1・日記と足跡
遠い記憶の旧い友へ
あなたのおかげで私は今も生きています
日々の記録を書き記した書は日記という。
私も歳を取り、物の名前、人の名前がすぐに出て来なくなった。村の外れ、森の側の一軒家にひとりで住むようになり、人と話す機会も少なくなったことも、原因のひとつだろうか。
生活に困ることは無いが、この先のことを考えて今日より日記をつけることにする。
これは私のためというよりは、体調を崩しやすい同居人の為に、その日に口にしたものや天候などの記録をつける為に。
「ん? ひとりで住むようになりと書いておきながら、同居人と書くのはおかしいか? ならばなんと書くべきか。友人か? はたまたペットか?」
口にして訊ねてみたが、返事は無い。机の上で小首を傾げて、私を見るのは鮮やかな紫の瞳。
「私とヒメの関係とは、なんであろうか? 家の主人と居候か。飼い主とペットか。友人か。家族か。ヒメはなんと考える?」
訪ねてみても返事は無い。木の机の上、開いた日記の上をヒメは軽やかに歩く。私の様子を伺いながら。私が日記を書こうとするのを邪魔するかのように。
私が字を書こうとすると、万年筆を蹴っ飛ばそうと足を伸ばしてきたので慌てて手を引っ込める。
いつものように、いつもの如く。
ヒメは夕暮れになるこの時刻に目を覚まし、さっきヒメリンゴを食べて軽い食事を終えたところ。
ヒメの目は、私に、あそべー、あそべー、と子供のように訴えている。
今日は調子が良いらしい。思い返せば去年も、ハロウィンが近づくときには元気だったか。
日記に書いたばかりの文字の上を裸足で歩くヒメ。万年筆で書いたばかりのところは、インクが乾いていない。
そこに小さな足を乗せ、日記の上を歩けば、日記の上にヒメの足跡が残る。
ヒメは足の裏を見て、日記に残る足跡を見て、また足の裏を見て、視線を私に移すとイタズラっぽく、にやぁ、と笑うと日記の上でステップを踏み、日記を黒インクの足跡だらけにしようとする。
ふむ、これは、面白いではないか。
スケッチブックを取りだし1枚破る。
日記を閉じて机の隅に移動させる。ヒメがむくれて不機嫌な顔をするが、破ったスケッチブックの1枚を木の机の上に広げる。
キッチンから小皿をひとつ持ってきて、木の机の上に置き、机の引き出しから出した黒インクをスポイトで小皿に垂らす。
ヒメの顔を見ると、さっきまで不機嫌な顔で日記というダンスフロアを取り上げた私を睨んでいたが、私の意図が分かったのか、にぱぁと手と羽根を広げて笑顔になる。
おそらくはいつものように、その小さな足で私を蹴ろうか、その手で私の髭を引っ張ってやろうか、とか考えていただろうヒメは、パタパタと赤い蝶の羽根で飛んで、小皿の黒インクに足の裏をちょんとつける。
スケッチブックの紙の上にジャンプして、ひょいひょいと跳ねるようにダンスを踊り始める。
紙の上にはヒメの足跡が黒いインクでチョンチョンと残る。
ヒメのダンスのステップを記録に残せる、というのは面白い。さて、どのような仕上がりとなるのか。
私は机の引き出しから、愛用のオカリナを取り出し、口にくわえる。踊りには音楽があると良い。
ポー、ポー、と気の抜けるような音色で、昔に聞き覚えたテンポの良い曲を、思い出しながらオカリナを吹く。
機嫌が良くなってきたのか、ヒメは赤い蝶の羽根を淡く光らせて、クスクスと笑いながらダンスを踊る。
夕暮れの窓辺は茜色に染まり、オカリナの音色をバックに小さな踊り子が、机の上の紙の上を軽やかに踊る。
跳ねる、回る、跳ぶ。ラララと歌う。赤い蝶の羽根がヒラリヒラリと舞い踊る。
柔らかく、楽しげに。喜びを踊りで現すことに、ヒメに勝る踊り子はいない。
このヒメのおかげで私は何十年か振りに、笑うということを思い出すことができた。
