前途
春菜が勤めていたのは自動車などに使う部品を製作する会社。少し前のこと、親会社がリコール級の欠陥を隠していることが外国で発覚した。
制裁金やら賠償金をいろいろと請求されて、巡り巡って春菜が勤める会社の清算が決まった。平たく言えば潰れたわけだ。
不景気の中、苦労の末にやっと就いた正社員の仕事。それが大した実務経験を積む間もなく解雇。
経済的に恵まれない家庭環境の中で育ち、高校へ進学するとすぐにアルバイトを始めた春菜。
家に生活費を入れ、余ったわずかなお金を大学進学のために貯金した。大学に入ってからも学費と生活費のためにアルバイトを掛け持ちし、卒業した今は奨学金の返済に追われている。
そんな明日をもしれない状況の中、サレオスが提示したのは金貨一日一枚と言う報酬。その額に心が揺れたのは事実だ。
異世界に一方的に呼び出され、すんなりこの労働(?)を受け入れることはお金に屈したことにはならないか。
一瞬そんな疑問が心に浮かんで躊躇した。
しかし、サレオスは強制などしなかった。春菜の意志で選ばせてくれた。
自分がどうしたいか。本当は彼の瞳を見た時決まっていたのだ。
鶏鳴に似た音が響き、閉めきられた窓の隙間から僅かに光が差し込んでいる。春菜は藁ベットの上で目を覚ました。
「んっ……」
昨夜、湯あみを済ませ、ベットに横になってからの記憶がまったくない。あっという間に寝て、途中で目を覚ますこともなく朝を迎えていた。
鎧戸を開くと、ヒンヤリとした朝の空気が室内に流れ込み、パンを焼く香ばしい匂いが漂っていた。空は明るいが、まだ太陽の姿は見えない。
外を見廻すと長屋の前を歩く男の人を見つける。片手にバケツ、片手に刺股を持ち、裏庭の外れにある木造の建物に向かって歩いていた。
「おはようございます!」
長屋の二階から大きな声を掛けた。男の人はビクリと肩を震わせこちらへ振り向き、数秒固まってから「おはよう」と、挨拶を返してくれた。
「やっぱり、他にも人がいたんだ。今の人は魔人かな?遠目だと全然わかんないな」
バアルの話では、止めることの出来ない部署では、最低限度の使用人は残してあると言っていた。きっと彼もそう言う仕事に従事している人に違いない。
洗面所で顔を洗い、昨夜のうちにリネン室で見繕っておいた服に着替える。
襟の無いジャケットと、大きなポケットの付いた短いエプロン。細身のパンツが無いので、男性用のギャザーパンツを膝下で結び、動きやすく丁度いい長さに調整する。
肩まで届く黒髪を後ろに結わえて準備完了。
「うん……まあ、鏡がないから確認できないけど、機動性と機能性を重視すれば大体こんなところでしょう」
この世界のファッション、着こなしの仕方が分からないので若干の不安は否めない。
「朝ごはん朝ごはんー」
鼻歌交じりに呟きながら厨房へ。早起きの良いところは、一日を有効活用していると錯覚させてくれることだ。
朝早い時間にもかかわらず、既にバアルは大釜に水をいれたり鍋を掻きまわしたり、忙しそうに立ち働いていた。
「おはよう、バアルさん」
「おう、随分と早いな嬢ちゃん……ゴフッ!どうしたんだい、その格好は?」
バアルが振り返るなり尋ねてきた。
「今日から本格的に仕事開始だからね。着替えたの。変かな?」
「ゴフン!昨日は随分と変わった格好をしてたからな……。大分真っ当にはなったと思うぜ」
「やだな、あれは私の国ではごく一般的なユニフォームだよ」
「そうだったんかい。まあ、その格好ならオイラもよく見慣れているよ」
バアルは優しそうな目で頷く。異文化というものは中々に理解し難い。時には寛容に受け止めることも必要だ。そう言いたげな目だ。
「うん?そっか。さっき、鳥の声で目が覚めたの。あれは鶏?」
「ああ、家禽小屋で飼ってるやつだな。ほれ!」
春菜の前に差し出されたバスケットの中には白い卵をが入っていた。見た目も大きさも鶏の卵とそっくりだ。
「もうすぐパンも届くからちょっと待ってな。そしたらコイツでコレットを作ってやる」
「コレット?料理名かな?聞いたことないけど」
朝ごはんはしっかり食べる。それがいい仕事をする秘訣。春菜の信条だ。
大量のパンを入れた籠を抱え、白い前掛けをした男の人が無言で部屋に入ってきた。衣服は粉にまみれ、前掛けには煤が付いている。
「……」
「ハゲンティさん、待ってたぜ」
男の人は無言でパン籠をテーブルの上に置くと、チラリと僅かに光る瞳を春菜に向けた。
