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六月のディニ

作者: オリタタミ


E先生に




(うる)はしきもの見し人は

はや死の手にぞわたされつ、

世のいそしみにかなはねば。

されど死を見てふるふべし、

(うる)はしきもの見し人は。




――アウグスト・フォン・プラーテン 作

生田春月 訳

『トリスタン』より







 愛しいディニ。


 きみにこの手紙が届くことはない。もはや、届けるすべもない。


 あれからもう三年が経ったし、きみが今どこでどうしているのか、ぼくは知らない。


 このコロニーの外の、茫漠たる荒れ地の遙か彼方、きみがP2と呼んでいたあの廃墟に帰って、ずっとそこに住んでいるのか。

 どこかほかの廃墟に移住したのか、仲間を見つけることはできたのか、今でもひとりぼっちなのか、それとも、――きみによく似た幼子を抱え、日々を生きているのか。


 だけど、ディニ、……きみがたとえどこにいても、誰といても、いつでも変わらず健やかに幸せであることを、ぼくは祈ってる。




 美しいディニ。


 きみと初めて出会った朝のことを、ぼくは今も、昨日のことみたいにはっきりと覚えている。

 今だから正直に告白するけどね、ぼくはあのとききみのことが、少し怖かったよ。


 きみにとってぼくが、生まれて初めて見る”継承者”だったのと同じく、ぼくにとってきみは、生まれて初めて見た”旧人類”だったんだ。


 あれは六月の最初の週、コロニーの人工雨が上がったばかりの清冽な朝だった。

 きみは、北西ゲートのすぐ外に倒れていた。お腹を空かせて、埃まみれで、襤褸ぼろを纏って。


 最初は、奇妙ないきものだと思った。病気の獣みたいだと思った。

 荒れ地の暴風にくしけずられたきみの髪は、ばさばさと不揃いで、枯れ草みたいだった。

 宇宙線に照らされ続けた肌はおそらく、それに耐えるように、進化しつつあったのかもしれない。不思議な光沢を見せて、爬虫類の鱗に少し似ていた。


 だけどきみの、プリズムみたいな虹彩を持つ表情豊かな灰色の瞳は、思わず息を飲むほどに美しくて。

 それがぼくに伝えてくれた、たとえちゃんとした教育など受けていなくたってきみは、獣とは違うってこと。

 きみには、清潔な知性があるってこと。豊かな感情が、あるってこと。


 細い不思議な声をして、その声で子どもみたいにたどたどしく喋るきみは、ほんとに奇妙だった。……でも、きみの声は、不快じゃなかった。まるで優しい音楽みたいだ、と思った。

 廃墟で生まれ育った野生児のきみはおそらく、音楽なんてものを知りはしなかっただろうけど。


「わたしは、ディニ」


 はっきりと、きみは名乗った。飢えて汚れていても、自分より体の大きなぼくに相対してもきみは、怯えてはいなかった。

 その不思議な声には、未知に対する好奇心と、他人を信じることのできる純粋さとがあった。


 よく見ればきみは、その面差しにまだあどけなさを残していた。

 数週間前に成人したばかりのぼくとそう変わらない年齢らしいのに気づき、それでなんだか、きみへの恐怖が薄れた。

 親近感すら、湧いてきた。


「こんにちは、ディニ。……ぼくは、ユーリエ。

 きみ、どこから来たの?」


「荒れ地の向こう。

 P2から来た。仲間を探しに」


 疲労して弱っているときですら、明るく輝くようなきみの表情は、停止する瞬間がなかった。きみの心を素直に写して、常に揺らいでいた。

 ぼくに向かって遠慮なくまっすぐに注がれるきみの無垢なまなざしに、ぼくは最初戸惑って、それから、――なんとも言えない、わくわくするような、不思議な気持ちになったんだ。






