王城
「はは……、王様。思わずさっきそんなツッコミを入れちゃったけど、まさか本当に王様だなんて」
春菜、いや大抵の日本人が本物の王族と接した経験などないだろう。
(しかも魔王ですか……。魔王ってあれだよね、物語の最後に立ち塞がるラスボス)
黒い装束を纏い、牙を剥き出し、濁った凶悪な目をしていて、圧倒的な力で主人公達を苦しめる悪魔のような存在。
今まで読んだ本や、映画に登場する魔王たちはそんな存在だった。
(でもなんだろう、この人はそんな風には……)
春菜は改めて魔王と名乗ったサレオスの姿を見る。
歳は20代後半くらい。切れ長の目に、僅かに輪郭が輝く緋色の瞳。白い肌に流れるような銀髪。
王様と言うに相応しい神がかり的な美しさは持っていたけれど、その面持はどこか悲しそうで、とてもそんな悪者には見えなかった。
「何を呆けている。己の役目を自覚したなら、仕事に就いてもらおうか」
「べ、別に呆けてなんていません。ただ……魔王とか、魔族とかが珍しくって見ていただけです」
見とれていたと勘違い(ではないけれど)されていないかと焦る。
「グシオン、城を案内してやれ」
言いつけると、サレオスは大広間を出て行ってしまった。ヴィネアがその後に続く。
「あ……」
春菜は去って行く後ろ姿に小さく声を漏らしてしまった。
(それはそうか、魔王自ら掃除人に城の案内をしてくれるわけが無いか。……って、今私少しガッカリした?いやいやいや、そんなこと無いから。あのルックスが反則的なだけだって)
必要も無い言い訳を、自分にする。
「聞いていましたね。城を案内するから付いて来なさい」
「あ、ハイ」
グシオンはくいっと親指で先を示し、広間の脇にある小さな扉へ向けて歩いていく。春菜は慌ててその後に続いて行った。
「ここは控えの間……ここは衛兵部屋……ここは……」
(この人もルックスいいな。魔人は全員イケメンなのかな?)
凛々しい顔と丁寧な物腰。グシオンはすたすたと先を歩きながら、幾つもの部屋を抜け、所々で立ち止まっては案内をしていく。
石造りの重厚な城は部屋が幾つも連なり、壁には大きな絵が何枚もかけられている。鏡張りの部屋や、天井まで金箔が貼られた部屋、案内される先々で春菜は感嘆の溜息を洩らした。
(あ、でも床一面にうっすらと埃が溜ってる)
他にも靴跡や手垢など気が付いた点がいくつかあった。城内は汚れているとまではいかないが、掃除が必要と言う点には頷ける。
(テレビで見た中世の宮殿ってこんな感じだったっけ。王様ってホントにこんなとこで暮らしてるんだ)
映像でしか知らなかった世界が現実として目の前に広がっている。
「フフッ」
「何がおかしいんですか?」
春菜が小さく笑うと、その様を訝しんだグシオンが尋ねる。
「いえ、何だかこのお城と魔王さんがとてもお似合いのような気がして」
綺麗に掃除されたこの城内を、彼のルックスで颯爽と歩く姿はさぞ様になることだろう。そんな風に考えると、なんだか可笑しく思える。
「当然です。サレオスこそ、この城の主に相応しい」
(あ、この人、魔王さんのこと好きなんだ。表情を変えたのって初めてかも)
グシオンの顔は誇らし気で、少し笑っているように見えた。
(電気は通ってないみたい。そうすると、この国の文明程度は一八世紀よりも前くらい?でも、世界が違うんだから、単純に過去に当てはめることもできないか)
掃除機やポリッシャーは当然無いだろうから掃除は全て手作業で、などと考えていると、天井から光の射し込む一際明るい場所に差し掛かる。
「あの、ここって」
「空中庭園ですよ」
「庭園……」
魔王城三階の吹き抜けに作られた小さな空中庭園は、名前ばかりで花壇には草花が一本も植わっていない。
青銅製の水道管が引かれた水汲み場、円筒形の細長い火鉢、白い石材で作られた花壇。
かつては色とりどりの花でにぎわっていたのかもしれないが、今は白けた茶色の土が盛られているだけ。
隅に置かれたじょうろと小さなシャベルが寂しげに往時を偲ばせていた。
命を育む光りが差し込みながら草一本生えていない花壇。それが返って寒々しくて、春菜は寂しさを感じ天井を仰ぎ見る。
空中庭園を覆う開閉式のガラス屋根は閉めきられていた。
(そっか、手入れをする人がいないのか放置されているんだ。花壇には雨が降り注がないから草花も生えない……。そうだ、やっぱりそうだ。このお城には人の、命の気配がしない)