「ああ、昨日から城で掃除人として務めることになった……、そういや嬢ちゃんの名前はなんていうんだ?」
「今更ですか。花沢春菜です!」
「ゴフッ!だ、そうだ」
「……」
バアルが紹介すると、ハゲンティは無言で小さく頭を下げ厨房から出て行った。
(今の人も魔人だった。当たり前かもしれないけど、やっぱり他にもいたんだな)
「さあ、嬢ちゃん飯にしな。俺が最高のコレットを作ってやる」
春菜の名前を聞いてもバアルは呼び方は変えない。
作ってくれたのは見た目も味もオムレツそのものだった。バリッと音を立てて割れるパンは中がフワフワで香ばしく、採れたて出来立て、最高の朝ごはんを堪能することが出来た。
朝食を終えると掃除室に向かい、早速仕事の準備に取り掛かる。
昨日この部屋を片付けたから、どこにどんな道具があるのかは把握している。
「さて、こうやって改めて見ると、清掃道具は大分少ないな」
数はあるのだが種類が少ない。箒、モップ、バケツ、ブラシ、雑巾、等々。異世界の物とは言っても、形状は春菜の世界とそう変わらない。
しかし、どれも現代日本の清掃業ではもうあまり使われない古い類に入る道具がばかりだ。
長い枝先を束ねたいわゆる座敷ぼうき、よった布を結いた筆のようなモップ、手で持って使う大きなブラシ、これらを使って場内を掃除しなければならない。
「うーん、やっぱり洗剤やワックスの類は見つからないか」
液体やそれらしい固形物も見当たらない。そもそも、合成洗剤が発明されたのは、春菜の世界でも二十世紀に入ってから。電気も通っていないこの城で、そんな物がないのは当たり前だ。
「うーん、前途多難だなこりゃ。でもやらないわけにはいかない」
不満のない職場なんてあるわけがない。今までだって与えられた環境で、試行錯誤、苦労を重ねながら仕事をしてきた。
「よし、行きますか」
備え付けられた道具でどんな掃除が出来るのか。実際に現場に持ち込んで、効率や課題を確認しながら進めるしかない。成果を出すのはその後の段階だ。
手始めに箒と塵取り、モップと水を入れたバケツを用意して一階の大廊下へと向かう。玄関である大扉の前にある場所だ。
オフィスビルでも、公共施設でも、エントランスホールは常に清潔であるよう、毎日の清掃が求められる重要な場所。お客が最も多く利用し、最初に目にする看板といっていい。
大扉から春菜が召喚された広間まで、テニスコートくらいの幅はある廊下が真っ直ぐに伸びている。薄い珊瑚色した石材が床に使われ、重厚な中にも柔らかな印象を与えている。
「いきなり石床……難敵ね」
暫く人の出入りがなさそうだった城内でも、流石にこの廊下は汚れていた。埃の中をかき分けるように、中央部に人が歩いた形跡と泥汚れが見られる。
「まずは掃き掃除から」
広間の方向から大扉へ向かって掃いてゆく。埃が立たぬよう、箒で丁寧に床を撫でていく。
「まずい。これは、思ったよりも大変だ」
いくら気を付けて箒を動かしても、埃が巻き上がり。窓から射し込んだ陽に照らされて、キラキラと嬉しくない光の筋を浮かびあがらせる。
「掃除機の偉大さを改めて実感するわ……」
しばらく掃き進めてはみたものの、既に広間側には巻き上げられた埃がうっすらと溜まっていた。
「モップ、いや雑巾がけが必要ね」
石材の厄介なところは、材質によって特徴が大きく違うところだ。屋外に使われる物ならいざしらず、屋内に使われている石材は案外水気に弱い物も多い。
石には見えない小さな穴が無数に空いていて、その中に水分が吸い込まれるからだ。水浸しのモップや、汚れた水で拭こうものならかえって汚れを広げかねない。
春菜は掃除室に戻り、雑巾十数枚をバケツに入れて持ち帰る。そしてこまめに汚れた水を取り替えながら、根気よく端から順に雑巾で拭いていく。
(今日は汚れているから大変だけど、今頑張っておけば明日からの掃除は楽になるもの)
しかし、ここで大事なことに気が付いた。
「あれ?私この廊下を毎日掃除する余裕なんてあるのかな?」
そうなのだ。既にこの廊下を掃除し始めてから、二時間は経ってるだろう。この城の広さ、掃除用具、人員数、どう考えてみてもそんな余裕は無い。
「終わるわけがないじゃないのよー!」
スックと立ち上がり、思わず大きな声を上げる春菜。それでもすぐにしゃがみ込み、時間がもったいないと掃除を再開する。
