八 遠足
目の前で思い思いにはしゃぐ子供達を眺めるのは、嫌いではない。未来ある、明るい光景だ。それでも。
「――どうしてこうなったのかしら」
無意識に呟いた私に、隣に立つ幼なじみが覇気のない声で応じる。
「いや、お前が色んな魔物に縁があるってのはもう分かったから、そろそろ平和に生きろよ……」
「ちょっと、それじゃあ私が好き好んで魔物に突っ込んで行ってるみたいじゃない。やめてよ……」
自ら魔物の前に身を晒す者というなら、骨の館の猟師の皆さんのことだ。彼らは獲物を仕留めるために、時として身の危険を顧みず働いてくれる。そんな彼らを悪く言うつもりはないが、中にはいるのだ。より強大な魔物との命を賭した戦いを望む、狂戦士のような手合いが。
まさか私をそんな風に見ていたのか。横目でじろりと睨むと、ブルーノは力なく首を振った。そして、目の前で賑やかに遊び回る十二人の子供達を前にして言うのだ。「じゃあ、断るのか?」と。
問われた私は、言葉に詰まる。
知恵の泉を守護し、里の子供達を教え導く師ミーミルからの依頼が館に舞い込んだのは、十日前のことだった。
その依頼とは、この元気な子供達を森の二つの泉に案内してやってほしいという、意外なものだった。
骨の館の長に直接届いた、森の賢者たっての願いだ。館と里長との間で話し合いの場が持たれ、またミーミル先生とも細かな打ち合わせが行われたらしい。ここまでは私や他の皆も聞き及んでいた。
何でも、ミーミル先生は先日の「泉の水を全部抜く」事件を受けて、悩んだのだそうだ。
私達森の民は、然るべき時期が来ると、森の最奥の安全な里を出て独り立ちする。しかし、森そのものから出る者はいない。しばらく森に点在する集落のひとつに住んで、少しずつ魔物や外の世界を知っていくものだった。私やブルーノも、里を出て骨の館で働くうちに様々なことを学んだ。
後に里に戻って所帯を持つ者もいれば、そのまま集落に落ち着く者もいる。また、変わり種ではあるが、森の外で生きることを選ぶ者もごく稀にいた。森の民は、そんな風にしてゆっくりと成熟するものだった。しかし、もっと幼い頃から見聞を広めても良いのではないかと、ミーミル先生は考えた。
教育の一環として、子供達に里の外を見せてやりたい。ただ知識を詰め込むだけでは、生きた知恵にはならない。いくら正統な伝承を遺漏なく伝えても、末裔である子供達がそれを信じるには、時が経ち過ぎたのだ。館の長と里長を相手に、先生はそう訴えたという。
ミーミル先生の話には、私もブルーノも頷くところが多い。現に私達は、里を出てから驚き戸惑いの連続だったのだから。まず初手からして、先生が首だけで生きていると明かされて愕然とした。まあ、常に首から下が水没している先生というのも大概おかしいのだが、そこは物心ついた頃からの当たり前の風景ということで、異常だとは思っていなかった。
里からの巣立ちの餞がまさかの恩師の生首だった衝撃は、今も忘れていない。あの時の先生のいたずら大成功! みたいな顔は、腹が立つほど嬉しそうだった。ブルーノは三日ほど夢見が悪かったと言っていた。
その衝撃覚めやらぬうちに骨の館に身を寄せた私達は、聖樹に棲む魔物の実在を当然の事実として扱う周囲の大人に面食らったものだ。
それらは、誰もが通る道と思って納得したつもりだった。しかし、年長者達のしてやったりという顔を見るにつけ、釈然としない思いも積もっていた。彼らは、若者を驚かせて楽しんでいる節があるのだ。反面、子供に向かって聖樹の魔物は現存するんだぞ、なんて念押ししなかった理由もまた、よく分かる。
自立心の芽生え始めた子供や巣立ちを控えた若者なんて、大人の言葉を素直に聞かない尖ったお年頃なのだ。真面目に言えば言うほど、からかっていると疑われるのが関の山だろう。だったら、自分の目と耳で触れてもらった方が良いというわけだ。
「ミーミル先生がおっしゃることは、よく分かるわ。分かるんだけども! どうして私が引率しなきゃいけないのか、ちっとも分からない!」
「馬鹿だなあラウラ。そんなの、決まってるだろう」
妙に優しげな目をして、ブルーノが私の肩にぽんと手を置いて言った。
