奏者の光
お元気ですか。
森に溢れ出した魔物の侵攻から町を防衛する戦いで、疲れているのではないかと心配しています。
王家の依頼で寄り道をしている私達ですが、元気にやっています。
今、私達は想定外のルートを進んでいます。ジンが言うには追っ手を撹乱するためとのことですが、中々に厳しい道のりです。
ジンには新しい弟子ができました。イチヨウ君という若い男の子です。修行で日に日に強くなっているのが傍目からもわかります。
あんなに伸びが速い奴は初めて見た、とジンも驚いているぐらい。
けど、ぶっきらぼうに、才能があるとしか言わないので本人には伝わっていないみたい。
好きな子にほど意地悪をするというやつなのでしょうか。大抵の人間とはそつなく交流できる癖に、気に入った人間に素直になれないなんて、幼馴染の私の目から見ても変な奴です。
どうも、ジンはイチヨウ君を戦力として早く叩き上げたいみたい。そちらの町を防衛する手伝いをしてくれるかもしれませんね。
ハクちゃんを王都に送り届けて、そちらに辿り着くまではまだもう少し時間がかかります。
そう、魔物の溢れる森から、竜に乗って飛んできたという、記憶喪失の不思議な女の子です。
歳はイチヨウ君と同じぐらい。
私達大人には自分から話しかけてくることはないので、少しシャイなのかも。
彼女はイチヨウ君がお気に入りみたい。一緒に話している時の穏やかな微笑を見ると、こちらまで和んでしまいます。
王都に辿り着くことが、二人を引き裂くことに繋がりそうで、私も少し胸が痛みます。
けれども同じ国内、いつでも会える環境に落ち着くのではないかと期待しています。
彼女が何か森の魔物のヒントを握っている可能性も否めません。現状を打開する何かを握っていてくれれば良いのですが……。
この手紙は大きな町に着いてから出すので、そちらに届くにはまだまだかかるでしょう。
首根っこを引っつかんででもジンを連れて行きます。私達二人が、僅かでも戦力の足しになれば、と思います。
そして、必ずマリさんに頭を下げさせるので、彼女にはどうかジンを許してくれるように言ってくだされば幸いです。
――シホが港町に出した手紙
「もう、疲れました……」
イチヨウが呟くように言う。
「先生の行動にはもう耐えられません」
心を折られたように、イチヨウはその場にしゃがみこむ。
「弟子だろう?」
「弟子ですけどね、世の中にはできることとできないことがあるんです。歩く他はずっと修行、体がもちませんよ」
「常時戦ってるぐらいが丁度良いんだよ」
「ジン、ハクちゃんも疲れてるみたいだし」
シホがとりなすように言う。
ハクの表情には、事実疲労の色が見える。
「こんな急勾配の場所で寝られると思うか? 皆で仲良く麓まで転がるか?」
ジンが投げやりに言う。
四人は木々に囲まれた山道を歩いていた。周囲は既に暗く、シホが掌の上に浮かべた炎だけが周囲を照らしている。
「さっきもっと傾斜が緩やかな場所があったじゃないですか。そこまで戻りましょうよ」
そう言ったイチヨウは、足元の濡れ葉でバランスを崩して転んだ。
冷たい感触が肌に広がる。
もう全てを投げ出したくなったイチヨウだった。
「そこって何時間前に通過した場所だ?」
「……体感で、一時間前」
「一時間戻るより一時間進むほうが建設的だと俺は思うがね」
「休憩場所があるってわかってる道の方がまだ希望を持って歩けるわよ」
シホが呆れたように言う。
そして、言葉を続けた。
「じゃあ平等に多数決で決めましょう。戻りたい人、挙手」
イチヨウとシホが手を上げた。
「二対二だな」
ジンが安堵したような表情になる。
「進みたい人、挙手」
シホの言葉に、ジンが手を上げる。疲弊した表情で反応しないハクに、ジンは戸惑ったような表情になる。
