四 聖樹の枝
私の足元で対峙する魔木鼠の父と母は、ギイギイ鳴きながら舌戦を繰り広げている。
中天に昇った日が傾き始めた今、泉からとっくに上がっていた魔大鹿は、喧騒をよそに柔らかい草に寝そべって午睡を楽しんでいた。
白熱した二匹は、路傍の木程度の認識で私によじ登っては駆け下りて、追いかけっこの様相を呈し始める。そうなるともう、私には興奮した彼らの言葉は全く理解できなくなっていた。
「あのー、私はちょっと失礼してお昼を済ませますねー」
どうせ聞こえていないだろうが、一応断りを入れてから、私はそろそろと戦場から退避した。向かう先は安全地帯の魔大鹿の傍だ。思った通り私の不在に気づかない夫婦は、もはや鳴き声のみで多分罵りあっている。そっと腰を下ろすと牡鹿はぴくりと耳を動かしたが、目は閉じたままだ。嫌がられてはいないと判断して、私は昼食の包みを草の上に広げた。
今日は骨の館に隣接する食堂で弁当を用意してもらった。しばらく前には彼女の手料理、今日は食堂の料理を食べられるのだ。今の自分の境遇を考えなければ、私は幸運だ。
猪皮でできた外箱の蓋を外すと、冷気がふわっと顔にかかった。中身が悪くならないように、魔法をかけてくれていたようだ。さらに緑の葉包みも開くと、一面薄い黄色が目に飛び込む。木匙で掬うと、黄色の潰した芋と荒く挽いた肉が交互に層になった、重ね焼きだった。
「冷たいけど、しっとりしておいしい……」
芋は丁寧に裏濾しして乳を加えてあり、口当たりが滑らかだ。その下の挽き肉の層は、冷めてもおいしいように強めに味付けされている。赤身の肉には刻んだネギが加えてあって香ばしく、肉の旨味としっかり利いた香辛料はまろやかな芋とよく合ってとてもおいしい。やはり私は幸運だ。
己に暗示をかけながら昼食を平らげてしばらくすると、魔木鼠夫婦は一方の噛みつきがもう一方の尾っぽにがっちり決まったことで、一時休戦となったようだ。長い毛に覆われた尾を前足でさするのが父こと夫で、シャーッと威嚇したのが母こと妻のようだ。
『お前、亭主に本気で噛みつく奴があるかよォ……』
『うるさいよ! アンタがさっきアタシをクソババアって言ったこと、死ぬまで忘れないからねェ!』
私が食後の口直しに熟れたスモモを齧っていると、夫婦が揃ってぎろりと目を光らせる。察した私が彼らに一つずつスモモを渡すと、なぜか不満げに鼻を鳴らされた。夫婦だけあって息が合っている。
「あ、スモモは嫌いですか?」
木の実も果実も食べると聞いていたが、だめだったのだろうか。回収しようとスモモに手を伸ばすと、夫の方は『いや、食べるよ、食べるけどもよォ!』と叫ぶ。妻の方は『何だいアンタ、意地汚いったらないねェ』とせせら笑う。すると夫は腹を立てて応戦し、また喧嘩が始まる。
こんな調子で互いにいちいち突っかかるので、私が口を挟む間がまるでない。どうしようかと思っていると。
『ーーだからよォ、このネーチャンは一体どっちの味方なんだよ!』
矛先が私に向かってきた。
勘弁してほしい。古来より夫婦喧嘩に他人が首を突っ込むものではないと言うではないか。しかも相手は人ではなく魔木鼠なのに、私にどうしろというのだろう。困惑しつつ、私はとりあえず食べかけのスモモを片付けてから口を開いた。
「私はまだ夫もいないので偉そうなことは言えませんが、とにかく二人とも冷静になりませんか」
『……スモモの汁だらけの人に言われたくないねェ』
『……このネーチャン、仲裁もせずに平気で弁当食ってたしなァ』
醒めた視線の魔物夫婦に睨まれて、私は慌てて袖で口許を拭った。だが、ここで謝ったらさらに責められるに決まっている。私は聖樹の枝を持ち帰らなければならないので、これ以上時を無駄にできない。
「途中から二人が何を言っているのか全く分からなくなったので、どうにもできませんでした。ですので、どちらの味方にもなれません」
完全に他人事として食事を楽しんでいたことは認めず、冷たく突き放してみる。付け入る隙を与えてはいけないのだ。しかし、今度は妻の方が声を上げる。
『アンタ、弁当を食べたあと魔大鹿にもたれ掛かってふっかふかーとか言ってたよねェ。他人事だと思って、楽しそうにさァ』
お前もか。
二匹とも喧嘩に没頭していたはずなのに、こちらの動向をいちいち気にしていたとは目敏い獣だ。この魔木鼠の夫婦、思った以上に面倒かも知れない。