 気高いディニ。


 ”継承者コロニー”の外の荒れ地から、いきものが、いや人間がやってくるなんて、ぼくらは誰も思ってもみなかった。

 荒れ地は、死の世界だと言われてた。

 有害な宇宙線が降り注ぎ、すべてを薙ぎ倒す強風が吹き荒れる、不毛の砂漠だと。


 だから最初は、きみの話が信じられなかったよ。


 何百年も昔に地球を襲ったあの恐ろしい宇宙嵐の去った後、”継承者”として各地のコロニーに収容されなかった人類、荒れ地に見捨てられた大量の棄民きみんの中に、奇跡的な生き残りがいたなんて。


 荒れ果てた廃墟となりながらも、やがて地下水の潅漑かんがい設備を頼りに逞しい植物たちが生い茂り、その葉陰に昆虫や小動物が繁殖をはじめ、小さな新しい生態系を形成するようになった、荒れ地の中のオアシスみたいな古代都市、P2。

 その緑に飲み込まれた巨大遺跡でしぶとく生きながらえた僅かな旧人類の、何代目かの子どもとして、きみは生まれ育った。


 見渡す限り草木の一本もない広大な荒れ地の中、ぽつんと取り残されたそのオアシスの小さな閉じた社会が、生まれてから十数年間、きみの知る世界のすべてだった。


 狩猟と採集と簡単な農耕の、自給自足で完結した廃墟の社会は、ぼくたちのコロニーとよく似ている。

 ただ、ずっと原始的であるってだけで。――自然の気まぐれに常に脅かされ、生命ははかなく、弱い者は簡単に淘汰されてしまう、そんな過酷で熾烈な社会だってだけで。


 きみはぼくに何度も、ハリケーンの夜の話をしたね。

 きみの家族を含むP2の多くの人々の命を奪った、巨大ハリケーン。


「恐ろしい夜が明けてみたら、たくさんの塔や壁が、崩れ落ちていた。大きい樹さえ、根元から、倒れていた。

 みんな、死んでしまった。わたしは、ひとりになった。

 寂しかった、何日も、何日も、寂しくて、頭がおかしくなると思った。

 だから、仲間を探しに、行くことにした」


 P2と同じようなオアシス化した廃墟が、探せば他にもあるかもしれない、ひょっとしたらそこに旧人類の生き残りの仲間がいるかもしれない、という可能性に賭けて、きみはたったひとり、持てるだけの水と食料を背負い、荒涼とした不毛の地平に、その二本の脚で、踏み出した。


 孤独とともに荒れ地を越え、ついに生きてぼくらのコロニーまでたどり着いた、きみは英雄だ。


 きみの壮絶な体験と、それになお屈しない意志と、運命を自ら切り開こうとした勇気とを思うたびに、ぼくは今も胸を突かれる思いがするよ。





 愛しいディニ。


 自分の小さな居住ポッドにきみを連れ帰り、おっかなびっくりともに暮らして、十日ほどがあっという間に過ぎた。


 きみはぼくが最初に感じた以上に、賢くて魅力的な女性だった。


 何百年も昔に同じ人類から気まぐれに選別され分断され、今ふたたび”継承者”と”旧人類”として再会したぼくときみとは、なぜだろう――まなざしを合わせ、言葉を交わしあうほどに、互いの魂にじかに触れ合っているような感覚を抱いた。


 ぼくはきみと、たくさんの話をした。

 おそらく、コロニーに暮らすほかの”継承者”たちと話した言葉の全部を合わせたよりも、まだたくさん。


 コロニーのシステムが管理する肉体の”発生”から”分解”までがつまり、ここに暮らす”継承者”たちの一生だ。

 ぼくらは、安全な防護壁に守られたこの箱庭のようなエリア内で、あの宇宙嵐の襲来以前の人類の築き上げた文化と文明を、未来に継承し続ける使命を与えられている。

 そのためだけに生まれて死んでいくぼくら”継承者”は、ひたすらプログラムに従って、各自に割り振られた任務として、先人たちの有形無形の遺産、かけがえのない膨大なデータを、解析し、分類し、保存し続ける。