「マズイ、これはマズイ。何か手だてを考えないと……」
見知らぬ世界で勝手が分からず、最初から上手くいくわけがない。今日は課題のあぶり出しを兼ねて仕事を始めたはずだ。
冷静さを取り戻し、手を動かしながらもあれやこれやと頭を働かせる。
「やっていますね」
声と共に革靴が視界に入る。顔を上げるとグシオンが立っていた。
「おはようございます」
「……」
立ち上がって挨拶した春菜に、グシオンは目を止め瞬硬直した。
「??」
「いえ……。朝早くから感心です。何か必要な物や、困ったことはありますか?」
「え?」
「言い忘れていましたが、私は魔王城の家宰を務めています。この城の家事全般を統括するのも私の務め。あなたの仕事が上手く回るように責務も追っ
ているわけです」
(つまりは私の上司ってこと?そうか、やっぱり偉い人だったんだ)
「異世界から来たあなたには、あなたなりのやり方があると思います。何しろ“掃除スキル”を持つ召喚獣として、サレオスが直々に呼び出した者なのですから」
(うわ、ハードル上げるなあ。でもここで物おじしてたまるか)
ニッと笑って、真っ直ぐにグシオンを見据える。
「分かりました。それじゃあ、いくつか用意してもらいたいものがあります」
「何か考えがあるようですね。では昼食を採ったら私の執務室まで来なさい」
「お願いします」
春菜がペコリと頭を下げると、グシオンは廊下脇の階段を上がって去った。
「さて、仕事仕事」
拭き掃除に再び取り掛かる。背筋を時々伸ばしながら、大扉の前まで辿り着く。
「ふー、満足満足!」
振り返れば綺麗に埃が拭い去られ、鮮やかさがました珊瑚色の廊下が見える。成果が目に見えると言うことは、それだけ汚れていたことに他ならない。
ぐくきゅ~、っと頃合いを見計らったように鳴るお腹。
お腹を押さえて赤面し、念のため辺りを見回す。幸いなことに人影は見当たらない。
朝、作業を始めた時に斜めから射し込んでいた陽の光も、今はすっかり角度を上げていた。
朝早くから取り組んでいることを考えると、かなりの時間を要したはずだ。やっぱり今のやり方では効率が悪すぎる。
「グシオンさんに相談しなきゃな」
催促するように再びお腹が鳴る。
「……我ながら正直すぎて恥ずかしい。そう言えば今何時なんだろ」
そもそも時間の概念が地球と同じなのかも分からない。
「まあ、いいや。後で、グシオンさんに聞いてみよう。今がお昼であることは、私の腹時計が証明している。キリもいいことだし、ご飯にしよっと」
掃除用具を片付けてから厨房へ向かうと、バアルが用意していた昼ご飯を出してくれた。
自分の腹時計の正確さが恥ずかしいような頼もしいような、そんな思いと葛藤しながら昼食を採った。
春菜は城内三階にあるグシオンの執務室へと向かった。昨日、お城の中を案内してもらっていたので場所は知っている。
黒く艶やかな木の扉をノックすると、中から「どうぞ」という声が。
中に入ると、沢山の書類を乗せた大きなデスクに向かい、ペンを走らせているグシオンの姿があった。
執務室という性質かそれとも性格故か、部屋には書棚と机、応接セットしかない質素な部屋だった。
「どうぞお掛けなさい」
促さられてソファへ腰かけると、グシオンは直ぐに手を止めて向かいに腰を下ろした。
「用意して欲しい物があるそうですね」
「はい、そうです」
前置きも無く用件を切り出してくるところに性格が伺えた。
「どんなものです?」
「えーっと、ですね……こう」
なんと伝えたらいいものか。そもそもこの世界に存在するのか、名称が同じなのかも分からない。身振りを交えて伝えようとすると、グシオンは「ちょって待って」と言って、デスクへ向かった。
「よければ使ってください」
そういって紙とペン、インクの入った小瓶を春菜の前に差し出した。
(あ、これ綺麗)
小さなペンは透明なガラス製で、アクセントのように緋色の線が入っていた。部屋は殺風景だが、小物にはこだわりがあるのかもしれない。
「あ、ありがとうございます」
なるほど、こういう時は口で言うより見せた方が早い。春菜がインクを付けて紙に走らせると、硬質でありながら滑らかにペン先が進む。
春菜は説明を交えながら絵を描いていく。
「で、すね……ここがこうなって」
「ええ……はい」
「でもって……こうするわけです」
「こ、これは!」
描き終えた絵を見てグシオンは眉を潜めた。