後編
学校を飛び出してからどこをほっつき歩いていたのか、よく覚えていない。
最近は何かと物騒なうわさも聞く。ぼんやりしたまま無事に帰宅できたのは幸いだ。
家にたどり着いたころには、夏の空は茜色を帯びていた。部屋に荷物を置くなり風呂を沸かした。肌に張り付く制服が気持ち悪い。汗の匂いが鼻について仕方がない。
シャワーを浴びて汗を流し、ボディーソープを泡立てて繊細な身体を撫でるように――そして洗い残しがないように丁寧に磨き上げる。続いて髪を洗ってシャワーで泡を流す。
女の風呂は長いと言われるが……当たり前だろう。ひとつひとつの工程にかかる時間が男のソレとは段違いなのだから。両方を経験した春としては、そう言わざるを得ない。
ひととおり洗い終えてから湯船に浸かると、身体の中から疲れが溶け出していく。至福の時間だ。しばしその快感に身を任せ――両手でお湯を掬って顔を洗う。
「……ふぅ」
放課後の告白シーンを見て以来、春の頭の中を締めているのは、ずっと和久のことばかり。
和久は春のことを『春樹』と呼ぶ。TSする前の、男だったころの呼び名を。
それは、かつての自分が忘れ去られることを恐れた春の願いだった。
和久は春の願いを律義に守っているだけに過ぎない。おかげで親友との心地よい距離感が保たれている。
でも――
「何なんだよ……」
肩まで湯船に浸かってぽつりと呟く。
最近、和久と一緒にいると胸がモヤモヤする。
顔を見るのが恥ずかしい。見られるのも恥ずかしい。
自分以外の誰かと一緒にいるところを見るとイライラする。
ましてや、ほかの人間に笑顔を見せる和久なんて想像したくもない。
「……和久が告白されるなんて……意外だ」
自然と口から零れた言葉と共に、暗澹たる思いが胸の内側から溢れ出してくる。
自分と和久の関係は永遠に変わらないものだと、どこかで勝手に考えていた。
和久の一番傍に居るのは親友である自分だと、何の根拠もなく信じていた。
親友だと思っていた和久が女子に告白されるところを目撃して、その妄想が足元から崩れ去るような衝撃を受けた。
正確には――衝撃を受けたことに衝撃を受けた。これは似ているようで全然違う。
春が男のままだったら、いずれ春も和久も恋人を作り、それぞれの家庭を持つことになるはずだった。……できるかどうかは置くとして。
和久が女子と付き合うことになるのは、別におかしなことではない。ショックを受けるようなことではない。
そのはずなのに――告白の現場を目撃した春は、かつてないほどの精神的ダメージに悶絶している。
――アイツ、どうしたんだろう?
気になって仕方がない自分がいることを認めざるを得ない。
和久が告白されていたのは昼過ぎで、春が風呂に入っている今はもう夕方だ。
かなり時間が経過している。あの場に春がいたことはバレていないはずだが、和久は何も言ってこない。
いや、そもそも和久が春に連絡してくるという前提が間違っているのだろうか?
『小日向 春樹』と『江倉 和久』はガキの頃からの親友で、お互いに隠し事もせず何でもあけすけに語り合った仲だったのに。
春のことを『春樹』と呼び、男だったころと同じ関係を続けているにもかかわらず、和久が連絡してこないことに不満を覚える。
尻を滑らせて湯船に沈みこむ。ブクブクと口から泡が零れて消える。
「何なんだよ、いったい!?」
苛立ちが募る一方だった。お湯から上がって鏡の前に立つ。蛇口を捻るとシャワーのノズルから冷水が噴き出し、湯船で暖まった身体を引き締めていく。
磨き上げられた鏡面に映っているのは、誰もが羨む『小日向 春』の姿。
長いまつ毛に縁どられた黒い瞳。すっと通った鼻梁に可愛らしい小鼻。フルーツを思わせる桜色の唇。身体に張り付いている黒髪は、本来なら腰まで届くストレート。
艶やかに輝く滑らかな白い肌は水滴を弾き、触れれば瑞々しい張りで指先を柔らかく押し返してくる。
豊かに膨らんだ胸元は、たっぷりとした量感に溢れていながらも重力に屈することなく、色素薄めの先端はツンと上を向いている。
左右の膨らみを下からそっと自分の手のひらで掬ってみると、他では味わえない柔らかな感触と暖かさ、そして確かな重量感がある。
女子にしては高めの背丈。柔らかな曲線美に縁どられた肢体。すらりと伸びた白くて長い脚。
元男の春の眼から見ても、ほぼ完璧な美少女と言って差し支えない。
「……悪くないよな?」
鏡の中の自分の姿を見て、春は独り言ちる。
まだ男だったころに和久と交わしたエロ談義を思い出してみると――今の自分の姿は、わりと和久の好みに近いような気がする。
むしろ、ストライクゾーンど真ん中なのではとさえ思えてくる。和久が本音を語っていれば、の話だが。
――だから?
