Scene 05:Affection after a dinner.
逢えるのは三日後といったのは彼なのに、今日も夕食を共にしてしまった。わたしは嬉しかったのだけれど、言葉少なな恋人にちょっと不安を感じていた。
おうちで何かあったのかしら。お父様がわたしたちを快く思ってないのは聞いているけれど、こんなに落ち込んでいる時にはそんなこと訊けない。
いつもどおり、静かにしていればいい。まだ食事の片づけをしている時間だもの。夜は長いのだから、彼が話したくなったら話してくれるわ。
二人分の食器を洗う。急にいらっしゃるから満足なものは出せなかったのが少し残念。一人暮らしのお陰ではじめた料理はとても楽しい。おいしく出来ればアルベール様が褒めてくれるし、喜んでくれるし。照れるけれど、もっと、もっとがんばろうと思う。
そうだ、今度は予め何がいいか伺ってからにしよう。
「お食事終わったあとでなんなんですけど、何か食べたいものありますか?」
「食べたいもの。それは今か。」
「いえ、参考にしようと思って。あなたが食べたいお料理を出すのもいいかな、なんて。」
肩を竦めて笑ってみる。それでも彼は憂鬱のままに相づちを打った。
「そうか、では考えておかなくてはな。」
組んだ指を額に押し当てて、深く息を吐くのを見てしまうと、やっぱり困る。何かお話した方がいいのかしら、それとも、優しく触れてあげた方がいいのかしら。
どうしてあげられるのかわからないまま洗い物を続ける。
何か悩んでいるのなら、わたしに少し預けて欲しい。
困ったことがあるのなら、相談して欲しい。
ひとつでも多く、あなたと共有していたいから、良いことも悪いこともおっしゃってください。
悪いことを聞くのは怖いけれど、傍に居てくださるなら、大丈夫ですから。
「ジュリエンヌ。」
水音にかき消されそうな呼びかけ。桶に溜まった水を捨てながら、わたしは努めて何気なく返事をする。
「なんですか?アルベール様。」
お皿の水を切って籠に並べていく。心の中は不安でいっぱいだった。
言えないでいる言葉は、きっと、悪いこと。
とても、悪いこと。
「暫く、逢えなくなる。」
「えっ。」
振り返った視線の先で俯く彼。
「どういう事、ですか?」
わかっていたのに、声が震えてしまう。
「父の手回しで留学する羽目になった。良縁だと言い張る娘がいる小国だ。」
留学、良縁の娘?
それは、あなたがわたしいがいのだれかと。
視界が揺れた。わたしの居場所がぐらぐらと崩れていく。
「早ければ月末には経つ。」
「そんな・・・急な。」
やめて。
「いつ戻れるかはわからない。一年は居る事になるかもしれん。」
「一年も、ですか。」
わたしの見えない所にいかないで。
「行きたくはないし、連れて行きたい所だが、無理だな。」
「わたしは、大丈夫ですよ・・・仕方のない、事ですもの。」
大丈夫なんかじゃない。
「少しだけ、寂しくなるだけですもの。」
離れたくない、放したくない。
「わたしは、ここでお待ちしてますから、どうぞ・・・。」
このまま、わたしを何処かに連れ去って。
「お前は嘘が下手だ。そんなな」
「言わないで、下さい。我慢・・・してるんですから。」
そうよ、こんな事になるのはわかってたんだから。
いつかはこうして身分の壁が立ちはだかることくらい、わかっていたじゃないの。
それでも付き合っていたんだから。
泣いて見送っちゃ、いけない。
「そうか。すまない。」
「いえ・・・。」
気まずい沈黙になった。
お互いに下を向いて、頭上には重く圧し掛かる暗い雰囲気。
スカートを握る指を見つめて、泣き出しそうな言葉ばかり考えてしまう。
ねえ、アルベール様。どうしたらいいんでしょうか、わたし。
ここで身を引けばいいんでしょうか?
それとも、あなたを想って待っていればいい?
待つことは苦しくない。辛くだってない。
けれど、待っていればあなたはわたしに戻ってきてくれるの?
わたしはあなたがいればいいのに。
あなたさえわたしを愛してくれるだけでいいのに。
それだけで、生きていけるのに。
自分の心の問いに耐えられない。その答えは目の前の人が持っているはず。
浮かぶままに投げかけようとして口を開く。けれど、沈黙を破ったのは、彼のほうが早かった。
「覚えているか。お前を口説いた台詞を。」
―すべてが欲しい。
「ええ、勿論。」
忘れる訳ないじゃないですか。毎日だって思い出したい、いつだって忘れたくない、大切な言葉ですもの。
「俺はその通りに、お前のすべては俺のものにしたつもりだ。だが自信がない。」
黒い視線がわたしを射抜く。
そこにはいつもの鋭さも優しさもなく、不安だけがある。
「だから、ジュリエンヌ。お前の言葉を聞かせてくれないか。」
ああ、あなたも不安なんですね。
それは、きっと、わたしと同じですね。
「お前はどう感じている。身も心も奪われたと思うか。」
わたしたちは想い合っているんですよね、離ればなれになってしまいそうな、今でさえも。
そう。
身と心と言うなら、すべてはあなたに奪われた。
身はもうあなたでしか幸せになれないでしょう。
心はいつでもあなたを想ってばかりです。
でもそれがわたしのすべてではないの。
まだ話していないことがひとつあるから。
とても信じてもらえることではないから、本当はずっと黙っているつもりでした。
けれど、この不安さえもあなたに奪いつくして欲しい。
本当のわたしのすべてを、あなたのものにして欲しいの。
決心が着いた。この人なら、きっと、すべて抱きしめてくれるはず。
ペンダントを外す。娼婦を辞めてから掛けたままだった、わたしの大切な唯一の証明。
銀のチェーンが通った蒼い指輪に今までの加護に感謝して小さく口づけ、指輪を乗せた掌を差し出す。
「どうぞ、受け取って下さい。」
手を伸ばし掛けた彼が問う。
「これは。」
「母の形見です。誰にも奪われてはいけないと最期に言われました。」
受け取ろうとした手が優しくわたしの手を包む。
「それほど大事なものを受け取る訳にはいかない。形見はこれだけだろう。」
「ええ、これしかありません。」
「ならば尚更だ。お前が持っていろ。亡き母の為にも。」
―母さま。
やつれた笑顔で涙する姿が浮かぶ。鉄格子ごとわたしの手を握り締めて託された指輪。
―これを持ってお行きなさい、ジュリエンヌ。
―きっと、あなたを守ってくれます。
母さま、ごめんなさい。
わたしは仇も討たず、最期の約束すら守れぬ愚か者です。
けれどお許しください。この人に遺言ごと、本当のわたしを抱き締めて欲しいのです。
「すべてが欲しいとあなたは仰いました。ですから、この指輪をどうぞ、受け取ってください。」
「いいのか。」
暖かい掌が下がり、息を飲んだ顔で熱く視線が問いかける。
わたしは軽く頷いて、改めて彼に差し出した。
「遺言もろともあなたにすべてを奪われた、証です。」
指輪を掴んだ指が触れ、わたしをそのまま抱き止めてくれた。
いつもより力の篭った腕の中は居心地が良い。
「言葉にならないな。」
「わたしの代わりに、その指輪を。」
馬鹿だな。呆れたように笑いながら、
「お前の代わりなど居るものか。」
優しい声で抱き締めてくれた。