「分かりました! じゃあ、私にも分かるように喧嘩の原因を教えてください。そしたらその……何か言いますから!」
もはや自棄になった私の言葉に、夫婦は仲良く頷き合うと話し始めた。仕草がいちいち人間じみている。
『俺ァたまに森に下りると、つい散歩に夢中になってなァ。コイツのとこに帰るのが遅くなっちまうのは、悪かったって思ってんだ。でもなァネーチャン、俺ァーー』
意外にも殊勝な様子の魔木鼠夫の言葉を、しかし妻が遮る。
『なァにが散歩よ! どうせ森に住む他のメスと、よろしくやってたんだろうよ……』
『お、お前ェまだそんなこと思ってんのかい! まったく、いい加減にしてくれよォ!』
怒鳴ったものの語尾を下げてしおしおと尻尾を垂れる妻に、夫は心底うんざりしたように頭を振る。しかしこれはよろしくない。話が進まないので、私が何とかしなければ。
「ちょっと二人とも、一旦話を止めましょう。ええとそれで、旦那さんの方は実際どうなんですか?」
『……ど、どうって……何がだよォ』
「浮気の有無ですよ」
婉曲に表現する時間を惜しんだ結果、私の言葉で夫婦共に固まった。魔木鼠の習性は分からないが、妻が怒っているなら、この夫婦にとって妾を持つのはいけないことなのだろう。……私が持つ「妾」に関する知識は乏しいので少々自信はないが。
「旦那さん、奥さんの前で答えにくいのなら私にだけ教えてもらえますか」
『オイオイちょっと待ってくれよォ! 俺がやらかした前提で話すんじゃねェよ! 俺はその……散歩してたって言っただろ』
「あれ? 違ったのかな……」
こういう時は、十中八九「やらかして」いるのが定番のはず。首を捻る私に夫は抗議し、妻は小さな前足で顔を覆ってすすり泣き始めた。魔木鼠も泣くんだと感心しつつ妻を慰めると、落ち着いてくれた。
『……アタシだって亭主のことを信じたいよ。でも……でも……アンタはあの時、森に行ったっきり帰って来なくて……アタシ心配で、でも子供達を置いて探しに行くこともできなかった……。
そしたらアンタ、何食わぬ顔して帰ってきたよねェ……他のメスの匂いをべったりつけてさァ!』
『お、お前……そりゃァ……』
かわいい指の隙間からぎらりと目を光らせる妻に、夫は自分の尻尾を握って震えている。これが修羅場というやつか。浮気された夫や妻が相手の香水の残り香を嗅ぎ付けるという、これまた定番の場面だ。
「つまり、旦那さんが過去にやらかしているから、奥さんはどうしても信用できないんですね。妻は悲しみで枕を濡らし、苦しみで美しいはずの夜空も曇るとーー」
『……ん? 悲しみがなんだって?』
つい暗唱してしまった。慌ててごまかすが、夫が怪しむようにこちらを凝視してくるので妻に話を振ってみる。すると妻は黒い瞳を光らせ、『アタシのことはともかく』と夫を見つめる。
『久しぶりの子供達も巣立ちを迎えるんだからさ、もうちょっと一緒にいてくれたっていいだろう?』
『そりゃァ俺だって分かってるよ。分かってるけどよォ、お前ェが百五十年前のことをいつまでも根に持ってガミガミ言うから、足が遠のくんだよォ……』
「え? 百……五十年、ですか?」
『そうだよ、まだほとぼりも冷めてないのに、うちの亭主は……』
百五十年で冷めてないのか。私は内心で頭を抱えた。永遠を生きる聖樹の魔物にとって、痛みを忘れるに足る年数ではあるが、恨みを忘れるには足りないのだろうか。里で暮らす大人達も喧嘩することはあったが、総じてのんびりとした性格なので、百年を超えて引きずる人はいないようだったが。やはり色恋沙汰となると、里の男女も恨みの種類が変わるのだろうか。こればかりは経験がないので私にはお手上げだ。
実例がないので南部諸国で読まれる「愛と憎しみの恋人達」という物語本を参考にしていたが、失敗だったろうか。骨の館の女性達が嬉々として回し読みしていたので私も借りたが、登場する男女が悉く不貞に走るという内容だった。夫とその恋人を恨み憎んでいた主人公も、慰めてくれた友人の夫と恋に落ちてしまうという展開が「切ない」らしいが、何でそんな面倒なことになるのか私は理解できなかったものだ。
「うーん、私には判断が難しいですが……。奥さんはいま、旦那さんの浮気に怒っているんですか? それとも、子供達のそばにいないことに怒っている?」