「ハクはどっちなんだ?」
「私は、皆の決めたことに従うだけ」
申し訳なさげにハクは言う。
「じゃあ、二対一で戻るに決定しました。さあジン、先頭に立ってさっさと歩いて」
「俺は民主主義なんて嫌いなんだ」
ジンはそう言いつつも、先頭に立って来た道を戻り始めた。
「ハクちゃんもイチヨウ君ももうちょっとで眠れるから、頑張って歩こうね。最初の不寝番は私がしてあげるから」
シホが、二人を励ましながら歩く。
「まあいいさ。もうそう長くない旅だ」
ジンが、呟くように言う。
イチヨウは、表情が強張るのを感じた。
「山を超えれば王都は目と鼻の先。俺達の目標は達成されるわけだ」
「俺達の処遇はどうなるんでしょう」
少し不安になって、イチヨウは訊ねてみた。
貴重な覇者の剣を持つ少年と、竜を使役できる少女。どちらも異端と見られてもおかしくない存在だ。
「殺す気だったら俺達はお前達の護衛を依頼されてないよ。身の安全は保証してもらえると思っておいて良いんじゃないか」
イチヨウは胸を撫で下ろす。
「それに、この国の王様とは飲んだ仲だ。そう悪くはされないと思う」
「王様と、お酒を……?」
「王様だって人間だ、酒ぐらい飲む」
「けど、席を一緒にしてるのがおかしいですよね」
「旅をすると色々面白い奴と出会うもんだよ。この旅が終わった後、俺たちについて来るか? イチヨウ」
その言葉に、イチヨウは迷った。
ジンは、遺跡調査のために旅をしているという。彼との冒険は波乱万丈なものになるだろう。修行を受けて、剣の腕も上がるだろう。まさに、イチヨウが望んでいた世界だ。
しかし、イチヨウが気になったのはハクの顔だった。
ハクは何も言わない。その髪の毛には、三日月の髪飾りが輝いている。
「……このままずっと、四人で旅ができたら良いのに」
イチヨウが、呟くように言う。
「私も、王都へ行くより、貴方達と一緒にいたい」
ハクが、真面目な表情で言う。
その体を、シホは抱きしめた。
「そうね。私もハクちゃんと一緒に居たいわ。ねえジン。王様が友達なんだったらそれぐらい便宜をはかってくれるんじゃないの?」
「友達っつっても互いに立場の違いとかがあるからな。どうなるかは俺もわからんところよ。だから、念のために備えてイチヨウを叩き上げてるんだろう」
急ピッチな修行にはそんな意図もあったのか、とイチヨウは少し驚いた。念には念を入れる性格のようだ。
「王都に辿り着くのが、私は怖い」
呟くように、ハクが言う。
「自分が貴方達とは違う生き物だって、突きつけられそうで……。大好きなのに、壁があるって知ってしまいそうで」
「大丈夫よ」
ハクの頭を、シホが撫でる。
「例えハクちゃんが違う生き物でも、私達は態度を変えないわ」
ハクはシホの顔を不安げに眺めていたが、そのうち苦笑いを浮かべた。
「うん、知ってる」
ハクはシホ達のことも信頼しつつあるようだ。
良い傾向だと、イチヨウは思う。
「とりあえずは、進むことだ。進まなきゃ、話はまとまらん」
ジンは、ぼやくように言って先頭を歩いて行った。
翌日、イチヨウは早朝にジンに叩き起こされた。
何事かと思って目を擦りながら立ち上がる。
「剣と鎖帷子を装備しておけ。一応、覇者の剣も持つんだな」
「はい。……修行ですか?」
「ま、その一環みたいなもんだ。シホ、ハクを頼んだぞ」
いつの間にか起きていたシホが、傾斜の緩い坂に座り込んで手を振っていた。
二人は森の中を歩き始めた。
「これだけ人の手の入ってない山林だ。いると思うんだよな」
ジンは、どこかとぼけた調子で言葉を紡いでいく。
嫌な予感がして、イチヨウは息を呑んだ。
「いるって、何がですか?」
「熊」
「熊ですか!?」
「大声を出すな。小声で喋れ。熊鍋、美味いぞ」
