6・入浴、どんぶり茶碗の浴槽
ヒメは3日から7日に1度は入浴する。フェアリーは身体を土や泥で汚して遊ぶことはあっても、その身体も服も気がつけばいつの間にか綺麗になっている。
存在そのものが汚れとは縁遠いものなのだろうか。地を這う者とは違う、近くて遠い月の子供。
そんなフェアリーにとって、入浴は清潔さを保つためのものでは無いのだろう。
水遊びの延長のようなものだろうか。ヒメはシャボン遊びが好きらしい。
【フェアリーは水と戯れることを好む。フェアリーの祖は湖水と月の光より生まれたという伝承がある。綺麗な水と月の光はフェアリーには無くてはならないもの】
なので私もヒメが満足できる入浴をさせてやりたい。しかし、これがなかなか難しい。
まず古書に描かれている、入浴するフェアリーの絵図。これが美しい。
金の髪のフェアリーが浴槽で手に泡を乗せて遊んでいる様子の絵図。
未成熟な少女のような細身のフェアリーは、惜しげもなく素肌を晒す。触れ得ざる神聖さと、幼く見える姿にかいまみえる妖しい色香が同居する神秘。フェアリーの表情には絵図の作者への信頼があり、緻密に描かれたフェアリーの入浴絵図には、絵図を描いた作者のフェアリーへの深い想いが込められているようだ。
なんといってもこのフェアリーの使う浴槽。これが大きな貝殻なのだ。真っ白な貝は縁が波うちその曲線が艶かしい。これはいったいなんの貝殻なのだろうか。
白く美しい貝殻の浴槽に浸かるフェアリー。無邪気さと優雅さを感じる素晴らしい絵図。
比べて、我が家のヒメの浴槽はなんともみすぼらしい。灰色の茶碗だ。どんぶりのような茶碗で、色合いもパッとしないくすんだ灰色。
ヒメが浸かるに相応しい浴槽を探しても、なかなか良いものが見つからない。毒々しいプラスチックでは当然ダメなのだ。
こうなれば私が作るしかあるまい。ヒメに相応しき、我が家の女王に相応しき浴槽を。形も貝か花のように自然に近いものを。
木を削るか、陶器で素焼きにするか。未だにその完成は遠い。
灰色の茶碗を手にとりヒメに見せる。ヒメが手を上げたら入浴気分。プイと顔をそむけたら入浴する気分では無い。
片手を上げたのでこれからヒメのお風呂の用意をする。
水については問題は無い。
ヒメの飲み水と風呂の水は、山の湧き水を木の小樽に入れて持ち帰る。これはヒメとの散歩のついでに汲んでくる。
私の家には水道は通っておらず、地下水を電動ポンプで組み上げている。私が使う水はこの水だ。しかし、鉄が触れた水には臭いがつくらしく、ヒメは好まない。町の水道の水など論外、顔をしかめて鼻をつまんで逃げ出すほどだ。
お湯を沸かすにしてもガスは嫌う。この家は私が住む際にリフォームし、オール電化となっている。
ステンレスの鍋で湯を沸かす。陶器のとっくりに山の湧き水を入れてこれを鍋に入れる。とっくり3本分を湯煎で暖める。ヒメが使う水にはステンレスが触れないように気をつける。
ヒメの様子を見ると、だらんとしている。月の出ない新月のときは気だるいらしい。いつもより元気が無い。こういうときは入浴で気分転換が良い。
エッセンシャルオイルやポプリなども効果はあるが、今回はお茶の風呂を試してみる。
ブルーマロゥを煮出して作るハーブティ、これを薄めて茶碗に入れる。青紫色の風呂に指を入れて温度をみる。ややぬるめに。
できたところで寝室のヒメの庭に運ぶ。新月の夜はヒメはあまり外に出たがらない。
寝室の黒いテーブルの上、盆栽に石が並ぶヒメの庭、その一角に浴槽になる茶碗を置く。
用意ができたところでヒメを呼ぶ。居間のテーブルの上でヒメは打つ伏せになってぐんにゃりしている。赤い蝶の羽根も畳んでいる。
「ヒメ、調子悪いのか?」
〈んー、〉
返事はして顔を上げるが元気は無い。手を差し出すと起き上がって、這うように私の手のひらに乗る。翔ぶのも億劫だから運んで、と、目で訴えてくる。
ヒメを手のひらに乗せて運んで茶碗浴槽まで。青紫色のお湯を見て私を見る。目がキラキラしている。
アサガオのワンピースをポイと脱ぎ捨てて茶碗のお風呂にチャプと浸かるヒメ。裸を見られることに恥ずかしさは無いらしい。そうなると、フェアリーの服の役割とはなんなのだろうか。
〈りゅー、もぅあー〉
もう少し熱い方がいいらしい。銀のスプーンでお湯を足して温度を上げる。茶碗の縁に両手を乗せてそこに顔を乗せるヒメ。
私を見上げて、にひひ、と笑う。ブルーマロゥのお風呂はお気に召したようだ。香りを楽しむように湯に浸かる。全身でお湯から生気を吸っているのか、さっきまで半分閉じてた目がパッチリと開く。
ヒメは風呂に入るとき、寝るとき、他には体調が優れないときに蝶の羽根を畳む。畳むというのか萎むというのか。このとき羽根は形を変えて、背中から赤い触手が4本生えているように見える。
見ていると足でお湯をチャプチャプと蹴りだした。森のフェアリーも新月のときは泉で水浴びして元気を取り戻すのだろうか。
ヒメを楽しませるものとして、用意しておいたレモンを指で摘まむ。
