前編
TSが好きです。
好きなものを書くのは楽しいです。
2020.02.20追記
『さよなら、春樹【連載版】』の掲載を開始しました。
文末のリンクから飛べますので、こちらもよろしくお願いいたします。
「小日向、俺と付き合ってくれ!」
夏休みを間近に控えた放課後の校舎裏に切実な告白が響き渡った。大きな声だった。
人影ふたつ。高校指定の制服に身を包んだ男と女。互いの距離はいささかばかり離れており、生い茂った木々から漏れる太陽の光が射し込んでいる。
会話の口火を切ったのは――男。軽く色が抜けた髪を短く整えており、緊張感に強張ってはいるものの顔立ちは良好。
上背は高く、何かスポーツをしているのか肌は日に焼けて、筋肉質な身体は引き締められている。
いかにも青春を謳歌していると全身で表現している男は、女子に向かって真っすぐに頭を下げている。
対する女は――とてもひと言では言い表せないほどの美少女だった。
長いまつ毛に縁どられた大粒の瞳は夜の海を思わせる深い黒をたたえていて。
すっと通った鼻梁と可愛らしい小鼻。桜色にしっとりと色めく唇。ひとつひとつのパーツが完璧な設計図に基づいて配置されていた。
高校生らしい『可愛い』と大人を感じさせる『きれい』をブレンドした美貌にじっと見つめられてしまうと、男女を問わず平静を保っていられないだろう。
すらりと伸びた背丈は女子にしては高い。身長は160センチオーバーと思われる。
視線を顔から下に落とすと、制服を内側から盛り上げる胸元に目が引き寄せられる。
腰の位置は傍目に見ても明らかに高く、丈の短いスカートから伸びる白く長い脚が眩しい。
全身から迸る瑞々しく艶やかなオーラもあって、ただの一瞥で見る者の記憶に深くその存在を刻み込むことは間違いない。
『小日向 春』
春は男の後頭部に視線を固定したまま、唇を閉ざしている。
他に誰もいないその場所は、しかし決して静寂に包まれていたわけではない。
校舎のどこかから聞こえる調子っぱずれな吹奏楽部の演奏。
少し離れたグラウンドからは、部活に精を出す運動部員の言葉にならない叫び声。
微かに吹く風が揺らす木々の騒めき。放課後は活気に満ち溢れている。
「えっと……その……」
告白された春は、躊躇いがちに言葉を紡ぐ。
男は春の答えを待つこともなく、口を開いた。
「ずっと君のことが気になっていた。小日向が女になってくれてよかったって思うくらいだ。だから……」
「ごめんなさい」
早口でまくし立てる男の告白は、春の口から零れた、たったひと言で切り捨てられた。
取り付く島もない拒絶の声すら――透き通るクリスタルのように美しく響いた。
タイミングを計ったように先ほどまで校舎裏に届いていたあらゆる音が消え失せて、静寂が一帯を重苦しく支配した。
★
告白を断られて意識をどこかへ飛ばしてしまっていた男は、程なくして無事再起動を果たした。愛想笑いを浮かべつつ、要領を得ない呟気を残して春の前から去っていく。
春は、すっかり消沈してしまったその背中を見送ってホッと溜め息ひとつ。
蒸し暑い風に吹かれて揺れていた髪を撫でつけ、胸元からスマホを取り出して液晶に指を走らせる。
ツイッターを見ながら3分経過したことをしっかり確認、校舎裏を後にする。
さっきの男がどこの誰かは記憶にないが、告白を断った直後にバッタリ出くわしたら、お互いに色々といたたまれない。
ザクザクと地面を蹴るローファーの音は、春のたおやかな容姿とは裏腹に粗雑な印象を与える。
誰と出会うこともなく薄暗い校舎裏を脱出。角を曲がり、グラウンドの脇を進む。
行き交う生徒が多いエリアに足を踏み入れると、四方八方から視線を感じる。
ランニング中の陸上部員、柔軟しているサッカー部員。その他いろいろ。ほとんど男子ばっかり。
狙いは春の顔と、豊かに盛り上がった胸と、そして制服に隠されていない白い手足。
どいつもこいつも『まるで興味ない』と言った風情を装いつつ、横目でチロチロと春の肢体を見つめてくる。
――丸わかりなんだがなぁ……
心の中ではゲンナリしつつも、表情には顕わさない。
慣れてしまったというのもあるし、彼らの気持ちもわからなくはないというのもある。