そういえば、ジンはさっきから小声で喋っている。イチヨウも、ジンに身を寄せて、それに合わせた。
「先生が退治してくださるんですか」
「いや、お前が倒す」
淡々と言われて、イチヨウは絶叫しそうになった。
「熊を倒すんですか? 俺一人で?」
「おうよ」
「熊ですよ、熊」
「お前、オークを倒したろう」
「そりゃ、あの時は無我夢中で」
「危険な状況でいつでも集中状態を維持しなければならない。つまるところ実戦慣れだな。俺とのお遊びだけじゃ身につかんものだ」
「動物との共生はどうしたんですか」
「共生どころじゃないんだよ、今は」
ジンは、真面目な表情で言った。
「想定外のルートを進んでるから、食料、尽きかけてるんだ。食うも食われるも生命の営みの範疇だよ」
「普通に山を回避して進めば良かったじゃないですか……」
「そしたら、あの星の奏者とやらに足取りを掴まれる可能性がある。相手も一人じゃなかろうしな。あえて通らないだろうと思わせる道を行くのさ」
「……先生、あの女に勝つ自信がないんですか」
「ないな。ちょっと前にウラクって言う素早い奴がいたが、あの女の素早さはそれ以上だ」
ジンは淡々と言う。それは、イチヨウにとってはショックな言葉だった。ジンが敵に負けを認める姿を、イチヨウは見たくなかった。ジンはいつでも、強い存在であって欲しかった。
そこまで考えて、イチヨウは少し気恥ずかしい気持ちに襲われる。
まるで、自分のそれが、父親に期待する子供みたいな感情だ、と思ってしまったのだ。
「負ける自信もないがなあ」
ジンはそう付け加えた。
「シホがどうも、あいつを殺すことを躊躇っている。あの奏者とやらを火球で囲んだ時に、燃やしてしまえばかたはついてたんだ」
「それは、普通のことでは?」
「戦闘では邪魔な感情だよ。相手にも親兄弟がいるんだって考えながらお前は狩りをするか?」
「それは……考えたらやり辛いですね」
二人は開けた場所に出た。
「ここで寝れば良かったなー」
どうでも良さげにジンが言う。
茂みが動く音がした。
大きな黒い物体が、のっそりと前後の足を動かして二人の前に現われる。彼は威嚇するように、大きく立ち上がった。
「じゃ、頑張れ」
そう言って、ジンは後ろに引っ込んでしまった。
「頑張れって言われてもなあ」
イチヨウはぼやきながら、背中の覇者の剣を抜こうとする。
「覇者の剣はなんだったっけ?」
ジンが、冷たい口調で言う。
「使用禁止」
「わかっていればよろしい」
イチヨウは仕方なく、腰に差した剣を抜いた。
「というわけで、今日は熊鍋です」
ジンが熊の体を解体しながら言う。
ハクは困ったような表情でそれを見ていた。熊が可哀想とでも言いたげだ。
ジンはそれを察したらしく、ハクに声をかける。
「食うも食われるも命の営みってな。俺達は食っていかなきゃ生きていけない。だから、生命をありがたく頂いてるってことは忘れちゃならんよ。ハク。お前が吸ってたスープにだって、鶏肉とか入っていただろう?」
「はい……」
「仕方が無いことなの。命の循環ってな。こいつらだって他の動物を食って生きてるんだから、覚悟はしてるよ」
「そういう、ものですよね」
納得したように、ハクは頷く。しかし、その表情は少し悲しげだった。
「打撲ですんで良かったなあイチヨウ」
ジンはイチヨウに声をかける。
イチヨウは面目ないとばかりに項垂れた。その服には、鉤爪の跡があり、その下にある鎖帷子が見えてしまっている。
「お前、集中しきってなかったろ。それは相手に勝てるって直感的にわかったからだ。慢心だな。まったくお前は課題が多い」
「けど、熊を退治するなんてたいしたものだわ」
シホは、そう言って慰める。
