七 泉の水
久々になってしまいました。
「だって、先生がかわいそうだもん! だからおれたちが、泉の水をぜんぶぬいてやったんだ!」
「そうだよ! せんせいだけ、かわいそう!」
目の前にずらりと並んだ里のちびっ子達は、悪びれることなく口々にそう言った。それを聞いた私とブルーノは、どちらともなく顔を見合わせる。
かわいそうとは、どういうことだと。
事の発端は、昼頃に伝達用の魔鴉が降り立った時だった。誰もがまた「北の鷲」が出没したのだろうと思った。しかしその予想を裏切り、魔鴉はミーミルの泉から来たと言う。
「北の鷲」ことアードルフが何故か居ついてしまった他は、概ね平和な時を過ごしていたというのに、今度はなんだ。不吉な予感に身を硬くする私達に、魔鴉は甲高い声ですぐに泉に来いという伝言を告げた。
『ミーミルが呼んでいる。猟師はいらぬが館の者を寄越せ』
たまたま居合わせたアルビンさんは、心配そうな目をして私を見る。その視線の意味が分からず彼を見返して、私は気付いた。この場にいる誰もが私の方を見ているではないか。
「泉の先生が使いを寄越すなんて滅多にねえが、猟師はいらんと言うなら大事ではないだろ。じゃあラウラ、気を付けて行って来いよ」
当然のようにそう言ったのは、猟師のまとめ役のビリエルさんだ。早朝の狩りを終え、食堂に居合わせた猟師達の中にいたらしい。それはいいが、どうして私なんだ。
「いえ、ビリエルさん。私みたいな新参者よりも、もっと別の人に行ってもらった方がーー」
「いやいや、お前さんはあの聖樹の栗鼠ともうまくやってるらしいじゃねぇか。皆お前のことを買ってるから、今回もその調子で頼むわ!」
言いたいことを言うと、ビリエルさんは猟師達と食堂に戻ってしまった。館の主人から留守を任されている彼の言葉に反対する者はいない。
どんよりと顔を上げた私と目が合ったのは、猟師見習いで幼馴染のブルーノだ。
「ブルーノ」
「いや、断る。俺は忙しい」
まだ何も言っていないのに、取りつく島もない。近頃聖樹にまつわる魔物と関わったせいか、この臆病な幼馴染は私のことも警戒しているのだろう。友達甲斐のない男だ。しかし、目を逸らすブルーノを睨む私に助けが入った。
「ブルーノ、こういう時は黙って女の頼みを聞いてやるもんだよ。あんたも猟師になるなら、泉に行くくらいのことで怖気付くんじゃないよ」
イーダさんに窘められて、ブルーノはいや、だってなどともごもご言っている。これはいけると思った私は、すかさず「お願い」と下手に出て頼んだ。
「いや、俺は……分かったよ! 一緒に行けばいいんだろ!」
両手を上げて降参したブルーノに、私は破顔する。これで貧乏くじの道連れができた。
「じゃあ私は支度をしてくるから、後でね。多分魔鹿を寄越してもらえると思うから、きっと楽しいわよ」
行きだけはね。そう胸中で呟くと、苦笑するイーダさんと一緒に骨の館に戻った。
そして私とブルーノは、目論見通り魔鹿に乗って泉へと出かけたのだが。
「おいラウラ。何でそんな大荷物なんだよ……」
これじゃあ魔鹿の負担になるだろうが。そう咎める幼馴染に、私は眉を下げた。私もこうなるとは思わなかったのだ。しかし、私の行き先がミーミルの泉と知ったビルギットさんに、ぜひ水を汲んできてくれと頼まれたのだから仕方がない。
聖樹の葉に文字を書き込めるのは、ミーミルの泉の水なのだ。これがなければ記録を書き残すことができない。足りなくなれば、私達館の者の日々の仕事に支障が出るので、ビルギットさんの頼みを否とは言えない。
とはいえ、荷車を用意するほど切羽詰まってはいないので、今回は魔鹿が運べる分だけということになった。だから魔鹿の両脇には、細長い甕がぶら下がっている。邪魔になるだろうに、当の魔鹿は無言で頷いて引き受けてくれた。
ブルーノにも彼と同じ位の器の大きさを示してもらいたいものだが、ぶちぶちと本当はアルビンさんに罠のコツを教えてもらえる筈だったなどとこぼすばかりだ。文句は私を指名したビリエルさんに言って欲しい。
『ーー重くない。気にするな』