案内をされた部屋で、回廊で、すれ違った人はまだ誰もいない。人が歩いた形跡がなく、埃が床に均一に積もった廊下もあった。
この城には汚す住人がほとんどいないのだ。
(閉館日に清掃に入った美術館がこんな雰囲気だったっけ)
昭和初期の建物を利用した美術館。閉館日の館内は薄暗く静まり返り、一人で床にモップを掛けていると、言いようのない孤独感に襲われた。
(あの感覚に似てる)
城内の様子を見れば、つい最近まで手入れがされていたことは分かる。誰の気配もしないのは、今日がたまたま使用人のいない日だからだろうか。
(ううん、それなら私が召喚される理由が無い。なにか理由があるんだ、やっぱり)
グシオンは春菜が感じた違和感に答えることはなく、ただ淡々と場内を案内していくだけだった。
一通り城内を歩き、幾つもの柱が立ち並ぶ広い廊下に辿り着く。その先には一際大きな扉があった。
「全てを案内しきったわけじゃありませんが、大体これで終わりです」
「はあ、ありがとうございます」
ここまでの所要時間はおよそ三十分。ただ歩いただけでこれだけ時間が掛かるのだ。掃除することを思って軽い眩暈を感じる。
「あ、あそこはいいんですか?」
回廊の隅、暗がりに隠れるようにある階段を指差す。
「あれは地下へ降りる階段。あの先は立ち入り禁止です」
(うーん、偽札とか作ってるのかな。それとも牢屋や、白骨が並んでいるとか。ブルブル、想像したくない)
城の地下で思い描くイメージに、多分にアニメ映画の影響が感じられる。
「最期に外に出て城の外観を見ましょう。中からでは全体像を掴みづらいでしょうから」
「え、いいんですか?」
「あたり前です。私達はあなたを軟禁しようとしているんじゃありませんから」
(例えその気が無くても、現実世界に帰れないのなら同じようなものじゃ……)
そうは思ったものの、どうやら行動の自由は保障されているようなので有り難い。
グシオンは大扉の脇に作られた小さな扉を開けて外に出て行った。
春菜は小走りで続き、出口を潜って外に出た瞬間眩しさに目を細めた。
目の前いっぱいに広がる庭園は綺麗に刈り揃えた庭木が整然と並び、白い細かな砂利を敷き詰めた通路が遥か先の城門へと続いている。城の敷地は柵に囲まれていて、その向こうには建物が見えた。
春菜は圧倒されるように周囲を見廻しながら、しばらく歩いてから振り返り、さっきまで案内されていた城を仰ぎ見る。
「うわー、凄い。ほんとにお城だったんだ」
空を突くように尖った丸塔、空よりも青い屋根、陽を照り返す白い壁。
左右対称に作られた王城は、幾何学的でありながら生物的でもあり、魔王城と呼ぶにはあまりに不釣り合いな健全な美しさを放っていた。
春菜は時間を建つのも忘れ、間違い探しのパズルでも見るように細部まで観察した。
「これで案内は終了です。掃除は当面、一階から三階まででいいでしょう。もちろん地下も必要ありません。何か質問は?」
「清掃道具なんかは何処に置いてあるんですか」
「それをこれから、案内します。用具が収められた掃除室です。以前、使用人が使っていました」
(以前ってことは、今は誰もいないんだ。それにしても、この人ホントにちゃんと案内してくれてる。誠実なのかな)
城一階の狭い廊下を通り裏庭へ出る。そこには城に併設された建物があった。一階が石造り、二階が木造の長屋だ。
(なるほど、こんなところもあるんだ。いかにも裏方さんたちの仕事場所って感じ)
これだけの城だ。維持するには相応の使用人たちがいて、しかるべき必要な用具とそれを収めた部屋もある。
考えてみれば当たり前のことなのに、城の浮世離れした雰囲気がそんな発想に邪魔をする。
城の表部分と比較すれば質素だけれど、作りはしっかりしていて決してみすぼらしくなどない。
春菜にしてみればむしろこっちのほうが落ち着くくらいだ。
長屋の一室からは小刻みに木を叩くような音が聞こえる。
(あれ?もしかしたらここに来て初めて物音聞いたかも!)
あたり前のことに一々驚かされる魔王城。これから何度同じ目に遭遇することか。
「あの、グシオンさん、この部屋って」
「ああ、そこは厨房です。そうですね、一応紹介はしておきますか」
(紹介?紹介って言うことは誰かいるってことだよね!)