美少女と夏の薄着の相性は抜群で、本能的に目が引き寄せられることを咎めるつもりはない。
男子高校生としては彼らは標準レベル。犯罪行為に走らないだけ分別があるとも言える。
思春期真っただ中の男子たちの考えそうなことはよくわかる。
「春樹」
不意に掛けられた声は、春にとって聞き慣れたもの。
声変りを経た、低く重く響く声。しかし若さの中にも落ち着きを感じさせるその声からは、不快感を覚えることはない。
「和久、どうかしたか?」
呼びかけに対する答えは、ざっくばらんと表現するよりぶっきらぼうと言った方が相応しい。
どちらにせよ、可憐な容姿にはあまり似合っていない事だけは共通している。
しかし、先ほど告白を断った時のような硬質な冷たさはない。自然体で親しみやすい声色。
振り向くと、腰まで伸びた黒髪がふわりと舞う。一緒に丈の短いスカートの裾もふわりと舞った。
その様を食い入るように見つめる男たちをスルーしたその先にいたのは――眼鏡をかけた背の高い男。
『江倉 和久』
春とは幼稚園の頃からずっと一緒の、いわゆる幼馴染。
中学校に入ってから伸び始めた身長は、今では180センチほどにも及び、並ぶと春より頭ひとつくらい高い。
シルエットは細身だが、よくよく見ると夏の制服の袖から覗く腕は意外とがっしりしている。
髪は短く乱雑にカットされており、実にもったいないと春は心の中で思っている。口にはしない。
目許には知的な、あるいは冷徹な印象を与えるシルバーフレームの眼鏡が、太陽の光を受けてキラリと輝いていた。
「いや、見かけたから声をかけただけだ。今から帰りか?」
「ああ」
春が歩いてきた方に目をやると、和久は同情するような笑みを向けてくる。
「またいつもの奴か……お疲れさん」
告白をはじめとする交際のアレコレと言うのは高校生にとっては一大イベントではあるのだが、『小日向 春』が告白されるのも、それを断るのも、もはや日常茶飯事。
春が入学した4月の頃には告白する順番を巡って乱闘騒ぎが起きるほどに沸いた校内も、夏休みを目前に控えた今となっては随分落ち着いてきた。
それでも今日のように告白を受けることは少なくないし、そのたびに生徒たちの噂に上る。
『春が誰と付き合うことになるか』と言うのは今の校内で最もホットな話題である。やたらとインタビューを敢行してくる新聞部を撒くのもひと苦労。
「もう慣れちまったけど……なんでオレが謝らなきゃならんのだろうな?」
春はごく自然に自分のことを『オレ』と称した。
可愛らしい唇から飛び出すには不釣り合いな一人称。しかしその口調は驚くほどに違和感がない。
「知らんよ、俺に言われても困る」
幼馴染の愚痴を軽く流しつつ、和久は春の横に並ぶ。
和久の身体からふわりと漂う男の匂いが春の鼻をくすぐる。
夏だからだろうか、やたらと匂いが気になる。自分の匂いよりも、和久の匂いが。
最近の春を密かに悩ませる原因のひとつである。
「和久、部活は?」
「今日は気が乗らん」
和久は頭を掻きまわしつつ応えた。
この男は美術部で油絵を描いている。将来画家を目指しているとか、そういったビッグな目的があるわけではない。
単に子供のころからの習い性で、絵を描くのが好きなだけ。
春も何度か作品を見せてもらったことがあるが、贔屓目を抜きにしても上手く描けているように思う。
美術部員は和久を含めてたったの3人。様々な部活動がひしめき合う校内において、広い美術室を少人数で占拠していることは、生徒会でも問題視されているらしい。
『自分たちの領地を護るためには実績が必要だ』と気炎を上げる美術部の部長(2年女子)に付き合わされる形で、和久の放課後はほとんど部室でキャンバスに向かって消費されている。
「なあ、春樹」
和久は奥歯にものの挟まったような口ぶりで語り掛けてきた。
見るからに面倒なことを言いだしそうな雰囲気を醸し出している。
だからと言って親友の言葉を遮るような真似をする春ではない。
「ん? どうした?」
「部長が、またお前にモデルになってほしいと言ってるんだが……」
「あ? まぁ、いいよ、別に。いつ?」
「夏休み。フルで」
「なげーよ!」
思わずツッコミを入れた。