私達の様子を見かねたーーいや、聞きかねたのか、魔鹿がぼそりと口を挟んだ。やはり優しい。嬉しくなった私は、泉に着いたらいつもの倍の糖蜜を渡そうと決意した。そして、ブルーノには持ってきた菓子はやらないことも。
もう少しでミーミルの泉に着くだろうという頃。何だか周辺の様子がおかしいことに、私達は気付いた。渦巻く魔力の気配を感じたからだ。
「何だろう。誰かが魔法を使ってるのかな?」
「だろうな。しかし、これはーー」
ブルーノも同じことを思ったようで、顔を曇らせている。日常で使う魔法ではありえないほどの、膨大な魔力だ。一人二人が行使する魔法ではない。もっと大規模な、攻撃用の魔法である可能性が高い。
「もしかして、ミーミル先生が?」
私の言葉に、魔鹿が否定するようにぶるんと鼻を鳴らす。つぶらな瞳を見つめると、やはりミーミルではないと言っているようだ。
「先生じゃないのね。それなら一体誰なんだろう。やっぱり、猟師に来てもらった方が良かったのかしら」
「……まあ、嫌な気配はしないから、とりあえず急ぐか」
ブルーノの言葉に、私は目を丸くする。これ幸いと、館に帰ろうとか言い出すのではないかと思ったのに。私の驚きが気に入らなかったのか、ブルーノは眉間に皺を寄せて行くぞと急かした。
やがて泉に程近い所まで辿り着いた私達は、先ほど感じた魔力の正体を知った。そして、目の前に現れた光景に絶句するしかなかった。
大型の竜もすっぽりと包み込めるほどの巨大な水の塊が、それを見上げる私達の視界を覆っていた。
太古より、知識と知恵の泉とも呼ばれた。そこに住まう水の賢者ミーミルの名を冠した泉が、消失している。いや、正しくは、泉の水が全て上空に浮かんでいる。泉があった場所にはぽっかりと穴が空いていて、底から水が湧き出しているのが見えた。
そして、その泉があった穴の縁に並んだ子供達の姿が目に入って、私とブルーノは混乱する。まさか、彼らがこのーー泉の水を全部抜く魔法を行使しているのか。そして、泉の住人であるミーミルはどこにいるのか。
「ねえ、あんた達ー! これは一体どういうことなのー? ミーミル先生はどこなのー?」
元泉の対岸にいる子供達に呼びかけるが、彼らは魔法の制御に精一杯といった様子で、こちらに目もくれない。集中を乱せば、あの量の水が一気に降り注ぐことになるのだ。声をかけるのはやめて、私達は子供達の側に向かった。
里の子供達が編んだ魔法の構成は、驚くほど良くできていた。泉の水で巨大な器を作り、そこに水を封じているようだ。上空にその水を留まらせているのは、風の魔法だろう。
魔力を帯びた泉の水を利用して器を編んだことや、それを浮かせる風の魔法も泉の水の助けを借りていることといい、巧みな魔法だ。更には複数名による魔法を彼らが矛盾なく完成させたのには驚きだった。
「おい、お前ら。とりあえず水を元に戻すぞ」
それだけ言うと、ブルーノが子供達の術式の補強を始めた。私も少し遅れてそれに倣うと、額に汗を浮かべた子供達がほっとしたように表情を緩める。
「ブルーノ兄ちゃん、先生は?」
「いや、それは俺達が聞きたいよ。それより集中しろよ。あの水が直撃したら、さすがに無事じゃ済まないからな」
水の器が壊れないように編み直し、風の魔法で支えながらゆっくりと水の塊を下ろしていく。慎重に魔法を制御して、ようやく泉が元の景色を取り戻した時には、全員が冷や汗に塗れていた。
「よ、良かった……。それにしても、どうしてこんないたずらをしたの? 私達、先生の呼び出しを受けてここまで来たのよ」
泉の岸に腰を下ろした私に、子供達の一人がいたずらじゃないよ、と立ち上がった。その剣幕に驚くが、いたずらじゃないなら何だと言うのか。私が怒っていないのを察したのか、その子供は吊り上げていた眉を下げた。
「ラウラ姉ちゃん、おれたち先生を助けてあげたかっただけなんだよ。いたずらじゃないんだ」
「うーん。どっちにしても、ただのいたずらじゃ済まないわね。どうして泉を空にすることが先生を助けることになるのか、教えてくれる?」
できるだけ優しい声で問うと、子供達は一斉に集合して何やら相談を始めた。その間に、私とブルーノは魔鹿に糖蜜を渡して彼を労う。魔鹿は何事もなかったように泉の水を飲み、糖蜜を舐めた。私達は決して口にするなと言われている水だが、彼は平気なようだ。