「お前は、骨の館の厄介事処理係だろう?」
「違います! 受・付・係だから!」
「あー、ラウラねえちゃん達けんかしてるー」
いけないんだー、と私を指差して言ったのは、わんぱくなニルスだ。その横で、おませなアスタが「あれはねー、ちわげんかっていうんだよ!」と得意げに声を上げる。彼女はまだ恋愛への興味が尽きないらしい。他の子供達もわらわらと近寄ってきて、もう収集がつかない有様だ。
「ほら、もう静かにしなさい! それじゃあ出発しますからねー!」
やけになって宣言すると、子供達は揃って元気よく返事をした。空は晴れ渡り、絶好の遠足日和だ。
「二人とも、気をつけてな」
少し不安そうにしているのは、ここまで子供達に付き添ってきた里長だ。しかし、彼はどんな時でもそういう顔をしていた。ちょっと困ったように下がった眉のせいだと思う。すると途端に、里にいた頃が懐かしくなるから不思議なものだ。
「ラウラ、ブルーノ。わしらの代わりに子供達をよろしく頼むぞ」
泉の中でミーミル先生が、優しい目をしてそう言った。恩師の頼みは無碍にできないので、私達はしっかりと頷く。そして出発した。
子供達は二人並んで隊列を組ませ、私が先導してブルーノが殿を務めることにした。先頭を嫌がるなんて、ブルーノはやっぱり怖がりだ。
子供達は初めて足を踏み入れる森の奥におっかなびっくりといった風だったが、少ししたら緊張も解れてきたようだ。里の子供はミーミルの泉に通う他は、自由に出歩くのを許されていない。未熟な身では、魔物だらけのこの森は危険なのだ。だが、里から最も近いこのミーミルの泉を含め、聖樹の根が浸る泉の近くは比較的安全だ。だから、今回の遠足もどきが実現したのだが……。
道中は至って順調だった。子供達は機嫌良く歩き、魔物除けの結界はきちんと機能している。昨夜頑張って用意して良かった。
まず目指したのは、北だ。森の西奥に位置するミーミルの泉から北上する。そして森の民だけが使う道に設けられた魔法陣を目指すのだ。
森で不可視の聖樹にぶつかることはなく、確かに存在しているのに触れない。それが可能なのは、樹に棲まう魔獣だけだ。また、外界の人間が森の奥に迷い込むと、方向感覚を失ってしまうとも聞く。魔力の乏しい人間には、この森の景色が全く違って見えるらしい。勝手に住み着いた「北の鷹」ことアードルフ氏も、森の奥には行かないと言っていた。
そんなことを考えながら、私も順調に遠足を楽しんだところで、魔法陣による転移で一気に移動して目的地に着いた。今や通い慣れたウルズの泉だ。取り残した聖樹の葉が水底で白く揺れている。早速館から借りてきたあの笛を吹くと、例によって彼らの登場だ。この度は、家族総出で来ていただいた。
『オウ、ガキども! よく来たなァ!』
『ちょいとアンタ、それじゃァダメだよ! バシッと品の良い挨拶をするんだって、昨夜決めたじゃないかィ!』
出落ちの魔栗鼠夫婦が揉めている間に、彼らの子栗鼠達がキャッキャしながら子供達に殺到した。その数、十二匹。……前より倍増している? 思わずブルーノを見上げると、乾いた声で「賑やかだなー」と笑った。
本当はここで魔栗鼠の伝承について、おさらいをする予定だった。更に、当時の話を本人の口から語ってもらう筈なんだが。どちらの子供達もかなりはしゃいでしまって、大人達は出遅れてしまった。
私は仕方なく懐を探り、用意してきた物をばっとばら撒く。すると効果覿面で、魔栗鼠達は一目散に木の実を拾う。
『わあ! クルミだァ』
『ああ、待ってェ! あたしの分も残してよォ』
『お前ら、ほっぺたに詰めすぎだァ!』
わいわい喋っていた魔栗鼠親子は、やがて沈黙した。器用に木の実を抱えて殻を開き、中身を頬張る。その仕草は大変かわいい。子供達も嬉しそうにそれを見ていたが、やがて生唾を飲み込む音ばかりが聞こえてくる。……間食の時間にしよう。
用意していた携帯用の菓子を子供達に配ると、折よくクルミを食べ終わった夫婦に話してもらうことにした。魔栗鼠夫婦は、つやつやの毛皮を膨らませて張り切った。
そして彼らが語る、原初の神話の真相は――。
「……ラウラ、こんな話を子供に聞かせて良かったのか?」