「ジンだって、イチヨウ君と同じ年の頃は熊なんて倒せなかったでしょう?」
「まあ、そうだな」
「それを考えると、イチヨウ君の成長は見事なものだと思うわ」
煮立ったスープに熊肉が入れられる。
「命の営み、かあ……」
ハクが、どこか切なげにそう言った。
焚き火を囲んで、パーティーは寝入っていた。
不寝番のイチヨウだけが起きている。
イチヨウは覇者の剣を抜いて、その刀身に見入っていた。
複雑げな表情の自分の顔が映っていた。
熊を倒せるほど強くなったと思ったら、一撃をくらってしまった。これでは、進歩しているのか後退しているのかわからない。
ハクが、ゆっくりと体を起こす。
「イチヨウは、戦いたいの?」
不意に、ハクが言った。
あまりに唐突なその一言に、イチヨウは言葉を失う。それは、ハクが村の家に閉じ込められた時と同じ問いだった。
イチヨウが剣を抜いていたから、戦意を高めているとでも思ったのだろうか。
イチヨウは、剣を鞘に収めた。
「あんまり、戦いたくない」
今の正直な気持ちを、イチヨウは述べた。
「熊を切るのも、本当は迷った。九十九さんを見た後だったから。だから、一撃をくらっちまったんだな」
昔のイチヨウは冒険に憧れていた。魔物を切り、竜を退治し、そうやって敵を倒していく生活に憧れていた。
けれども、害意のない相手でも、魔物や動物なら斬ってしまうのだろうか。それは違うはずだ。
そんな迷いが、今のイチヨウの中にはある。
「イチヨウは優しいね」
そう言って、ハクは微笑んだ。
「ジンさんの言う通りなんだと思う。これが命の営みなんだよ。どんな種族だって、他の種族を食べないと生きていけない」
「まあ、そうなんだけどなー」
「そんな中でも、人間は異常なペースで他の種族を絶滅に追い込みもする。相手の体のパーツのためだったり、飾りにするためだったり」
何処から得た知識なのだろう。ハクの珍しく長い台詞に、イチヨウは戸惑う。
「それは……褒められたもんじゃないな」
「そんな中で、私達のやっていることは至極自然なこと。私は、そう思った」
「全ての動物と話ができたら良いのにな」
イチヨウは言う。
「そうしたら、共生できるのに」
「そうかもしれないね。けど、言葉を操れるほどに進化したのは人間だけだから」
残念そうにハクは言う。
「だから神様が、たまに九十九さんのような調律者を作ってくれるんだと思う」
「調律者って、なんだ?」
それは、あの星の奏者を名乗る少女も使っていた単語だ。
ハクはふと、我に帰ったような表情になる。
「……なんだろうね?」
複雑そうな表情で、ハクは黙り込んだ。
「私、何を言ってるんだろう」
自分自身のそれまでの台詞そのものに、ハクは戸惑っているようだった。
ハクの記憶が蘇りかかっているのだろうか。そんな予感に、イチヨウは震えた。
ハクが記憶を取り戻した時、まるで違った人間になってしまうとも限らないのだ。
「思い出さなくて良いよ、ハク」
ハクが疑問符を頭に浮かべる。
「ハクは、そのままのハクで良い。記憶がなくても、俺が守るよ」
そう言って、イチヨウはハクに向って掌を差し出す。
ハクはその掌に微笑んで自らの掌を合わせようとして、一瞬何かを思い出したかのように硬直した。
「記憶が戻ったら、イチヨウはそれまでのまま守ってくれるの?」
「守るよ」
掌と掌が重ねられる。
ハクは、幸せそうに微笑んでいた。その表情を見せてもらっただけでもご褒美だとイチヨウは思う。
山の頂上に四人は辿り着いた。
「わあ、絶景だねえ」
シホが言う。
「この麓の森を抜けた先に小さな村があるだろう。その先の町の、その向こうが王都だ」
ジンが言う。
「わかります。ここから見ても、でかい都だってわかる」
ハクが、イチヨウの服の裾を引いた。