高校一年生の夏休みを、ずっと美術部の椅子に腰かけて過ごせとは横暴に過ぎる。
いくら幼馴染が世話になっているからと言って、さすがにそこまでする気にはなれない。
「だよなぁ。暇な日を教えてくれ。あとで部長と相談する」
「あいよ」
和久の言葉を受け、スマホを取り出してスケジュール帳に目を走らせる。
夏休みの予定は真っ白だ。うら若き乙女として、これは虚しい。
このままでも、美術室通いでも灰色の夏休みになりそうで……心の中に雲がかかる。涙の雨が降りそうだ。
晴れ晴れとした夏の空を恨めしく睨み付けていると――
きゅるるる
腹が鳴った。
どちらの腹が鳴ったのかは、ふたりとも口にしなかった。
授業は午前中のみで弁当はなし。告白のために校舎裏に呼び出されていた春は、当然何も口にしていない。
それでも、いちいち指摘しないのがマナーというもの。
「ラーメン屋、寄ってくか」
「お、おお……」
校内一と名高い美少女は、羞恥に頬を赤らめた。
★
最寄り駅まで戻ってきた二人は、そのまま近くのラーメン屋に入る。
年頃の男女が足を踏み入れるには不釣り合いなイメージがあるが、春も和久も特に気にした様子はない。
店内は冷房がよく効いていて、暑い中を歩いているうちに滲み出た汗が急速に体温を奪ってゆく。
慣れた手つきで券売機のボタンをプッシュ。食券を店員に手渡す。春は塩ラーメン。和久は味噌ちゃんぽん。ガンガンに冷やされた店内なら夏でも熱いラーメンが美味い。
セルフサービスのお冷やをコップに注ぎ、テーブルに向かい合って腰を下ろす。
チラリと周囲に視線を走らせると……まばらに座っていた客が春の様子を窺っている。
――それにしても、なぁ……
じっと和久を見つめていると、訝しげに眉をひそめられた。
「どうした、春樹?」
「……なんでもねーよ」
行儀悪げに頬杖をついたまま答える春に、『そうか』とだけ答えて水を口に含む和久。
ふたりが何の気兼ねもなくラーメン屋を訪れるのも、和久が春のことを『春樹』と呼ぶのも、ちゃんと理由がある。
その理由とは――春がかつて男だったから。このラーメン屋に入るのも別に初めてと言うわけではない。
何を言っているのかよくわからないかもしれないが……春はかつて『小日向 春樹』という名の男だったのだ。
『突発性遺伝子変異症候群』
読んで字のごとく、突然遺伝子が変異する現象である。
具体的には性別が変わる。『男→女』『女→男』のどちらの場合もある。
そのため、一般的には『TS』と呼ばれている。
春がTSしたのは中学3年生の夏休み直前。
急な発熱と目眩。明らかに普通の風邪とは異なる痛み。あえて表現するならば全身をバラバラに解体し力づくで捏ね回すような。
苦痛のあまり意識を失って――次に目覚めたとき、すでに性別は変わっていた。
遺伝子変異の発生は基本的に第二次性徴期よりも前、概ね10歳までと言われている。春も保健体育の授業でそう習っていた。
TSする確率は概ね0.001%とされている。これは長年の研究に基づいた信頼のおける数字だ。
質の悪いソシャゲの最高レアキャラ排出率なんて問題にならないほど低いその数値を目にしたとき、誰もが『自分には関係ないな』と胸をなでおろす。
春が殊更に迂闊だったわけではない。保健体育の授業でTSについて習ったのは中学校に入ってから。とっくにTSする時期は過ぎていた。
しかし、春はTSした。何事にも例外があるということだ。
昏睡していた期間はおよそ1か月。第二次性徴期以降にTSすると、極端なまでに生存率が低下する。
生存率約1割。その数値を耳にした時、春は自分が死の淵に立たされていたことに愕然とした。実際のところ、かなり危険な状態だったらしい。
文字通り『九死に一生を得た』のだ。女になってしまったからと言って文句を言う筋合いでもない。そもそも誰が悪いという話でもない。
目を覚ました後も全身は激しく衰弱しており、リハビリに長い期間を必要とした。高校受験を控え、授業の遅れも深刻で(もともと春の成績は良くなかった)あった。
それでも春が無事に退院し、中学校を卒業、高校に入学することができたのは、ひとえに日本のTSに対する研究と法整備が進んでいたからである。