「いや、私もこんな風だとは思わなくて……。でもこのままじゃまずいから、何か教訓っぽいものを示してあげるべきよね」
魔栗鼠達の話は、大筋は先生から学んだ通りの内容だった。聖樹の頂に棲む魔鷲と、根元を這う魔蛇の諍い話だ。問題は、その二者の諍いがすれ違う男女の痴話喧嘩だったことだ。私も知らなかった真の事の発端は、恋仲だった魔蛇と魔鷲が喧嘩をしたことだったという。
魔蛇がそれを魔栗鼠達に相談したのが、間違いの元だった。この栗鼠達、番の先輩として仲裁しようと張り切ったのだが、方向性が明後日だった。魔蛇の言葉として魔鷲に伝えた言葉の悉くが悪口と取られて、両者は拗れに拗れた。聖樹の幹を駆け登る間にどう捻じ曲げたのか分からないが、あの繊細そうな鷲にはグサッときたのだと思う。
「ねーねー、りすさん。へびさんたちは、もうなかよしなのー?」
アスタが元気に声を張り上げた。そうだった、この子は人の恋愛話に飛びつくんだった。目を輝かせる純真な子供を前にして、栗鼠は己の罪を思い出したようだ。
「えーとなァ、そういうのは、他人が首を突っ込んじゃいけねェ。だから、当人同士がだなァ、第三者の立ち合いの下でなァ……」
「えー? なに言ってるのか、わかんない!」
無垢な存在は時として残酷だ。焦って濁そうとする魔物の言葉を、アスタは自覚なく両断した。私もブルーノも沈黙を守る。「他人が首を突っ込んではいけない」だなんて、二者の間に超えられない溝を築いた張本人が言ってはいけないだろう。魔蛇の恨みも魔鷲の傷心も理解できる私としては、擁護できない。
「あ、アンタァ! しっかりしとくれよォ、子供達も見てるんだよ!」
「い、いやでもお前、あんな綺麗な目をしたガキにまっすぐ言われるとなァ」
また揉め始めた栗鼠夫婦を、ずらりと並んだ子供達はもぐもぐしながら眺めている。結構冷静だ。もういいか。私は手を叩いて、これ以上ボロが出る前に会話を強制的に終了させた。
「はーい、じゃあみんなで魔栗鼠さん達にお礼を言いましょう! そして、胸に刻んでください。大事なことは、人任せにしてはいけません! そして、好きな人に想いを伝える手段に伝言を使ってはいけませんよ。直接言うのが無理なら、手紙を書きましょうね」
子供達はばらばらに「りすさんありがとう」と言うと、案外素直に出発の準備をしてくれた。私が言ったことだけ覚えて、あとは忘れてくれないだろうか。アスタ以外はドロドロした痴話喧嘩の内容など、気にしていないと思いたい。
私達はウルズの泉から東に向かった。
魔栗鼠達に見送られ、子供達は元気よく森を歩いた。そして到着した骨の館で昼食を摂り、ついでに軽く見学も済ませた。もっと時間を取れれば、館で体験授業をするのも良いかも知れない。そんなことをブルーノと言い合った。
そして骨の館を出発した私達は、また泉を目指す。
聖樹がその根を浸す泉は三つある。私が木の葉拾いをしたウルズの泉。子供達にはお馴染みの、知恵の泉こと賢者ミーミルの泉。そして、今日の最後の目的地、魔蛇の棲まうフヴェルゲルミルの泉だ。
私達は森の東に位置する泉を目指し、東寄りに南下した。森を流れる清流の源、フヴェルゲルミルの泉。清澄の泉、命の泉とも呼ばれるのは、私達が唯一飲み水として利用する生命線だからだ。いくつかの支流に別れて森を潤すその流れは、蛇の川と呼ばれている。
そんな美しい水の源泉に、それはいた。
魔蛇。怒りに燃えて蹲る者。
――先日遭遇した樹上の魔鷲の対のように語られる、聖樹の根を食らう大蛇。その胴体は丸太のように太く、二対の翼を持つ。体表の黒い鱗は、油膜のような虹色の光を放つと言われる。
かつて学んだそれらが私の頭の中を駆け巡るのは、現実逃避だ。だって、ミーミル先生が言った通りのものが、空中で羽ばたいているのだ。
鏡のように澄んだ泉に黒い影を落とすそれを、子供達も放心したように見上げている。隣に立つ――立っていたはずのブルーノは、じりじりと後退していて、今や私の背後にいるらしい。らしい、というのは、私も上空から目を離すことができず確認できないからだ。
『あらあら、何て可愛らしいお客様なんでしょう! あたくし、皆様を歓迎しましてよ!』