ハクは、眼下に広がる世界を目を輝かせてみている。
「世界って広いね、イチヨウ」
「うん、広いな。地平線の先に何も見えやしないけど、そこにも町や国があるんだろうな」
「旅してみたいなあ。竜の背に乗って、どこまでもどこまでも飛んで」
イチヨウは、再び戸惑いを覚えた。
「竜、意図的に召還できるのか?」
ハクは、戸惑ったような表情になった。
「ううん、できない。あれ、おかしいな。何言ってるのかな、私」
ハクが不安げな表情になる。
「名前は呪い」
星の奏者を名乗った女の台詞が、脳内に蘇る。
「本当の名前を知ったアリシラは、そのうち必ず記憶を取り戻す……その時が、別れの時となるでしょう」
不吉な予言だった。
しかし、事実、ハクには今までになかった発言が増えている。
何かが壊れ始めている予感がした。
それがどう壊れているのか、イチヨウにはまだわからない。
それは、焚き火の跡をじっと眺めていた。そして、その場に残されていた熊だったものの残骸を眺めていた。
それは無表情にそれらの匂いを嗅いだ後、四本の足で走り始めた。
山の頂上に向ってのその移動に、迷いはない。
その巨体に、周囲の木々がゆれ、木の葉が舞った。
彼は山の主だった。
主は、侵入者の登場に強い不快感と危機感を覚えていた。
素早い移動で、あっという間に山の頂上へ辿り着く。そして、怒りを表明するように大きな声で吼えた。
鳴き声が山の中に木霊していく。
そして、その目は既に標的を見つけていた。
山林への侵入者。四人の旅人を。
山の主は、その巨体による体当たりを敢行した。
三メートルはある大きな熊だった。その体当たりで、ハクが吹き飛び、それを庇ったシホも二人で山道を転がり落ちて言った。
残ったのは、ジンとイチヨウだ。イチヨウは、慌てて剣を抜く。
ジンは、後方に向って歩いていき、距離を置いた。
「魔物の一種だな。お前が、倒せ」
「俺が、こいつを……?」
昨日の熊を倒した時の感触を思い出す。命あるものを殺める、嫌な感触が手にまだ残っている。
「九十九さんとは協定を結んでいたのに」
「九十九は話のわかる奴だ。しかし、肉体言語でしか喋れん奴もいるということだ」
ジンは淡々としている。
その大人なりの割り切り方が、イチヨウには憎らしく思えた。
熊は遥か頭上からイチヨウを威圧している。
その鉤爪のついた巨大な右手が、振り下ろされた。
イチヨウは剣の刃を立ててそれを受け止める。しかし、剣が相手の腕に食い込んだだけだった。さらに、勢いに押されてイチヨウは倒れそうになる。
そこに、左手が振り下ろされる。イチヨウは辛うじてそれを避けた。
魔物は大きな口を広げて、抱きつかんばかりに飛び掛ってくる。
その頭に手を置いて、イチヨウは魔物の頭上に飛んで跳躍することで辛うじて難を避けた。
「馬鹿、腕力差があるのは見えてただろ。慎重にやれ」
「はい!」
イチヨウは返事をしつつ、振り返りざまに魔物を切った。魔物も振り返ったところで、手を振り下ろしていた。その指が、宙に飛んで落ちる。
咆哮が、周囲に響き渡った。
強くなっている、という実感がイチヨウの中に沸いてくる。自分はやれる。冒険譚で読んだ剣士達のように戦える。
熊の右腕が薙がれる。
その動きを、イチヨウは完全に見切っていた。
イチヨウは一瞬で相手の懐に入り込み、その心の臓を貫いていた。
魔物が血を吐き、ゆっくりと倒れ伏す。
その真下に潰されそうになったイチヨウは、地面を転がるようにして距離を置いた。
「最初の防御はどうかと思ったが、まあ及第点だな」
ジンは微笑んで、イチヨウに手を伸ばす。イチヨウはその手を取って、立ち上がった。
駆け足の音がした。
坂道を駆け上がってくる少女が居る。ハクだ。
彼女は魔物に近付くと、その体に手を添えた。