自分はいったい何を考えているのだろう。
想像を巡らせようとして、顔が熱を孕む感覚を覚える。
湯にのぼせたのではない。身体の、否、心の奥に炎を感じる。
どれだけ水を浴びても、一度熾った火は燻り続けて消えてくれない。
「……何やってんだ、オレ」
風呂に入って汗を流した後は、下着にTシャツの軽装で2階の自室に戻ってベッドにダイブ。
窓の外は夕闇に沈み、薄手のカーテン越しに見える夜空には星が瞬いている。
仰向けになって天井を眺めながら、枕元に手を伸ばす。リモコンをゲット。すかさず冷房を入れる。
涼しい風が火照った肌を優しく撫でる。……ちっとも熱が治まらない。
胸に手を当てると豊かな柔らかさの奥に鼓動を打つ心臓を感じる。
――男だったころの『小日向 春樹』を忘れないでいてくれるのは嬉しい。でも……
和久は春のことを『春樹』と呼ぶ。それはいい。
しかし和久は、春に対して男のように接する。それは――よくない。よくないのだ。
いつ頃からだろうか、和久を見ると胸がドキドキする。今までは……ドキドキするだけだった。
今日の放課後、女子に告白されるところを見た時には――胸が痛かった。苦しかった。辛かった。
『春』と呼ばれることより――『春樹』と呼ばれなくなることより辛かった。認めざるを得ない。
人間は、誰だって変わる。
ずっと同じ姿のままではいられないし、心だって環境だって変わる。
物心ついたころからずっと一緒だったふたりは小学生を経て中学生に、そして高校生になった。いずれ大学生になり社会人になる。その後は?
わからない。とにかく変わることだけは確かだ。そして、TSした春は変化の振り幅が他のひとより大きい。
そして、春と和久がこれまでどおりの関係を続けようとしても、周囲が放っておかない。
和久が女子に告白された。つまり、そういうことなのだろう。
★
翌日、春はいつもと同じように家を出た。見上げた空は高くて青い。本日も晴天なり。つまり暑い。
昨晩はいろいろと考えごとをしていたせいで、ほとんど寝付けなかった。おかげで今朝はかなり眠い。
あくびを堪えつつ目尻に浮かんだ涙をハンカチで吸い取って、寝不足を誤魔化す。頭がぼんやりしてテンションが上がらない。
フラフラと歩きながら、さほど時間をかけることなく最寄り駅に到着。駅のホームで待っている間も、周囲の注目は春に集まっている。
気付かない振り(いちいち気にしていたら身が持たない)で通学途中の電車を待っていると、いつの間にか傍に和久がそっと立っていた。
「おはよう」
「おはよ」
何事もなかったかのように振る舞う。実際には春は和久の顔を見ていられなかったのだが。
やがてホームに人が増えてきて、電車がやってきた。通勤・通学ラッシュの時間帯だ。
ドアが開くと車内に人がなだれ込んできて、狭い箱はぎゅうぎゅう詰めになる。入れ物の容積に対して人が多すぎる。
座席はすでに埋まっているので、春も和久も立ちっぱなし。女の細身にこの圧力は辛い。
壁際に立つ春の前に和久。ふたりの間にはほんの少し距離がある。
和久は、春が他の人間に押しつぶされないようにガードしている。春のことを『春樹』と呼ぶくせに。
和久とは昔から何度も遠出したことがある。『春樹』と電車に乗っていた時は、和久はこんなことはしなかった。
電車を降りて和久と並んで歩いていても、ふたりの距離は変わらない。
女性になった今の春は、かなり脚が長い方ではあるが、上背を鑑みれば歩幅は和久の方が大きい。普通に歩けばふたりの距離は開くはずなのに。
春と並んで歩くとき限定かもしれないけれど、きっと和久が気を遣っているのだろう。今まで特に意識したことはなかったけれど。
一度気になり始めると、そういうチマチマした心遣いがやたらと目についてくる。
和久は、春のことを男として扱ってはいない。
今さら気付かされた事実にイライラ半分、ウキウキ半分。複雑な気持ちを抱えたまま、無言で歩みを進める。