長い舌をチロチロと出しながら、翼もつ大蛇は、存外に可憐な声でそう言った。すると、硬直からいち早く回復したニルスが歓声を上げる。
「すごいすごい! へびが空とんでるー!」
「おっきいね!」
「きらきらしてて、きれいー!」
概ね穏便な感想を口々に叫ぶ子供達に、魔蛇は気を良くしたようだ。見事な翼を見せびらかすように羽ばたかせて、子供達の更なる称賛を浴びている。
「よ、良かった……。怒らせるようなことを言ったら、全員あの腹の中よね……」
こっそり呟いたはずだった私の言葉に、魔蛇はぎらりと目を光らせた。蛇が地獄耳だなんて、聞いていない。うろたえる私の眼前に、魔蛇が迫った。
『ちょっとあなた、淑女に向かって失礼でしてよ! あたくし、普段は聖樹の根しか食しませんわ』
「す、すみません。言葉の綾というやつでして、こいつはそんなこと思ってません!」
巨大な口から覗く牙に青ざめる私に代わって謝ったのは、ブルーノだ。私よりも怯えていたのに、庇ってくれた。うっかり胸が熱くなりかけた私だが、その熱はすぐに冷める。
『……あなた、紳士ならば女性の背中に隠れるのはおやめなさいな。情けなくってよ』
「あっいえ、その……すみません!」
「……ブルーノ、私の上着を引っ張らないでよ」
魔蛇と私の冷たい声を受けて、ブルーノは縮こまった。しかも動かない。どうあっても私を盾にするつもりのようだ。一瞬でも感謝してしまった私の気持ちを返してほしい。そんな思いが通じたのか、魔蛇が呆れたように頭を振った。
『ねえあなた、番う相手はよく吟味してから決めるべきでしてよ。あたくしのように、失敗しないようにね……』
可憐な声で熟年の婦人のようなことを言われて、私は引きつった笑みを作る。ここでもブルーノと私のことに言及されるとは……。子供達にミーミル先生、そして先ほどは館の皆にまでからかわれたというのに。
しかし背後で震えるブルーノは、あれで精一杯だったようで息を殺している。見てもいないのに、分かるのは――。
そこに子供達まで混ざってきて、もはや訳が分からなくなったところで、魔蛇が『静かになさい!』と一喝する。
『今日はあたくしに会いにきたのでしょう。だったらお行儀良くして、静かに話をお聞きなさいな』
子供達は素直にはーい、と返事をして腰を下ろした。すると魔蛇は音もなく泉の水面に降り、胴体を優雅に横たえてから鎌首をもたげた。その口調のせいか、物語の中で知るのみの貴婦人が、脚を揃えて腰掛ける様を思わせた。しかし実際は獲物を前にした蛇にしか見えず、私の肩を掴むブルーノの手が大きく震える。
「あなたが蛇が苦手だったことを、忘れてたわ。それなのに、どうして付き添ってくれたの?」
張り切って話し始めた魔蛇と子供達から少し離れて、私は声を潜めた。魔蛇には聞こえているだろうが、今は考えないことにする。
私の問いかけに、しかしブルーノは何も言わない。そして私の肩にかけた手を離さないので、振り向くこともできない。
「ねえ、ブルーノ。大丈夫?」
「――お、まえが」
呻くように言ったかと思うと、ブルーノの手に力がこもる。これはいよいよ具合が悪いのか。首を捻って後ろを確認しようとしたら、拒否するように肩を押された。人を盾にしておいて、どういう了見なのか。心配と怒りがない交ぜになった私は、ブルーノの手を振り払うようにして身をよじった。
すると、思ったとおり顔色をなくしたブルーノがいた。しかし、私を見下ろすその眼差しは、意外なほど強い。彼の何かに耐えるようなこの顔を、昔はよく見た。そうだった、彼は大の苦手の大蛇を前にしていたのだから、もっと気遣うべきだった。
「……ごめんなさい。泣きそうだったのね」
謝りつつ、私はまた背を向けた。いくら怖がりでも、恐怖のあまり泣くところを人に見せたくないだろう。そう気遣ったつもりの私に、ブルーノは不服そうに鼻を鳴らした。
「な、泣くわけないだろ。……お前は言わなけりゃいつまでも分からないって、イーダさんの言う通りだ。俺だって、何にも考えずこんな所に来た訳じゃない」
「急にどうしたの? 何を怒ってるの」
「こんな所で言えるか! ちょっとは考えろよ」
言葉は強気だが、その手はやっぱり震えている。私は首を傾げるしかなかった。