 それが当然と思い一切の疑問を抱かずに、管理された”継承者”としての人生を生きてきたぼくと、太陽とともに寝起きし、一日の大半を食物の確保に費やして生きてきたきみとが、一体どうしてそんなふうに、深く互いを理解し合ったような感覚を共有できたのか、わからない。


 けれどディニ、あの短い日々にあって、間違いなく、きみの喜びはぼくの喜び、きみの悲しみはぼくの悲しみだった。


 ぼくはきみに、ぼくが専門に整理していた、何千年も前に書かれたいくつかの詩や物語を、聞かせてみた。

 読み書きはほとんどできなかったけれどきみは、古い詩を聞くのが、とても好きだったね。


 そして、自然の美しさを讃え、若い胸に溢れる情動を叫ぶ、言葉というものの本来の力を、ぼくはむしろきみから、初めて教えられたんだ。


 古文書に記された言葉たちは、ぼくにとってこれまで、乾いたデータに過ぎなかったはずなのに。

 それがぼくの唇からきみの耳へと、声に乗って渡されるとき、まるで魔法のように瑞々しく蘇り、鮮やかに花開き、きらきらと輝き始める。


 美しい言葉の数々がぼくからきみへと流れ込み、きみの中に確かに蓄積されていくのはぼくにとって、これまでに感じたことのない、新しい喜びだった。


 それはまるで、奇跡だった。


 ぼくは泣いた。きみに向けて、愛をうたう詩を読みながら。

 心と言葉とがわかちがたく結び付いたものであることを、ぼくは理解した。

 遥かな時を越え、色褪せず蘇る言葉たちが、ぼくの思いをきみに伝えた。そして、ぼくときみとの魂を結んだ。





 可哀想なディニ。


 ぼくがきみに対してしてしまった仕打ちについては、何度謝っても足りないと思ってる。


 ペットを飼うようなわけには、いかないと思ったんだ。きみが人間である以上、その尊厳は守られなければいけない。


 悩んだ末ぼくは管理局に対して、きみのコロニーでの居住登録許可申請を提出した。

 きみが正式なコロニーの住民になれるように、ぼくと対等な諸々の権利を得られるように、と。


 当局からの回答は、二日後だった。

 思いがけぬ、乱暴な形で。


 コロニー上空を覆う防護壁越しに淡く光る空から、銀の糸のような細い人工雨の降る午後だった。

 テラスでお茶を飲みながらぼくがきみに、忘れもしない、プラーテンのソネットを読んで聞かせていたとき、――武装した保安ロボットたちが突然に乗り込んできて、きみを連れて行った。


 それはまるで、野獣の捕獲みたいな騒ぎだった。


 警戒サイレンに、電気銃の発砲音と、撃たれたきみの鋭い悲鳴が重なった。

 思わず飛び出そうとしたぼくは保安ロボットに拘束され、強力な鎮静剤で、体の自由を奪われた。

 霞むぼくの目の前で、きみは地面に押しつけられ、屈辱的な捕獲網を、全身に巻き付けられて、――


「ユーリエ、助けて……」


 最後に叫んだきみの悲しい声は、数日後にきみと再会するまで、ぼくの耳から、ずっと離れなかったよ。




 管理局の許可が下りてやっと面会できたきみは、窓に格子のはまった小さな部屋の中、憔悴しきっていた。

 手足を拘束されたままのきみは、水も食事も頑として口にしなかったそうで、腕に点滴のチューブを貼り付けられられながら、精神矯正機に繋がれていた。


「ディニは獣じゃない、危険な存在じゃない!