そうこうしているうちに、子供達の会議は終わったらしい。ずらりと並んだ十二人の子供達は、私もよく知っている里の子だ。その中の一人、私の実家の近所に住む少女ーーアスタが声を上げた。
「ラウラお姉ちゃんとブルーノ兄ちゃんは、けっこんするの?」
いきなりの発言に、私の背後で寛いでいたブルーノが激しく咳き込んだ。私はというと、アスタが少々おませな女の子だと知っていたので、苦笑するばかりだ。久しぶりに顔を合わせたが、相変わらず恋愛に興味津々のようだ。
「それは分からないわね。ブルーノは幼馴染だから、私と一緒に来てくれたのよ」
こちらが誤魔化したのが気に入らないのか、アスタはぷくっと頬を膨らませる。
「おさななじみのだんじょが、大人になって恋にめざめるのはていばんなんだよー!」
「アスタ、またそんな本ばかり読んでるのね……」
たまに街から来るその手の本は、老若男女問わず人気だ。貸本屋から借りた羊皮紙の本を葉に書き写すのを、今か今かと待ち構えている人は多い。アスタもその一人で、私が里にいる頃は「王子様と平民の少女の恋物語」が大好きだった。
「おい、早く話を進めようぜ」
肩を叩かれて振り向くと、心なしか顔を赤くしたブルーノがいた。私を見下ろすほど背が高くなったのは少し前のことだと思っていたのに、子供の頃を思い出してしまったせいか、不思議と新鮮に見える。
「そうよね、大人になったのよね」
「な、何を言ってるんだよ。早く先生を探したいんだろ」
何故かうろたえるブルーノに首を傾げていると、アスタがはしゃいだ声で「ほら、やっぱり」などと叫んだ。他の子達もほんとだーなどと、分かったようなことを言っている。この子達が合作であんな魔法を使ったのかと思うと、その成長ぶりが空恐ろしい気もする。
「そうね。じゃあ、さっきの続きね」
そうして、冒頭の彼らの発言につながった。
皆で口を揃えてミーミル先生がかわいそうだと主張されて、私とブルーノは困惑を深める。
「皆、落ち着いてね。先生がかわいそうっていうのは分かったけれど、どうしてそう思ったの?」
私の問いかけに、子供達は心外だという顔をした。
「だって、先生だけいっつも水の中なんだよ。さむくてかわいそうだ!」
「そうだよ! ずっと水の中なんて、かわいそう!」
ああ、そういうことかと合点がいったのは良いが、どう説明しようか。悩んだ私がちらりと隣を見上げると、ブルーノも同じく困った顔をしていた。口々にミーミル先生の不遇を訴える子供達を前に、私はブルーノに耳打ちする。
「ブルーノ、先生の事情をいつ知ったか覚えている?」
「おっ、覚えてない! いいからお前、ちょっと離れろ!」
慌てたブルーノに引き離されるが、「おあついねー」なんて野次が子供達から飛んできた。やはりませている。
「うーん、確か、里を出る前には教えられたと思うんだけど……」
ずっと私達の先生役を買ってくれているミーミルは、聖樹の根が浸る泉の賢者として、森の民の誰よりも長く生きている。
神代の昔、敵対する神々の元に人質として出されたミーミルが、結局はその首を落とされてしまった。それを主神オーリが蘇生させ、以後はこの泉の守護者としてあり続けているという。
ミーミル先生と慕っていた子供の頃は、水を守護する方だから泉に住んでいるのだと聞いていた。深く考えずにそれを鵜呑みにしていたが、今思うと色々おかしい。ミーミルは決して首から上を水中から出さなかったし、食べ物を口にしているのも見たことがなかった。
そういえば子供の頃、夜のミーミルの泉に行くのが子供の間では度胸試しになっていた。大人に見つかれば、もちろん大目玉を食らう行いだ。
実際に度胸試しに行った子供は、確か揃って半べそをかいて帰ってきたことを思い出した。暗闇の中、泉の水面に老人の首だけがぬっと出ているのだ。恐ろしくないはずがない。
「ねえブルーノ。これはもう、あの子達に本当のことを教えてあげた方がいいのかも」