片手で青紫色のお湯を指差してヒメがお湯に注目するようにしむける。
レモンを絞ってお風呂に垂らす。レモンの果汁が落ちたところから、青紫色のお湯が美しいピンク色に変わっていく。
レモンの香りを追加して、色の変化で驚かせる。上手くいったようで、ヒメが笑顔で手を伸ばすので、レモンの切り身を持たせる。
ヒメは両手でレモンの切り身を受け取り、チャプと茶碗の底に静める。小さな手でレモンを絞りお湯をかき混ぜて、お風呂のお湯をピンク色に変える。
元気になってしゃべりはじめる。なかなか気の効いた趣向だと、褒めているのだろうか。ピンク色のお湯を両手ですくって、ヒメの庭の石にかけたりと遊び始めた。
前もって用意をしておいたもの。すりおろした石鹸を入れた小鉢にお湯を入れる。石鹸は植物油脂のものをすりおろして細かくしたもの。
お湯で溶いて筆で混ぜて泡を作る。クリーム状になったところで浴槽に浮かべる。
ピンク色のハーブティーに生クリームを浮かべたようになる。
フェアリーの出汁の入ったブルーマロゥティー、レモン入りの生クリーム添え、というところか。妖しい不老長寿の薬のようだ。
ヒメは石鹸の泡を手ですくい、投げたりお湯に溶かしたり。ヒメにとって石鹸とは身体を洗うものでは無く、お風呂遊びの玩具のひとつ。
小さな両手の間でシャボン玉を作り宙に浮かべる。
小指の爪くらいの大きさのシャボン玉が、次々に産まれてはふわりと浮かぶ。どういう訳かシャボン玉には色がついている。
お湯のためか今回は薄いピンクが多いが、赤いもの、青いもの、ヒメが作る度に色合いの違うものができる。
宙に浮いたまま漂い、割れもせず、落ちもせず、ヒメを中心にゆっくりと回る。
いくつものシャボン玉が辺りを漂い、その表面には逆さまになったヒメの顔や私の顔が映る。虹色に輝きゆるりと動く。まるで万華鏡の中に迷い込んだかのような。
私の寝室に不思議な世界が現れる。
ヒメの様子を見ながら、お湯を足したり、泡を追加したり、喉が渇いたら果実水を用意したり。
【フェアリーが泡で遊び始めると切りが無いため、あまり使わせないように】
古書にはこのように注意されるのだが、この幻想的な様を見たいがためにヒメに石鹸を与えてしまう。ヒメもシャボンの無い入浴には不満のようで、ねだられるとつい与えてしまう。
幻想的な雰囲気に酔う。虹色を纏う球体を無数に従えるヒメ、汚れを知らぬ天使のような、未成熟な少女のような、濡れた裸身に見蕩れる。
……これで浴槽が灰色のどんぶり茶碗で無ければ言うことは無いのだが。
【健康を保つためには、長くても2時間で風呂から上がらせるように。浸かり過ぎれば水の代謝が滞る。畳んで水を避ける翅にも水分が浸透して翅脈のむくみの原因になる】
時計を見ながら切り上げる時間の見当をつける。そろそろ1時間半。
「ヒメ、そろそろ上がろうか」
私が言うと、ヒメはムッとして私に人差し指を突きつける。回りに浮かぶシャボン玉がその指の差す方へと、一斉に飛ぶ。慌てて目を閉じる。
漂ういくつものシャボン玉が、群れ飛ぶ鳥のように私の顔目掛けて殺到する。シャボン玉はパチパチと弾けて、私の顔と髭は泡まみれになってしまった。
キャハハと笑うヒメの声を聞きながら、タオルで顔の泡を拭う。入浴するまでのぐんにゃりしてたときとは見違えて元気になった。
「満足したなら出なさい」
テーブルの上に畳んだタオルを敷く。自作のオイルの小瓶のふたを開ける。
「大人しくしないと、これは使わないぞ」
小瓶のふたの匂いを嗅がせてから、もったいつけて小瓶のふたを閉めなおす。ヒメは慌てて浴槽茶碗に手をついて、風呂から出てタオルの上まで歩いてくる。
おとなしくするから、それちょうだい、と手を組んで小首を傾げて上目使いで私を見上げる。
「解った解った」
絹のハンカチでヒメの身体をそっと拭く。髪を上げさせて、首の後ろ、手を上げさせて脇の下、足を開かせてお尻と股、と肌に残る水気を拭き取る。くすぐったいのか身を捻って笑ったりするが、そこは我慢してもらう。ドライヤーを使うのは、髪と羽根に良くない。自然乾燥が良い。
ヒメが背中を向けたところで、小瓶のふたをあけて中身を私の人差し指の上に垂らす。
自作のラベンダーのエッセンシャルオイルに椿油を混ぜたもの。配合については今も研究中。
これをヒメの髪に撫で付けて染み込ませる。次に畳んで赤い触手状になった4本の蝶の羽根にも、同じようにオイルを少量、指の腹で撫でつける。
潤いを保ち艶が良くなるようで、ヒメのお気に入りだ。
【濡れた翅、むくんだ翅は衝撃に弱く、脆い。翅が濡れた状態では上手く羽ばたけず、この状態で飛行することは危険な行為である。よく乾かしてから飛行させること】
入浴後は羽根が完全に乾くまで大人しくさせること。ヒメを手に乗せて運び、動かなくてもできる遊びを用意する。
今日はリバーシにするか、バックギャモンにするか。
入浴するだけで気だるさが吹き飛ぶというのは羨ましいか。元気になってはしゃぎたがるヒメに、大人しくしてもらうのは難しい。