 なぜこんな、ひどい扱いを」


 詰め寄るぼくに、システムは冷ややかだった。


『この旧人類は、コロニーの安全で適切な運営の障害となるおそれがあるため、現在、精神矯正の処置を施しています。

 今後の処遇については、検討中です』


「彼女を、ぼくに返してくれ」


『それはできません。

 この個体について、居住登録許可の申請がなされている以上、処置が終了するまで、コロニー管理局がこの個体の管理責任を負うことになっています』


「処置は、いつまで?」


『予測できません』


「…………」


 ぼくは、申請を取り下げた。


 そして、怒りとやるせなさで胸を煮えくり返らせながら、書類一枚で解放されたきみを、返された迷い猫のように、居住ポッドに連れ帰った。


 あんなにも強いと思っていたきみは、連れ帰るぼくの腕の中で、いつまでも震えて泣いた。





 脳に直接作用する精神矯正の強烈なプログラムは、きっときみの尊厳を、身体的暴力や不当な拘束以上に、傷つけたのだと思う。


 居住ポッドに帰ってもきみは、部屋の隅に蹲って怯え続けていた。

 言葉を忘れ、表情を無くし、ぼんやりと壁を見つめ、かと思えば突然うちひしがれたように啜り泣くことを、繰り返した。


 その瞳のプリズムみたいな虹彩は、輝きを失った。


 花弁に露を乗せた朝の薔薇の芳香に驚き、人工雨の降りそそぐ水色の空を飽きず眺め続け、愛をことほぐ昔の詩を何度もねだっては聞きたがった、きみの瑞々しい感性は、管理局の施した残酷な”矯正”に手ひどく痛めつけられて、今にも死にかけてるように見えた。




 大切なディニ。


 泣き疲れて眠るきみを眺めながら、ぼくは決意したんだ。

 きみの幸福は、このコロニーにはない。きみをP2に帰そう、そしてぼくもきみとともに、きみの生きる場所で生きよう、って。


 ぼくは密かに、旅の支度を整えた。

 水と食料、医薬品に衣類。役に立ちそうな工具、農器具や武器、穀物や野菜や花の種。


 コロニーに居住する”継承者”として生まれたぼくにとってその時まで、もっとも大切で守るべきものは、コロニーに保存される膨大な旧文明のデータそのものだった。


 それをうち捨ててここを去ることは、自分のこれまでの人生、所属する共同体、依って立つ思想のすべてに、決別することだ。


 けれどもう、迷いはなかった。


 ぼくの心のすべては、ディニ、――きみとともにあってこそ、はっきりと形を為す。


 きみのいない人生になどなんの意味もないと、ぼくはもう知ってしまった。

 



