3
感情は銀幕が隔てた。全てを騙る事は瑣事であると教えてくれたのは他でもない己で、海を騙ればそれを贋作であると他人は分からない。それは肉親であってもそうだ。
「おはよう、兄さん」
ふっと優しく笑いかけてくる顔は幸せの一色だ。村が壊滅したのは今から8年ほど前になる。今は狂おしい程に焦がれていた殺意が鳴りを潜め、暖かな感情で以て暮らしていた。
「うん、おはよう」
清浄潔白な弟だ。俺の感情を知ってしまえば砂で出来た城のように、心が元に戻る事はないだろう。
「お腹空いたら下の食堂に行きたいな」
俺は弟を守らなければならない。
「顔洗ってくるよ」
約束したのだから。
慣れた歩幅で宿屋を2人で後にする。これから向かうは冒険者ギルドと呼ばれる場所だ。世に蔓延る魔王の手下を排除する仕事を斡旋してくれる。他にも街の環境維持に関係する雑用等もある。2人はそんな場所へ行き金を稼いではその日暮らしをしていた。安定した収入、安定した住処とは程遠い世界だ。
だがある日、そんな生活に終わりが訪れる。
「兄さん、僕彼女が出来たんだ」
そんなことを話してくれる。顔は紅潮しており照れているのが丸わかりだ。
「おお、おめでとう」
「ありがとう!だからさ、僕この街に住もうと思うんだ。ちゃんと定職についてさ」
「……うん、そっか。いいんじゃないかな」
モジモジとしながら話すシェイドの頭を優しく撫でた。その時に、少年の頭は復讐心で満たされていった。鳴りを潜めていた殺意。魂が歓喜の号哭を唄う。
「兄さんのことはちょっと危なっかしくて心配だけど、大丈夫?」
「平気、平気だよ」
ああ、平気だ。
綺麗な森。川は澄み切って木漏れ日すら琥珀色。この景色を閉じ込めたペンダントがあれば貴婦人が寄って仕方ないだろう。だがそんな領域に相応しいとは思えない光景があった。
しゃがみ込み、腕を振り上げては下ろす。
「……」
ギャーギャー鳴き喚いていた魔物も今は口から赤い体液を溢すだけ。
「……」
曇った硝子の瞳でただひたすら作業のように顔を刺していた。
まるで己の欲を満たすかのように。
彼は飽きたかのように右耳を切り取って麻袋へ詰めた。
「次は、どこだ」
放浪する足取りはふらついていた。ただ宛もなく獲物を探すだけで、それ以上も以下もなかった。
「ギギャ!」
向こうから騒ぐ声が聞こえる。
鳴き声……
「きゃー!?」
そして悲鳴。
どくん。
悲鳴を聞くなり彼の足取りは確かへと移る。土を踏みしめる力は何の為か、彼は理解することも無くただ走る。その音へ向けて。
視界が草木で埋まっている。だが構わないとばかりに最短距離で詰寄る。顔に抗う枝が湾曲するのを流し目に、手に持った得物を持ち替えた。次第に下劣な鳴き声が近くなる。妙な焦燥感が胸を打っていた、踏みしめる事にその感覚は強くなっている。
やがて視界が開けた。眼前に広がるは背を向け腰を抜かした少女へと少年体型の魔物が刃を向けている光景だった。
醜悪な顔、窪みギラつかせた目は見下しを帯びている。そして目につくのが痩せ細った腕に4本指が持つはナタ。
魔物だ。
許せなかった。
彼は姿勢を落とし、走りながら得物をゴブリンへ投げつけた。
「ギャッ!?」
ただ、狩られるだけの敗者が優位に立っていることを。
狙い通り胸へと突き刺さった。すぐさまそこへ蹴りを入れこんだ。ガフッと汚い声をあげるゴブリンは勢いよく後ろへと倒れた。ゴブリンへ歩み寄り得物を握りしめ捻じってから抜き取る。そのまま顔面へ刺す。
さらに悲鳴が上がる。
もう一度抜き取り、力任せに肩を刺した。ゴリッと鈍い感覚が腕いっぱいに広がるが構わない。捻りを加えると同時に悲鳴が激しくなる。
そうだ、それでいい。弱者は狩られるだけなんだ。
心を満たしていく感覚を少年は知っていた。
優越感。
かつてあいつが顔に浮かべていたものだ。
態と肩を弄っていた得物を力一杯に抜き、首元へと持っていく。今度は刺しはしない。ただ刃を突きつけるだけだ。刃は皮をなぞり一本の線を作る。それは赤い線だ。未だに痛みに喘ぐゴブリンは死神の鎌に怯えていない、気づかない。目を瞑り痛みに向き合っているからだ。
ああ、そうだそれでいい。弱者は愚かでいろ。
周りを冷静に見渡す思考能力の持たないゴブリン。それはかつての自分を見ているように感じていた。痛みに喘ぐ前にすることがあるだろう?こいつは問いかけても答えない。
彼はただ答えが知りたかった。本人が理解しているのかは定かではない。だがその行動は、その思考はその一点のみで形成されていた。
要するに幼いのだ。
刃が振り切られた。事切れたゴブリンが抵抗として空へ向けていた腕。重力に逆らうこともできずに地面へと音を立てて落ちていった。
お勉強は終わったようだ。
だが彼は得物をゴブリンへと向ける。
そんな時、背後から声が聞こえた。
「や、やめて!もう、もう死んでるよ!!!」
「……ん?」
血塗れた彼の姿が少女へと振り向く。
「死んでるんだから!もう、大丈夫だから!」
その少女の目は怯えが混じっていた。何故そんな目をするのか。自分は助けられたのか。安堵感と疑問の末、絞り出した声で応対する。
「……討伐報酬の為に耳を切り落とすんだ」
耳を抜き取り、麻袋へ。拭ってからナイフをしまう。少女へと向き直し目を見つめると、はたっとして同じようにこちらへと身体を向けた。
「助けてくれてあ、ありがとう」
「ああ、怪我はないか。少しでも傷があったら言ってくれ。ポーションはある」
「大丈夫、腰抜けちゃっただけだから」
彼は心配するような顔を浮かべた。少女が戸惑いを隠せなかった。先程までの狩りは素人の目から見ても弄ぶかのようなやり方だった。だから思わず叫んでしまったが最後は見当違いなことを言ってしまったようだ。今の彼は襲われた少女を心配する優しい冒険者。先程のその姿と今の姿に乖離を覚え少しの嫌悪感と警戒心を引き上げた。
早く離れたいな。
少女の抱いた心はそれで染った。
歪んだ罫線へ真っ当な字は描けない。だが罫線に沿っていることは確かだ。何が真っ当で何が真っ当でないのか。それはまだ分からないまま。