痙攣していた魔物が、徐々に落ち着きを取り戻していく。
神術を使っているのだろう。
「おい、危ないぞハク」
イチヨウが言う。どうしてかそれを、ジンが制した。
魔物はゆっくりと顔を上げる。その額に、ハクは自分の額を当てた。
「ごめんなさいね」
ハクは、魔物に話しかける。普段とはまた違った口調だ。声色も、どこか大人びたものだった。
その右手が眩いばかりに輝き始めた。
その輝きに、イチヨウは見覚えがある。覇者の剣を引き抜いた時に自らの手に輝いた光と一緒だ。
「ここは貴方達の縄張りだったのね。けど、私達はそれを壊そうとする気はないわ」
まるで、子供に言い聞かせるようにハクは言う。
「同胞を一匹殺してしまったけれど、それはお互いに生きるための命の営み。わかってくれないかな」
魔物は戸惑ったように、喉を鳴らした。
「貴方は調律者。森を守るお仕事に戻って。私達は、もう戻ってこないから」
魔物が立ち上がる。
そして、ゆっくりとした足取りで、森の中に戻って行った。
ハクの右手の光が、消えた。
すると、ハクはそれまでの調子が嘘だったかのように、その場に倒れてしまったのだった。
「なんでも剣で解決するのは良くないと思い知らされたね」
溜息を吐くようにジンは言う。
「けど、剣がなかったら俺達殺されてましたけど」
「そこが縄張り争いの難しいところだよ。そして人間は、もう腐るほど動物や魔物の縄張りを侵しているんだ」
ジンはそう言って、中空に視線を向けた。その背には、気を失ったハクがいる。
「調律者。意味がなんとなく読めてきた」
イチヨウも、ジンの言うことが判る気がした。
調律者、それは動物の縄張りを守る為に作られた存在。縄張りを楽器の音色のように調律する者。
誰が作ったのかは、わからない。ただ、そう言った存在が、世の中にはいるらしい。
「ハクは予め、それを知っていたんでしょうか」
「知ってたなら、山を進むのを……つまり縄張りに入るのを止めるだろう。この子の性格ならな」
「そうですよね。つまり……思い出した?」
「どうだろうな。この子に関しては、わからないことばかりだ」
投げやりにジンは言う。
「星の奏者、調律者、魔物の群れ、竜を使役する、キーワードは揃っているんだがな」
しばし黙り込んだ後、ジンは呟くように言った。
「この子は、普通の一生を送れないかもしれん」
イチヨウは、返事ができない。ハクはあまりにも人外に近すぎる。それを、イチヨウも感じ始めていたからだ。
「さてはて、王都に連れて行くのが吉と出るか、凶と出るか……」
ぼやくようにジンは言う。
「あてになるのは貴方の友達なんだから、しっかり説得してよね、ジン」
シホが、不安げに言う。
「……友達だけどな。あっちにも仕事というものがあるからな。仕事が絡むことで友情は信用できない。それはただの妄信だ」
「……あてにならない友情だわね」
呆れたようにシホは言う。
三人は黙り込んで、坂道を転ばないようにゆっくりと降りていく。
目を覚ましたハクを待っていたのは、見渡す限りの花畑だった。
「わあ……」
ハクは目を大きく見開いて、微笑む。
「今日はここで宿泊だそうだよ」
その傍で座っていたイチヨウが、補足するように言う。
「綺麗だね、イチヨウ」
「ああ、綺麗だ」
しばしの沈黙が、二人の間に流れた。
「イチヨウ、どうしたの?」
「ハク」
訊ね辛い話題があった。しかし、それをあえて避けるわけにはいかなかった。
「あの熊の魔物と会った後のこと、覚えてるか?」
ハクは首を横に振る。
「ううん、覚えてない。吹き飛ばされて、気絶しちゃったもの」
「そうか……」
あの魔物との会話を、ハクは覚えていないのだ。
あのシーンを思い出すと、イチヨウはハクが魔物側の存在に思えてならなくなる。