 六月の、最後の週が始まるその日。

 夜明け前のまだ暗い内に、ぼくは、眠っていたきみを揺り起こした。


 行こう、とだけ言って、手回りの荷物の半分をきみに担がせ、コロニーを抜け出した。


 ぼくは密かに、管理する資料運搬用のソーラーヴィークルを一台失敬して、前日のうちに資材を積み込み、北西ゲートの外の岩場の陰に、隠しておいた。


 初めて目にするこの大きな乗り物に、きみは目を丸くした。


「太陽光で走るヴィークルだ。

 これがあれば、たくさんの荷物を積める。荒れ地を越えられる。

 どんな遠いところにも、行き着ける。いずれは、生き残りの仲間も探せる」


 きょとんとしていたきみはやがて、ぼくのこれからしようとしていることを理解して、頬を紅潮させ、瞳を潤ませた。


「……ユーリエ、……あなた、……」


「きみを愛してる。ディニ、きみと生きたい」


「…………」


「さあ、P2へ帰ろう、一緒に。

 まずは、死んだ人たちを、弔おう。

 そしてぼくをきみの、最初の新しい仲間として、迎えてほしい」


 驚きに声を詰まらせるきみを、荷物とともに座席に押し込んでぼくは、きみの話から推測したP2の方角に向け、ヴィークルを出発させた。


 ふたりを乗せたヴィークルは、まるで古代の物語の中の、姫君と騎士を乗せて進む忠実な魔法の馬のように、暗い荒れ地を走り出した。


 背後のコロニーは、なだらかな弧を描く地平線の向こうに、やがて見えなくなった。

 天を見上げれば、つい先ほどまでぎらぎらと光る星に飾られていた漆黒の夜空は、今は透き通った藍色に変わり、間もなく朝の太陽を迎えようとしている。


 追ってくる者がないのを確認して、ヴィークルを停車させた。

 冷えびえとした荒れ地に立ち、指と指を絡め合い、そして抱き合ったぼくらは、周囲三百六十度に広がる荒涼の果てを見渡した。


 そのとき、地平線から差してきた薔薇色の朝日が、ふたりを照らし、あたためた。

 あたかも、この不毛の場所をさまよう小さな生命になにか偉大なものが贈ってくれた、優しい祝福みたいに。


 寄り添うふたりの頼りなげな影と、大きなヴィークルの無骨な影とが、灰色の土の上に長く伸びた。


 どちらからともなく、唇を重ねた。





 ああ、……ディニ!ぼくのディニ!


 古い物語に描かれたような旧人類的な男女のことが、まさか”継承者”である自分自身の身に起きるなんて、ぼくはつい先月まで、夢にも思ったことはなかったのに!


 潤んだきみのまなざしが、蕩けるようなくちづけが、ぼくの中のなにかを、いともあっさりと解放してしまったんだ。


 きみの体はほっそりと華奢なようで、しなやかな肉と柔らかな脂を纏い、ぼくにぴたりと密着してきた。


「ユーリエ」


 きみが呼ぶぼくの名前は古代風の独特の発音で、それを聞く度にぼくの体は、芯にあるなにかを熱くする。


「あなた、本当に、行くの?」


「行くとも、ぼくら、ふたりで行こう、……だから、あんな精神矯正機のたわごとなんか、さっさと忘れちまえ、ディニ。

 きみは、愛と美と勇気の妖精だ。オアシスの女王だ。

 ぼくを連れて行ってくれ、きみの王国へ」


 答えてぼくはもう一度、きみと唇を合わせた。

 濡れた舌と舌とが絡み合い、互いの唾液が混じり合うのに、それが少しも不快じゃないのが、不思議でたまらなかった。


 ぼくは生まれて初めて、こんなにも他人と触れ合っていた。

 広大な荒れ地の真ん中で、宇宙と繋がった本物の蒼穹の下で、ぼくらは今、吹けば飛ぶほどにちっぽけで。

 けれど互いの体温と質量を感じていれば、痛快なほどに、心細さなど感じない。


「……ありがとう。

 ユーリエ、愛してる。

 あなたに出会うために、そのためにわたし、あんなつらい思いをしてまで、荒れ地を越えてきたんだって、今わかった。

 一緒に行きましょう。どこまでも」


 涙に潤んだきみの瞳の中にきらめくプリズムが蘇るのを、ぼくは見た。


 選ばれし者の末裔のためのあのコロニーから、――安全な人工の空の下、すべてをシステムに管理された人生を強いられる人々の国から逃亡し、伸びやかな情熱と誇りとを回復したきみの野生は今や、ぼくの遺伝子に封じ込められた野生をも、覚醒させようとしていた。




 ヴィークルの座席を倒したら、そこは小さな寝室になった。

 その中に潜り込み、まるでなにかの禁を解かれたように転がりながら抱き合うぼくらは、ひとつの繭の中に押し合ってひそむ二匹のさなぎだ。


「ユーリエ、……多分、あなたの知らないことを、わたしがこれから、教えてあげる」


 そう囁いたきみの小さな柔らかい手が、ぼくの体に、医者がするようなことをしてきた。


「怖くないからね、……いえ、少し怖いかもしれないけど、大丈夫、……声を出しても、泣いてもいい、わたしはそれを、笑ったりしないから」


「…………」


 きみ自身だって、少しは怖かったのかもしれない。

 微かにその指先を震わせながらきみが、着ていた服を脱ぎ捨て、次いでぼくの服を一枚ずつ脱がすにつれ、ぼくの心臓は早鐘を打った。――ああ、なんてことを、ディニ!


