰にも話しちゃだめよ。あなただけに教えてあげるの!……」
ジレ・シュールは京都御所の近くにあった喫茶店。通りに面した側が前面ガラス張りになっていて、昔はちょっとお洒落な店に見えたものだ。今ではもう、店は閉じられ、昔の雰囲気はまったく感じられない。
店が閉められる数ヶ月前、ジレ・シュールのマスターの一人娘が自殺を図った。自殺の原因は、当時喫茶店によく出入りしていた大学生との恋愛関係にあったと言われる。
男は大学の将棋部に入っており、なかなかの指し手だったが、ある時期極端なスランプに陥り、どんな相手と何度対局しても勝てなかった。女性はそんな男を見るに忍びず、男には内緒で必死で自分も将棋の勉強をしたという。将棋の必勝法を見つけようとしたものである。しかし、それが昂じてか病気になり、一年ほど入院生活を送ったが、ある夜思い詰めたように病院の屋上から身を投げた。
その後も男は店に来ていたが、ある日の夕方、店の中で忽然と姿を消した。人の話によると、窓際のテーブルでコーヒーを飲んでいたらしいのだが、皆がちょっと目を離した隙に、消えるようにいなくなったという。何でも、テーブルの上には紅い口紅のついたコーヒーカップだけが、取り残されたように置かれたままになっていたそうである。
(了)
読み返してみると、どうも構成自体に無理があるような気がしてくる。将棋の必勝法というのがベタな発想であるし、男女の関係や決着のつけ方にもどこか釈然としないものを感じる。
当時は自分で「これでよし」と考えたのだろうが、実はこの作品も編集委員長には不評だった。客観的には様々な欠点が見えるのだろう。
* * * *
作家の団鬼六氏に「鬼六 将棋三昧」(三一書房)という著作があって、その≪随想篇≫には十一篇にわたる将棋にまつわるエッセイが収録されている。エッセイと言っても、それはほとんど小説仕立てのようになっていて、読み応えのあるものばかりである。
私はそれを読み返すたび、己の文の羞かしさを嫌と言うほど突きつけられた。いや、比較する方が不遜というものだろう。あまりにも次元が違いすぎる。
「千一夜」を書き終えてから、鬼六氏の文章を読むと、いつも自分の今書いたものを破り捨てたい衝動に駆られたものだ。
まぁしかし、相手は高名なプロ作家。しかも将棋に関しても経験豊富と来ている。内容にしろ、文の運びにしろ、私に真似が出来る訳もない。
若い頃はいつか鬼六氏のような作品を書いてみたいと思ったけれど、既にもう将棋を指すこと自体もほとんどなく、また書けたにしろ、同じようなものしか書けないような気がする。
今は鬼六氏の作品がずっと遠くでぼんやり光り輝いているのを眺めるのみである。