第十一夜 7六歩
第十一夜 7六歩
妻には出張だと言ってきた。職場には四、五日休暇を取りたいと電話を入れておいた。
色々なことが重なり合って、どうしても気持ちの整理がつかず、私の心は錨を失くした船のようにあちこち彷徨っていた。
旅行用のバッグを持って家を出たものの、特に行くあてはなかった。ホームに滑り込んだ目の前の電車に飛び乗り、乗り換え、またあてどなく歩いたはずだった。しかし、いつの間にかNマンションの前で足を止めている自分に気がついた。
『馬鹿な、居るはずがない』
そうは思ったが、この時間になって、今更もうどこにも行くところなどなかった。すっかり夜は更け、遠くで救急車のサイレンがいつまでも鳴り響いていた。
5階505号室。
「石田奈々絵」という表札が出ている。ちょっと信じられない気持ちだった。
『彼女は今でもここに住んでいたのだ』
会うべきか会わざるべきか、小さな子どものように私はドアの前で唇を噛んだ。しかし、ここまで足を運んだのは自分でもなにがしかの期待があったからではなかったのか。表札に彼女の名前しか書かれていなかったのを勝手な言い訳に、私は一呼吸入れ、思い切って呼び鈴を押した。
「本当に久しぶりじゃない」奈々絵は私の服をハンガーに掛けながら唄うように言った。その言い方に、ドアの前での私の逡巡は見事に肩透かしをくらわされた格好だった。
奈々絵はほとんど変わっていなかった。無論、何年かの歳月が彼女に変化を与えていないと言えば嘘になるが、その声といい、着ているものの趣味といい、そして、口紅の色さえも昔と変わっていないような、そんな気がした。
奈々絵とは結婚する二年前まで三年間程一緒に暮らしていたことがある。事情があって別れたが、お互い嫌いで別れた訳ではなかった。
その後、奈々絵にも色んなことがあったらしい。
「人並みに結婚もしたわ。子どもも二人できたの。でも、上の子が事故で死んじゃって……。主人はそれが私のせいだって責めるの」
奈々絵は私のグラスにビールを注ぎ、昔を思い出すような目でグラスの中を覗き込んで、
「結局、それがもとで別れることになったわ」と自分に言い聞かせるように言った。
「下の子? 絶対に渡せないって、主人が取り上げていっちゃった……」
離婚した後旧姓に戻り、たまたま以前住んでいたこの部屋が空いていたので移ったという。私は偶然そこを訪れたという訳だ。
私はここへ来た理由を言わなかった。奈々絵も何も訊かなかった。
奈々絵の顔を見ながら話を聞いている内に、時計がグルグルと逆さに回ったような気がした。眩暈を覚えたのは飲み過ぎたビールのせいではあるまい。
その夜、私は奈々絵を抱いた。自分でも恥ずかしいくらい稚拙な抱き方だった。私が訪れた時からこうなるのを予測していたのだろう、奈々絵はほとんど抵抗もせず、私の腕の中に身体を預けた……。
軽い倦怠感の中、横になってぼんやり部屋を見回していると、蛍光灯の橙色の薄明かりの中に将棋盤を見つけた。それは本当にひっそりと部屋の隅に置かれてあった。私はそれに引き寄せられるようにゆっくりと身を起こした。
「ねぇ、どうしたの?」奈々絵も起き上がってきた。
一所に住んでいた時、彼女に将棋を教えたことがあった。その時の将棋盤と駒がそこにある。初心者向けの入門書も私が買ったものだ。彼女は筋が良くて、教えていてもこちらがびっくりする程飲み込みが早かった。
「あぁ、あれね。何だか捨てられなくてそのままとってあるの。あれから私もちょっとは勉強したのよ。本もいくつか買ったわ。最近は全然だけど……でも懐かしいでしょう」
明かりもそのままに、私たちはそれを引っ張りだし、どちらともなく盤に駒を並べ始めた。なぜかお互い一言も言葉を交わさず、ただ黙々と一つ一つ駒を確かめるように枡目を埋めていった。
並べていて、奈々絵の指先が細かく震えているのを見た。手の甲にキラリと光ったものは涙ではなかったか。それを見た時、私は急に過ぎ去った年月がその重みを伴って一度に襲いかかってくるのを感じた。どうしようもない感情が突き上げてくるのを私は必死でこらえた。
奈々絵は顔を上げず、ただじっと盤上を見つめている。彼女もきっと何かをこらえているに違いなかった。
今になって、私はここに来たことを後悔した。時計の針は間違いなく二人の間で別々に時を刻んできたのだし、それは元に戻せるようなものではないのだ。
『恐らく、もう二度と奈々絵と将棋をすることはないだろう』私は心の中でつぶやいた。
「分かってるわ、もう何も言わないで」
まるで私の心を見透かしたようにそう言うと、奈々絵はぎこちない手で『7六歩』と突いた。
薄暗い部屋の中、私は何もできず、いつまでもその歩を見つめていた。
(了)
前にも書いたが、この「将棋千一夜」は40年近く前、職場の労働組合支部の機関誌に掲載していたものである。ただ、回を重ねるにつれ、字数が増えて行き、B4の紙面の多くを占めるようになってしまった。掲載する場所を変えなければと考えていたその頃、社全体の将棋部に誘われて、その会報に載せてみないか、とお誘いを受けたので、それに甘えることにした。それが第十二夜あたりからであるが、会報には第一夜から再掲してもらった。
少し長いと言っても、ショートショート以上のものではなく、素人文体丸出しの、内容の乏しいものであることに違いはない。
この作品が掲載された時、実話ではないかと、噂されたこともあったが、もちろんフィクションである。