「これは、特別なこと。素敵なこと。

 愛し合う人どうしがする、ふたりだけの、秘密のこと。

 ユーリエ、わたしたちは、これから、ひとつになるの。

 ね、……わたしたち、ずっと一緒」


 きみの囁き声と、同時に耳を撫でる呼気の感触とに、ぼくはますます混乱して、言葉も忘れて、俯いた。


 人間である以前に、まず”継承者”としてのあり方しか学んでこなかったぼくには、この先が、わからなかった。


 このあと起こることが、ぼくのするべきことが、きみの望んでいることが、生物にとってあまりに当然のはずのことが、――ぼくにも、できるのだろうか?間違えずに?

 物語や詩の中の逞しい男たちみたいに、愛する女性と、”結ばれる”ってことが?


「だからわたしを、……自分自身を信じてね、ユーリエ」




 その後のことは、実は、順序立てて思い出すことができないんだ。


 ただ、ぼくはきみを知った。ありのままのきみの匂い、きみの味を。取り繕うことない喘ぎと、剥き出しの表情を。


「――二百と六十日くらい経つと、赤ちゃんが産まれてくる」


 ……激情の嵐の過ぎ去ったけだるさの中、汗にまみれ、半分まどろみつつ抱き合いながら、きみは、自分のお腹にぼくの掌を導き、うっとりと呟いた。


「あなたと、わたしと、ふたりの血を分けた、赤ちゃんが。

 楽しみに待ちましょう、ユーリエ」


 そのときのぼくの胸に溢れた驚きと喜び、深い感動を、なんと言い表したらいいだろう。


 そうだったのか、と、ぼくは初めて、心の底から理解した。

 これが、生きとし生きるものすべての営み、愛にかたちを与え、生命を未来に繋ぐということなんだ、って。





 ぼくの妻、ディニ。


 ぼくらの目指すきみの故郷、廃墟のオアシスP2には、日の沈む方へとまっすぐ数日間走り続ければ、到着する計算だった。

 水を飲み少し眠ってからぼくらは、再び出発した。


 いつしか太陽は南中を過ぎ、午後の強い日差しは、ヴィークルのフロントグラス越しにもぼくの目を焼いた。

 頭痛が酷くなって、ぼくは薬を飲んで横になり、休まなくてはならなかった。


 まどろみから覚めると、夕暮れだった。

 日中はあまりの暑さに、窓も開けられずヴィークルに閉じこもっていたぼくらは、やっと地面に下りて土を踏み、新鮮な空気を吸い込んだ。


「ユーリエ、具合はどう?」


「だいぶ良くなったよ。目と喉は、ひりひりするけど。

 ――ぼくは、コロニー外の空気に、慣れてないから」


「きっとそうよ、そのうちに慣れる。

 それにP2は、もっと快適な場所だから、大丈夫。

 たくさん繁ったつたの葉や、大きな樹木の梢が、眩し過ぎる光を遮って、強い風も和らげてくれるの」


 ぼくの額にかかる前髪を撫でながら、優しくほほえむきみの笑顔は、これまでで一番、輝いていた。


 静かな自信と未来への希望に溢れ、ぼくと手を取り合って、ともに進んでくれるディニ。

 きみは以前に増して逞しく美しく、すでに密かに、少女から母親へと、進化しつつあるように見えた。




 荒れ地が穏やかなのは、早朝と夕刻のごく短時間に過ぎないと知った。


 太陽が沈みきると同時に気温は一気に氷点下まで下がり、冷たく乾いた暴風が、巨大な獣の叫ぶような音を響かせて荒れ狂った。


「わたしが歩いて旅をしたときは、地面を掘っては窪みを作り、その中に丸まって、夜の風を耐えた。

 それに比べたら、ヴィークルの中は、まるで天国よ」


 きみはそう言って励ましてくれたけど、日中の酷暑から一転、窓が凍りつくほどの寒さと、続く風音と激しい揺れに、ぼくは眠ることができなかった。

 夜明け近くなって、やっと風がおさまる。