「どうしたの? イチヨウ」
「ん?」
「少し、怖い顔してる」
「そう、か……」
イチヨウは、笑顔を作った。
「王都、賑やかそうで楽しみだよな」
「うん、楽しみ。もっと人が一杯いるんだろうね」
けれども、とハクは言葉を続ける。
「ちょっと寂しい。イチヨウはきっと、また旅に出ちゃうから」
「傍にいるよ」
イチヨウはハクの手を握り締めた。
「たまに故郷に帰るかもしれないけれど、ずっと傍にいる」
ハクはしばし考え込んでいたが、嬉しげに微笑んだ。
「うん、ずっと一緒。ねえ、ちょっと目を瞑って」
イチヨウは、言われるがままに目を閉じた。
唇に、何か柔らかいものが触れる感触があった。
眼を開けると、ハクの顔が眼前にあった。
「女の子は、大好きな男の子とはこうやって誓うんだって。シホさんが言ってた」
「……誰にでもしちゃ駄目だぞ」
「イチヨウにしかしちゃ駄目って言われてた」
「ああ、うん、それで良い」
イチヨウは頬が熱くなるのを感じた。
ファーストキスの感触は、柔らかかった。
「……なんか、ずっとこのままなら良いのにな」
イチヨウは呟いた。
確信があった。将来戻りたい一瞬がいつかと問われたら、今のこの瞬間になるだろうと。
大好きな少女と見る花畑。冒険の旅と鍛えてくれる師匠。そして、子供二人を優しく見守ってくれる母親のような女性。
まるで家族がいるみたいに、今の瞬間は幸せだったのだ。
「そうだね。このままだったら良いのにね」
ハクも思うところがあったのだろう。寂しげな表情で呟いた。
もう一度、二人は唇と唇を重ねた。
「お前に伝えておきたいことがある」
村に下りた時、夜の星空を仰ぎながら、ジンは急にそんなことを言い出した。
「これは剣術に関する指導ではない。人生に関する指導だ」
「人生に関する指導、ですか」
この師匠が人生論を持ち出してくるというのも珍しいことだった。
「良いか、危険な目に合ってる時や追い込まれた時に傍にいる少女に惚れるのは危ないということだ」
「はい?」
「人間には吊り橋効果というものがあってだな。危険な場所にいるほど恐怖のドキドキと恋のドキドキを勘違いしてしまうものなのだ」
「……つまり、ハクと距離を置けと?」
「いや、そのままで良いんじゃないか。ただ勢いに任せてだな、ちょっと超えてはいけないラインを超えては後々のトラブルの元となる場合がある」
「超えてはいけないライン……?」
「ああ、超えてはいけないラインだ」
苦い顔でジンは言う。懊悩しているようだった。こんな表情の師を、イチヨウは初めて見たかもしれない。
「キスって超えてはいけないラインに含まれますか?」
少し頬が熱くなるのを感じながら、イチヨウは問う。
ジンはしばし考え込んだ。そして、納得したように頷いた。
「ああ、お前なら大丈夫だわ。なんか安心した」
「どういう意味ですか……」
なんだか馬鹿にされているようで、イチヨウは面白くない。
「先生は失敗したんですか?」
ジンはそっぽを向いて、しばらく黙っていたが、そのうち溜息混じりに言った。
「それがそのものが失敗だったとは言わん。ただその後の対応が原因となってトラブルを起こした。それで今も揉めている。胃が痛い限りだ。俺は隣国の港町に向っていたのだがな」
「ああ、例の魔物に襲われているって言う」
「その途中で今回の依頼が来て、少し安堵もしている。港町の手前にある砦周辺で魔物が完全に抑えられているのは聞いているし、それなら辿り着くのを先延ばしにできる」
「その港町でどんだけえぐいトラブルを起こしたんですか貴方は……」
「大人には色々あるんだ、それは覚えておけ……」
頭を抑えてジンは溜息を吐く。しかし、そのトラブルとやらの詳細は教えてもらえなかった。
次回
誘惑の村