ふと、ブラブラ揺れる和久の腕に目が吸い寄せられる。チラリと和久の横顔に視線を走らせると、何か考え込んでいる様子。
歩道の右側――道路側を歩く和久。左に並んで歩く春。春の目は再び和久の腕――左腕を追いかける。同時に春の右手に力がこもる。
幸いと言うべきか、夏休みを目前に控えたこの時期特有の弛緩した空気のおかげで、周囲を歩く生徒たちの注意は分散されている。
文字通り手を伸ばせば届く距離。考えるより早く、春の右腕が動き――空を切った。届かない。
深呼吸してもう一度。今度は即座に引っ込めた。指先に熱。ごつごつした感触。
和久の顔に目をやると……相変わらず少し俯いたまま。全く気が付いていない。
――何か、ムカつく。
イラっとして思わず和久の足を踏みつけようとした、その瞬間。
「なあ、春樹」
「……なんだよ」
春は慌てて足をひっこめた。ゴクリと唾を飲み込む。
学校に向かう最中で、ふたりにようやく生まれた会話に胸が跳ねる。
和久の口ぶりは何気ないものだったけれども、春としては戦々恐々。頭の中では昨日の光景が鮮明にリフレインしている。
……いったい何を言い出すのだろうか。聞きたくないような、それでも聞かなきゃならないような。
「お前、告白を断る時ってどんな気分だ?」
「は?」
思わず聞き返してしまった。
ついでに顔をガン見してしまった。
和久はそっと視線を逸らして頭の後ろを掻きつつ、
「実は昨日、女子に告白された」
「へぇ、そりゃおめでとう」
――おせーよ!
なるたけ平静を装って、そう答えた。
語尾がわずかに震えた。気取られなかっただろうか。
たったひと言を口にするだけで、心臓がバクバクとうるさい。ポンコツか。
「それで、どうしたんだ?」
「……断った」
言いにくそうに答えた和久の声。春の心の中に光が差し、今朝の空のように澄み渡った。
緩みそうになる顔の筋肉を全力で固定。ここで大喜びしてしまったら人格を疑われかねない。
口を付いて出たのは本音とは正反対の言葉。
「なんで付き合わねぇの」
「なんでって……別に興味なかったし」
ぶっきらぼうな声。
放たれたシンプルな直球にある予感を覚えて仰け反った。
ありえないとわかっていても、尋ねざるを得ない。
「……お前、ひょっとして」
「違うからな。俺は普通に女が好きだからな」
食い気味の即答だった。
「何も言ってねぇよ」
「言おうとしただろ」
それっきり口を閉ざしてしまう。傍からは言葉を選んでいるように見えた。
春も沈黙。和久の次の言葉を待つことにする。
やがて――
「今まで春樹が誰かに告白されたときはさ、何と言えばいいか……羨ましかった」
「……そうなのか?」
意外な感想が返ってきて、春は思わず和久の顔を見上げた。
すぐ隣に立っているくせに、いつの間にか二人の顔の距離は随分と離れてしまった。
思春期の成長速度には驚かされる。ともに肩を並べていた頃が懐かしい。
春の問いに和久は『ああ』と頷いた。
「だって、ほら、俺だって健全な高校生だし。異性にモテるってのは、やっぱ羨ましい」
「そういうもんか」
高校に入学してから告白ラッシュを潜り抜けてきた春からしてみれば、興味のない相手からの恋愛感情なんて煩わしいだけなのだが。
……自分のことながら傲慢に聞こえる。
そのまま伝えていいのか判断に迷っているうちに、和久は春を待つことなく言葉を紡ぐ。
「でも……昨日断ったら、相手が泣き出してさ。なんか罪悪感が凄くて。だからお前は普段どうなんだろうなって」
「……罪悪感があるからって、オッケーしても長続きしないんじゃねぇの」
春は直截的に心情を吐露することなく、告白を受け入れた場合の仮定(あまり明るくない未来予想図)を展開した。
中途半端な気持ちで交際を始めても、上手く行くとは思えない。
……告白された経験が多いだけで、春自身、誰かと交際した経験はない。
実際のところはどうなのか、よくわからない。案外するすると行ってしまうのかもしれない。