「いや、でもなぁ。先生の正体が生首だって、柔らかくしても言いにくいぞ……。教えて先生を怖がるようになったら、お互いに気まずいだろうし」
そう返され、私は子供達を見た。わいわいとミーミル先生かわいそうとか、ラウラねえちゃんとブルーノにいちゃんはくっつくのー? とか、悪意のない目で訴えてくる彼らに、どう言えばいいだろう。
迷う私達に、思わぬところから声がかかった。
「ラウラにブルーノ。久しいなぁ。お前達がわしの元を巣立ったのは、ついこの間と思っておったが、時が経つのは早いのう」
先生、と声を上げかけて、私は絶句した。多分ブルーノも同じだと思う。だって、ミーミルが浮いているのだ。首だけの姿のままで、泉の水面をふわりと生首が移動する様は、どう見ても尋常でない。よく見ると彼は水の魔法で守護され、首元と泉が水の糸で繋がっている。
これは、子供達が恐慌状態になるのでは。そう思って彼らを振り向くと、全員が呆然と声もなくミーミルを見ている。
そして口火を切ったのは、一番の腕白少年ニルスだった。
「ミーミル先生、すごい! どうやってとんでるの? 体はどこにあるの? 合体するの?」
興奮気味の叫びに、私は先ほどの心配が全くの無駄だったなあと少し虚しくなった。
「先生、おみずとっちゃって、ごめんねー」
「ミーミル先生、さむくないのー?」
彼らが慕う先生が首だけで浮遊しているというのに、誰も怖がっていない。そしてそれを嬉しそうに笑みを浮かべて見つめるミーミルの眼差しに、私は懐かしさを感じた。かつて私もあの優しい目に見守られて育ったのだから。
「……そうか。お前達がわしのことを思ってくれたのは嬉しかったがの。これからは、わしも子供だからと誤魔化さぬから、お前達も危ないことはしてくれるなよ」
子供達が落ち着くのを待って、事情を聞いたミーミル先生は、そう諭した。すると効果覿面で、子供達はそれぞれ反省したようで、ごめんなさいと謝った。
彼らはいつも泉の中で一人きりの先生をかわいそうに思い、泉の水を全て取り除けば、泉の守護をしなくて済むーーつまり、先生は自由に出歩けると考えたのだという。子供らしい突飛な考えだが、それを実行に移せる力があったことに、先生も驚いていた。
「わしも大事にしたくはなかったが、この子らが本気で魔法の準備を始めるのを見て、慌ててしもうた。だから館に使いを出したんじゃが、お主ら二人が来るとは思わなんだぞ」
穏やかに微笑む先生は、もう水の中だ。首の断面を泉につけておくだけで、命を繋げるのだという。主神オーリが彼をこんな姿にしてまで蘇生したのは、彼の知恵を失いたくなかったが故だというが。神は随分と酷いことをすると思ってしまう。その主神も、神器の角杯でこの泉の水を口にして、知恵を得たという伝説が残っている。
「こんなことを今更言うのはおかしいでしょうが、先生はこのままでご不便はないのですか?」
永遠の生を、この泉から離れられずたった一人で生きるのだ。彼の体を探して首と繋ごうとは、考えなかったのだろうか。そんな私の考えなどお見通しのようで、先生はいたずらっぽく笑った。
「この姿は案外身軽で良いのじゃよ。それにわしの体など、遥か昔に朽ちておるだろう。今更未練などないから、くれぐれもわしの体を探そうなどと考えぬように、あの子らに言い含めねばのう」
「私達からも、よく言って聞かせますね」
私が言うと、ミーミル先生は嬉しそうに目を細めた。
「うっかり者のラウラも、すっかり大人になったのう」
「いえ、こいつは相変わらずですよ」
これまで口を挟まなかったくせに、ブルーノは澄ました顔で茶々を入れた。私が「彼の怖がりも相変わらずですよ」とやり返すと、先生は笑い、ブルーノは口を曲げてそっぽを向いた。
「ところで、二人はいつから付き合っておるのかな?」
見たこともないほど目を輝かせる先生を前に、私達は思わず互いの顔を見合わせる。
子供達が妙にませたことを言うようになったのは、この先生の影響なのかも知れない。そんなことを思いながらも、頬を染める幼馴染を見ているうちに、自分の顔も熱を帯びていくのを感じた。
お熱いのう、などとどこかで聞いた野次が飛んでも、ブルーノから何故か目が離せなかった。