とりあえず整理しようと質問してみると、妻の方はもじもじと前足の肉球を揉んで悩む素振りを見せた。
『そ、そりゃあ、両方だけど……』
「気持ちは分かりますけど、今は両方を切り離して考えた方が良いように感じます。一緒にしてしまうと、余計に怒りが消えないのでは?」
『そうだよ! 俺ァあれから反省して真面目にやってんだからよォ、前のことは置いといて考えちゃくれねェか?』
私の言葉に勢いを得た夫が続くと、妻は潤んだ瞳を揺らめかせて俯いた。気持ちが動いているようなので、ここで一気に解決に導きたいところだがーー。
「そうですよ、ええと……楽しかった思い出を糧にして、ふたりで前向きにーー」
『楽しかった、思い出……?』
呆然としたように顔を上げた妻は、しばらく遠くを見るように目を細めていたが、突如くわっと形相が変わる。歯を剥き出した様は別魔木鼠になったようだ。
『アンタ……子育ては絶対手伝うからって言ったのに、結局いつもアタシばっかり……』
突然の豹変に身を固くする私の膝に、夫が震えながら飛び乗ってきた。巻き込まれては大変なので柔らかい胴をつかんで引き剥がすが、夫は私の腕にしがみついて『薄情者ォ!』とわめいてくる。
「愛と憎しみの恋人達」ではこの陳腐な物言いで主人公は励まされていたのに、と記憶を辿った私は思い出した。
「だめだ! あれは友人の夫が主人公に言ったやつだった!」
陳腐なわけだ。人妻を口説いてものにしようという男の言葉だから当然だ。愕然とする私をよそに、夫はなおも叫ぶ。だめだ、妻が迫って来るのに逃げられない。
『メスって奴ァ、なんだって昔のことをいちいち引きずり出して怒るんだよォォォ! 今はその話してんじゃねェッつってんのに、グチグチグチグチうるせえェェェェ!』
『……君には苦労をかけないから一緒になってくれって、アンタ言ってたのにねェ……』
怒りの形相のまま、しかし平坦な声で告げる妻。恐怖に震える夫。間に挟まれた私はーー逃げられない。
『まァたそんな昔のことを持ち出しやがる! お前ェだって、アナタのためにずっとかわいい妻でいるからネ、なァんて言ってたのに嘘じゃねェか!』
『アタシがかわいくなくなったってェのか!? あァ?』
ギイイと鳴いて恫喝する妻に恐れをなした夫は、途端に逃げ腰になる。つまり『ヒイ!』とか言いながら、私の懐に頭を突っ込んできた。もぞもぞとくすぐったい。
『そ、そもそも、木鼠はメスが子育てするもんだろォ! そういうのは本能だから仕方ないって魔鷲も言ってたぞ!』
「……人の懐から尻だけ出してしゃべるの、やめてもらえますか」
『あの鷲……ひとの亭主に余計なこと吹き込みやがってェ! こっちだって、魔蛇に相談してーー』
『お前ェまだあの蛇んとこに行ってんのか!? アイツァ蛇の癖に空を飛ぶとか言ってる胡散臭いヤツだ、やめとけよォ!』
「肌着にしがみつくのもやめてもらえますか」
魔鷲も魔蛇も健在なんですね、先生ーー恩師を思いながら空を見上げると、木々の間から夕日が見えた。
結局私は日が暮れても解放されず、途方に暮れていたところを魔大鹿に救出されて泉をあとにした。牡鹿に『もう帰る』と声をかけられた私はいろいろと整理がつかないまま深夜に帰宅し、翌日出直して無事に聖樹の枝を手に入れた。その道中で魔大鹿に聞いたところによると、彼もかつて聖樹に棲んでいたが、騒音がひどくて森で暮らすことにしたという。何が騒音なのかは、聞かなくても十分に察せられた。
もともと無口な牡鹿は、森で私達と共生するにあたりさらに話さなくなったという。心安らかに過ごすには沈黙が一番なのだそうだ。そう訥々と語った魔大鹿に、昨日彼を撫でまくっていた私は平謝りした。
あれから何があったのか、無事に仲直りを果たしたらしい魔木鼠夫婦は気前よく枝を渡してくれて、百本を超えていた。加えて、私も忘れていたスモモの礼にと魔鷲の羽も添えてくれたので、これも筆記具として使えるか試したい。
ビルギットさんらに確認するまでもなく、枝拾いが皆に避けられる理由はあの夫婦喧嘩のせいだった。骨の館ではそれを乗り越えて一人前と見なされるらしいが、新人を脱した喜びよりも疲労感が勝った。とりあえず向こう五十年は枝拾いをやりたくない。
聖樹に棲む魔物達を知り、夫婦の奥深さを垣間見たことで、私は大人に近づいただろうか。