城の厨房でまさか主が自ら調理をすることはないだろう。居るのは当然使用人。つまりは自分と同じ立場の人だ。
春菜は軽い興奮を押さえて、扉のない入口からグシオンに続く。
厨房はとても広かった。
壁際にずらりと食器やナベが並び、複数のかまどが備わっている。部屋の中心には大きな長テーブルと炉が据えられている。一度に百人分の料理だって作れそうだ。
「料理人のバアルです」
「ゴフッ?」
グシオンに紹介されたのは、鉈を包丁のように軽々と振う、二メートルを優に超える牙を生やした巨体の人(?)だった。
「グシオン様、この人間はなんです?」
「今日から掃除人として勤めることになった……あなた、名前はなんでしたっけ?」
「……」
ぱくぱくと口を動かし、音にならない声を上げ、驚きで立ち尽くしたままの春菜。グシオンが肩をゆする。
「聞いていましたか?」
「は、はい?」
「あなたの名前を聞いてるんです」
「花沢春菜です」
「だそうです。異世界人の名前は特殊で覚え辛いですね」
「ね、グシオンさんこの人は?」
「ですから、料理人のバアルです」
「や、そうじゃなくって」
そんなことを聞いているんじゃないと、フルフル首を振る。春菜の足よりも太い腕、下あごから生やした牙、灰色がかった肌。
どう見ても人間ではない。
その驚きを理解したのかグシオンが片眉を動かす。
「あぁ、なるほど。あなたの世界にはオークはいない、見るのは初めてということですか?」
春菜はコクコクとうなずいた。
「大丈夫ですかいこの人間。こんなことで驚くようで、魔王城でやってけますかい?」
「どういう意味です?」
「いや、頼りないというか、もう少し人選を考えちゃあどうかと」
「貴様、サレオスが呼び出したこの者にケチを付ける気か」
懐疑的な目が春菜に向けられると、凛々しいグシオンの口元が吊り上がる。
そして、鳶色の瞳の輪郭が輝きを僅かにまして、パチリと空気が爆ぜる小さな音が聞こえた。
グシオンの周りを包む空気の温度が、徐々に上がってゆく。
「ゴフーッ!こ、こいつ、いやもといこのお嬢は魔王様が呼び出されたんですか!いやいや、ケチを付ける気なんてありやせん。や、改めて見ると賢くて気転も周りそうで、頼もしいこってすよ」
「そうか、ならいいが……」
ただならぬ威圧感に気付いたバアルは、慌てて春菜の両腕を掴み、ぬいぐるみでも持ち上げるようにヒョイと軽々と抱え上げた。
信じられないほどの怪力だが、春菜が驚いたのはそっちではない。
(怖っ!今、グシオンさん辺りの空気変えるほど、めちゃくちゃ怒ってた!でも、あなただって私のこと貧相って言ってましたよ?)
今怒ったのは春菜のためではない。間違いなく、魔王のことを侮辱したと受け止めたからだ。
(ホント、どれだけ魔王さんのこと好きなんだろこの人。でもまあ、それはそれとして)
今までの仕事でも、何度か男の人たちの喧嘩や、一触即発の空気を作る場面には遭遇している。
こんな時は、さっさと当事者たちを引き離してしまうのが一番だ。
「グシオンさん、私、掃除室が見たいです。案内してもらえますか」
「ん、ああ、そうでしたね」
グシオンはあっさりと厨房を出て行く。
春菜が去り際にバアルに笑い掛けると、明らかにホッとした様子で、口元の牙をにゅっと剥き出して笑い返してくれた。
(あ、このオークさんいい人だ)
今まで幾つものアルバイトを経験し、年齢も性別も職業も違う沢山の人と接してきた。
春菜はどこであれ相手が誰であれ、物おじはしないし、人おじもしない。そういう精神性を身に付けた。ただ恋愛は別として。
(そこはやっぱり乙女ですから)
「ここが掃除室です」
案内されたのは厨房のすぐ隣にある部屋だった。
同じように出入り口に扉はない。グシオンはここの主はもうお前だとでも言いたげに、先に入るよう促している。
「失礼します」
誰もいない部屋に声を掛け、中へと入った春菜は結局ここでも驚かされる羽目になった。
それも悪い意味で。
洋の東西、異世界問わず、原始的な清掃道具というのはどこも同じような構造らしい。植物の枝先を束ねた箒やチリトリ、多少形状の違いはあっても使用目的がすぐに分かる。
部屋の中ではそれらいくつもの掃除用具が、無造作に放られてうず高くなっていた。
まるで捨てられたように、悪意をもって放棄されたように。
「酷い……」
その光景を目にした春菜は思わず漏らした。
どんな現場仕事でも程度の差こそあれ、まっとうな職場は用具置き場は整理されている。そうしなければ明日の仕事に響くからだ。
だけどこの掃除室にはそんな意識が欠片も感じられなかった。
(この部屋で、お城で掃除をしていたのはどんな人たちだったの。どうしてこんな風にしたまま去っていけるの)
寒々しい、廃墟のような荒廃した空気に春菜は身震いした。
「奴隷だ。この魔王城を掃除していたのは、連れて来られた人間だ」
「え?」
春菜の疑問に背後から答えた人物。それは魔王サレオスだった。