「これからもあんなことがあるのかと想像しちまって、昨日からずっと気が重くて……」
「お前、自己評価高いのな」
素のツッコミが口を付いた。失礼と思いつつ吹き出してしまった。普通そうはならんだろうに……
和久は顔立ちは悪くない。整っている方と言ってもいい。適当過ぎる髪型が残念な点を除けば。まぁ、髪型なんて後からどうとでもなる。大した問題ではない。
男性としては平均をやや上回るくらいだろうが、身長だって結構高いし、細身だけど意外とがっしりしている。
性格は基本的に真面目。さっきの言葉は……初めて告白されて舞い上がっているだけだろう。
学業成績は優秀だ。春も試験前には一緒に勉強――実際は和久に一方的に教わっている。
つまるところ、和久はかなりの優良物件である。決して自己評価が高すぎるというわけではない。周囲がようやく和久を正当に評価し始めたのだろう。
「これからも告白されるとして……お前、ずっと断り続けるのか?」
「……まあな」
「なんで?」
これから和久に想いを告げてくる女子の中に、琴線に触れる出会いがあるかもしれないのに。
あってもらわないと困るという思いと、あってもらっては困るという思い。
矛盾したふたつの感情の狭間に立ったまま問い返す。
「なんででもいいだろ?」
「いやいや、何の理由もないのに断るのって難しくないか? つか、断ったら普通に理由は聞かれるだろ」
春としても理由が知りたい。他の奴に教えるつもりは全くないが。
ごくさりげない流れで和久の心中を探る。背中にじっとりと汗が滲む。
いつの間にか空いていた右手をぎゅっと握りしめている。緊張が高まっていく。
「それはまぁ、そうだな……どうすればいい?」
「なんでそれを俺に聞く?」
和久が告白を断る理由は、和久の胸の内に存在するもの。
そこに春が介在する余地は存在しない……はずだ。
「いや、だからほら、それは経験豊富な春樹を頼りにだな……」
「……そうだなぁ」
はぐらかされたような気もするが、追及しても和久は口を割らないだろう。長い付き合いから和久の性格は熟知している。
それに、TSしてから(する前から)頼りっぱなしの和久に頼られるのは悪い気持ちではない。
親友として、できれば力になってやりたい。その思いは嘘ではない。
まあ……春にとってちょっと都合がいい展開であることは確かだ。
和久の悩みに付け込む形で自分の目的を果たすことに、それこそ罪悪感を覚える。
それでも――
「誰とも付き合う気はないんだな?」
「ああ」
「……誰か好きな奴でもいるのか?」
「別に……そんなことはないぞ」
じゃあ、なんなんだよ。
問い詰めたくなるところをグッと堪える。
和久にとって『小日向 春樹』はすでに『小日向 春』になっている。
『春樹』と呼ぶのは親友と(心の中で)交わした約束を形式的に守っているからにすぎない。
春を本当に『春樹』として扱っているのなら、そもそもこんなことは聞いてこない。
「まぁいいや……だったら、良いアイデアがある」
「マジか。さすが春樹」
声は震えなかったが、演技がかっていることを自覚していた。ハッキリ言えば棒であった。
コホンとひとつ咳払い。心底感心した声を上げる和久(気付いた様子はない)に向かって右手の人差し指を突き付ける。
そして、たった今思いついたかのように『妙案』を口にする。実際は一晩中ずーっと考えていたのだが。
「和久、これからはオレのことを『春』と呼べ」
お読みいただきありがとうございました。
短いお話でしたがいかがだったでしょうか。
評価や感想を頂けましたら幸いです。
2020.02.03追記
現実恋愛ジャンルで性転換ものは無理かな~と考えていたのですが、意外と需要があるっぽいので、長編化を計画中です。長編読んでみたいと思われた方は、応援いただければ幸いです。下の方をポチポチっとよろしくお願いいたします。
2020.02.20追記
『さよなら、春樹【連載版】』の投稿を開始しました。
こちらの方もよろしくお願いいたします!