この柔らかく暖かな時が、ヒメと共に過ごす時間が、私の胸の底に刺さるトゲを溶かしていく。
家族も居らず、田舎の独り暮らしを満喫する生活のはずが、奇妙な同居人ができたものだ。
2度と人には騙されたくは無い。残りの人生、できれば人の顔を見ずに過ごしたい。もう人と話をしたくない。
そんな人生の終活予定だったのだが。
田舎の村の外れの空き家を購入して、ここで緩やかに、死ぬまで穏やかに暮らそうとしていたのだが。
ポー、ポー、ポー、とオカリナを吹く。ヒメは楽しそうに踊る。クルクルと回る。
小皿の黒インクに足をつけるインターバルを挟み、スケッチブックの紙の上を右から左に、左から右に。
踊り疲れて止まり、息を切らせて、小さな肩を上下させる。
どうだ、と自信ありげな顔で私を見上げて紙を示す。
小さな足あとが、黒いインクであちこちにハンコのように押されている。
これが、いい出来映えなのかどうなのか解らないが、なんだかアートっぽい気がする。
「素晴らしいよ、ヒメ」
と誉める。ヒメは腕を組み、うむうむ、と満足気に頷く。
ヒメは紙を指差して、私に説明を始める。ダンスのことなのか、足跡ハンコの連なりが芸術だと言いたいのか、彼女独自のステップの自慢なのか。
私にはヒメの言葉が解らない。なんと言ってるのか解らないが、うんうんと頷いて、紙の上のヒメの足跡の並ぶ芸術作品を見て、聞いている風を装う。
ここで気の無い態度をとると、後でヒメがすねてしまう。しかし、この足跡がいっぱいの絵はまるで花弁の舞う様だ。
これはピンクや黄色といった、明るい色でやってみるといいかもしれない。
小鳥が鳴くような高い音で奏でられるフェアリーの言葉は、私にはその意味が解らない。解らないが、その音の連なりは耳に心地好い。
水を入れた皿を持ってきて、インクで汚れた足を洗わせる。机の上が少し跳ねたインクで汚れたが、あとで拭いておけばいいだろう。
座って足を伸ばすヒメの足の裏をハンカチで優しく拭う。指の間に入った黒インクがなかなか取れない。
これをボケた年寄りの戯言と笑わば笑え。
だが、私が独り暮らしの孤独感から幻覚を見ている、などと言われては困る。私はまだボケてはいないし、好きで独りで暮らしているのだ。
くだらぬお節介でこの穏やかな生活を壊されたくは無い。
ヒメのことは誰にも話さずにおこう。誰にも知られずに秘密としよう。
老い先短い年寄りだ。家族もいない。
たまに来る役所の若僧を追い返すだけ。そのときにしゃっきりしてるように振る舞えばバレはせんだろう。
随分と昔、子供の頃に見えたものが、歳をとったらまた見えるようになった。忘れていたことを思い出してきた。そのおかげで予想外に騒がしい毎日になった。
恋と呼ぶほどに激しさは無く。
愛と呼ぶにも不確かで。
子供のころ、捨てられた仔猫にエサを与えたときのような、そんな気分を思い出す。
あのときの仔猫は、三日で死んで冷たくなってしまったが。
今はその心配も無い。私の方がヒメより先に死ぬことになるのだろうから。
夕日の茜色に染まる窓辺で、左手を伸ばしてヒメの銀の髪にそっと触れる。
溶けて消える幻ではないことを確かめたくて。
ヒメは私の不安も知らずに私の左手をその小さな両手で机に押す。どうやら踊り疲れたのか座りたいらしい。
ヒメの意図が解り、左手の平を上に向けて机の上に、力を抜いて置く。
ヒメは小さなお尻を私の手のひらに乗せて、私の手をソファにして寝転ぶ。私の親指を枕にするように。
手のひらに乗る小さな蝶の羽根の生えた女の子。紫の目を細めて満足そうに。
叶うならばいつまでもこの時が続くようにと、静かに願い祈る。叶わぬ望みと知ってはいても。
私はヒメと暮らしている。
私は妖精と暮らしている。