 明け方の僅かな時間、ぼくらは地面に下りて手足を伸ばし、調理した温かい食事を久し振りに口にした。 

 そしてまた太陽が昇り、殺人的な暑さが、再びぼくらを襲った。

 昨日以上の頭痛に悩まされ、ぼくはやはり日中の大半を、ヴィークルの座席で、横になってうめいた。




 ぼくの体は、急激に弱っていった。


 三日目、ぼくは突然、視力を失った。

 激しい頭痛に起きあがることもできず、同時に喉が腫れ上がり、咳が止まらなくなった。


「……ディニ、薬を。……まずは赤いパッケージの錠剤、それに、大きい方の吸入器を。……ああ、そうだ。

 ……次は、32番のアンプルと、注射器を出して、――ディニ、やり方を教えるから、ぼくの言うとおりに」


「ユーリエ!

 無理よ、もう、……お医者様に、かからなくては」


 きみがおろおろと取り乱しているのが、もどかしかった。

 どうしてぼくは、こんなことになってるのか。


 早くP2に、ぼくらの新天地に、一日も早くたどり着かなきゃならないのに。


「……コロニーに戻りましょう、ユーリエ」


「駄目だ!戻らない。

 もう二度と、……ディニ、きみを、あんな目に、……」


 思わず大声を出すと、発作のような咳に息ができなくなった。

 喘ぎ震えながらぼくはきみに縋り、きみは怯えて、ついに啜り泣いた。




 きみの処置のおかげで、やがて症状は少し落ち着いたけれど、ぼくの視力はそれきり、失われたままだった。


 今が昼なのか夜なのかも、もはや定かではない。


 闇の中、熱に火照る体をもてあまして何度も寝返りを打つと、きみのひんやりとした柔らかな手が、僕の手を握ってくれた。


「……ディニ、……まだ着かないの?

 ……P2は、遠いな」


「――あなたを、死なせたくない」


「死ぬ?ぼくが?よせよ」


 強がってはみたけれど、真っ暗な死は、もうすぐそこに迫っている気がした。――けれどそんなの、ぼくにとってはもうどうでもいいことのように思えた。


 きみと、お腹の子を、守ること。安全な場所に、送り届けること。

 そのときのぼくには、それがすべてだった。

 この命と引き換えに、きみをP2に届けることができるなら、迷いなく死ねると思った。


 きみは、声を殺して泣いていた。


「ねえ、……わたしが、コロニーで暮らせば、……」


「ディニ!それだけは駄目だ。

 こうなった以上、隠れて暮らすことはできない。

 きみはきっと、連れて行かれる。

 拘束されて、今度はきっと何ヶ月も、あの忌々しい精神矯正機に繋がれる」


「……それでもいい。

 我慢する。精神矯正だって受ける。あなたに、ときどきしか会えなくてもいい」


「駄目だったら!」


 ぼくが叫ぶと、握り締めたきみの手が、びくりとこわばった。


「コロニーはきっと、きみの心を、殺してしまう。――規則に反したぼくらの絆も、管理されずに生まれてくるぼくらの子どもも、殺してしまう。

 それこそが、ぼくの敗北だ!

 ぼくの、魂が、死ぬことだ!」


「……ユーリエ、……」


「だからディニ、きみは絶対に、向かわなきゃいけない、きみの心が、自由でいられる場所へ、……ぼくらの愛を、全うできる場所へ。

 ぼくのために、ぼくらの、子どものために、頼むからそこへ、たどり着いてくれ、ぼくを、連れて行ってくれ。

 そしてぼくを、P2に、埋めてくれ」


「…………」


「ディニ、……きみが、守ってくれ、――ぼくらの、一番、大切なものを」


「…………」


 言葉はなく、ただきみの手が、ぼくの手を、強く握り返した。

 同時に意識が朦朧としてきて、ぼくは深い眠りに落ちた。




 そしてそれが、ぼくときみとの、別れになった。

 