TSしたことにより、春樹を取り巻くありとあらゆるものが劇的に変化した。もちろん性別の変化が一番大きいのだが……事はそれだけでは済まなかった。
例えば――名前。『春樹』という名前はあまり女性的でないため、『樹』を取って『春』と呼ばれることになった。役所にも書類が提出されている。
そして容姿。『小日向 春樹』は自他ともに認めるほどに特徴のない男子だった。
言い方は悪いが『毒にも薬にもならない』という言葉がよく似合う。見た目も中身も。
だが、現在の『小日向 春』は違う。並外れた美少女だ。
誰もが『小日向 春』を絶賛する。実の両親さえも。
春自身も、その優れた容姿については認めるところである。
しかし――
『なんだか、俺が……男だった『小日向 春樹』が、いらない人間だったんじゃないかって……』
美しく変貌した『小日向 春』が持て囃されるたびに、かつての『小日向 春樹』の存在が蔑ろにされているように思えた。
胸の奥に蟠っていたヘドロのようなその本音を耳にしたのは、今、目の前で味噌ちゃんぽんを啜っている和久だけ。
他の誰にも告げたことはない。家族にも、医者にも。和久に打ち明けたのは、腹蔵なく語り合える親友だったからこそ、である。
春はこれからの人生を女として生きていかなければならない。
一度TSした人間は、二度とTSすることはない。人工的な手段で再び性別を変更することもできない。
人生80年と考えれば、春は男として生きた時間よりも、女として生きる時間の方が圧倒的に長くなる。
頭では理解している。現実を受け入れなければならない。でも――辛かった。
女として生きることが辛いのではない。男として生きた時間を否定されることが辛かった。
親友の悲痛な慟哭を聞いたその日から、和久は春のことをTSする以前と変わりなく『春樹』と呼ぶようになった。
ほかの誰もが忘れても、自分だけは忘れない。親友だった『小日向 春樹』を。男だった『春樹』を。
余計なことを何も語らない和久は、しかしきっとそんなことを考えているのだろう。
幼いころからずっと傍で過ごしてきた春には――わかる。わかってしまう。
それでいい。そう、自分が望んだはずだったのだ。
★
明けて翌日もまた、授業は午前中で終わった。夏休み直前だから当たり前。終業式までの残りわずかな日々は、ずっとこんな感じ。
部活に入っていない春は、早々に帰宅しようと教室を後にして下駄箱に向かい――そこで挙動不審に辺りを見回す和久を発見した。
声をかけようとして思いとどまり、物陰に隠れて様子を窺う。今の和久は怪しい。怪しすぎる。美術室に向かわずに、なぜこんなところにいるのだろう?
やがて和久は靴を履いて昇降口を後にする。物陰からチェックした親友の向かう先は――校舎裏。
――オイオイ……
春にとっては馴染み深くなってしまったその場所は、あまり人が訪れることのない校内一の告白スポット。
時は放課後。そこで何が行われるかは想像に難くない。のぞき見はよくない。わかっているのに――春は和久の後をつけた。
木陰に隠れて待つこと暫し、所在なさげに立ち尽くす和久にひとりの女子が駆け寄っていく。見覚えのない顔だった。キラキラと輝く瞳と真っ赤に染まった頬が恋を感じさせる。可愛らしい。
まさか目撃者がいるとは想像もしていないであろう女子は、はにかみながらも和久に思いを告げた。傍で見守っている春の心臓が早鐘を打つ。自分が告白されてもまるで響かないくせに、今は胸の奥の鼓動がうるさい。
口の中はカラカラだ。頭は締め付けられるかのような鈍い痛みを感じている。気のせいか、視界が暗い。立っているだけでも辛いけど――春はじっと和久の様子を観察し続ける。
和久は動かない。沈黙を守ったまま彼女の言葉を吟味している。春からしてみれば、何ともじれったい。ほんのわずかな時間が永遠にすら感じられる。緊張感が半端ない。
あまり女っ気のない親友が何と答えるのか知りたい――いや、知りたくない。矛盾した思考がみるみるうちに脳裏を埋め尽くし、頭の中がスパークする。
――ああ、もう!
限界はすぐに訪れた。これ以上は無理だった。もう見ていられない。
春は、音を立てないよう足早に校舎裏を立ち去った。
和久の答えは――耳に届かなかった。