 優しいディニ。


 ぼくが意識を失ってからのことは、数日後にコロニーの病院でひとり目覚めてから、当時の記録を見て知ったよ。


 きみはあのヴィークルで、ふたり進んできた荒れ地のわだちを、コロニーに向けて、引き返した。ぼくのために。


 コロニーで生まれ育ち、コロニーの環境に甘やかされたぼくの肉体は、外の世界ではやはり、生命を維持することができなかったんだ。


 降り注ぐ宇宙線も、強風と乾燥も、激しい温度変化も、ぼくの体にとっては致命的だった。

 たとえ過酷な荒れ地を越えて、オアシスのようなP2にたどり着いたところで、きっとそこでもぼくは、長くは生きられなかっただろう。


 コロニーのゲートできみは、ぼくを保安ロボットに引き渡しながら、泣いていたってね。

 お願いです、どうかユーリエを助けてくださいって、何度も何度も、一生懸命、頼んでくれたってね。


 ディニ、ありがとう。


 そのひとことを、きみに伝えたかった。お礼を言いたかった。


 そして、謝りたかった、ディニ、


 ……一緒に行けなくて、ごめんよ。




 きみは、行ってしまった。泣きながら。

 ぼくをコロニーに置き去りに。ひとり、ヴィークルを駆って。荒れ地の果てを目指して。

 ぼくらふたりの、ほんとの故郷を目指して。


 ぼくは、泣かなかったよ。

 ただ、祈った。きみの旅路の無事を。この先たくさんの幸運を。

 そして、――どうか、ぼくときみの命を継ぐものがかたちになって、この世に誰はばかることなく、誇らかに生まれ落ちてくれることを。


 ぼくらの旅を、ぼくの行けなかった遠くへと、繋いでくれることを。






 ねえ、ディニ。


 ぼくの住むコロニーは、もうすぐ、終焉を迎える。


 管理機構の修復プログラムに、想定外の不具合が起きたらしい。

 補修がきかず、コロニーを外界から守ってきた防護壁のほころびは、日々広がっていく。


 間もなく、ぼくを含む数千人の”継承者”たちは死に絶え、旧文明の膨大な遺産も風雨に晒されて、やがて塵芥に帰すだろう。


 だから最後に、この手紙を書いた。


 きみのことを書いた。


 きみとぼくとのことを書いた。


 ふたりの間に、確かにあった、目に見えない、かけがえのないもののことを書いた。


 それを、言葉にして、のこしたかった。言葉を伝える者として生きてきたぼくは、結局はそうせずに、いられなかった。


 だってこれこそ、ぼくら”継承者”が、何代にもわたり守り続けそして失おうとしている、高尚で貴重なデータなんかよりも、今のぼくにとって、尊い大切なものなんだから。




 ディニ、死を目前にして、ぼくは夢見ている。


 きみが今も暮らすかもしれない、遙かなP2。


 荒れ地のオアシス。旺盛に茂るつた)の葉に覆われた、廃墟の都市。


 風化したコンクリートが崩れ、剥き出しになって錆びた鉄骨には、柔らかな蔓紫陽花つるあじさいの新芽が絡みつき、夜露を集める。


 きみはその腕に、眠る幼子を抱いて、ラヴェンダー色の朝靄あさもやに包まれた夜明けの廃墟を、歩いてゆく。

 崩れかけた塀の名残に繁った野苺(のいちご)の、その熟れた瑞々しいふたつを指先で摘み採り、ひとつを自分の口に、ひとつを、目覚めてむずかる幼子の口に押し込んでほほえみ、冷たく甘酸っぱい雫を啜る。


 茫々たる地の果てから、薔薇色に輝く朝が来る。

 変わることのない黄金の朝日が、新しい日の始まりを報せ、きみと、幼子とを、あたたかく祝福する。


 ディニ、まっすぐに凛と立ち、きみはうたうだろう。


 荒れ地から吹く風に向かって。

 明けそめる空に向かって。


 そして、腕に抱く我が子に向かって。

 きみの愛を。失われることのない熱情を。


 ぼくらが出会い、奇跡の恋に落ちた季節を。

 はかなくも美しい、ふたりの永遠の六月を。





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