化け狐と星の奏者
小さな村だった。
家の数も二十に満たないだろう。その背後には森が広がっている。
村の片隅で、子狐に餌をやっている子供がいた。
ハクがそれを目ざとく見つけて、駆け寄って行く。イチヨウは慌ててその後を追った。
子供は子狐の額を撫でている。
「仲良しだね」
ハクが微笑んで言う。
「うん、俺とこいつは家族だからな」
少年は誇らしげに言う。
家族、という言葉に、イチヨウは僅かに胸に痛みを覚えた。
「ここは狐と共生する村だから」
少年の放った言葉の意味がわからず、イチヨウは戸惑いを表情に浮かべる。
ただ、ハクだけは嬉しげに微笑んでいた。
イチヨウは村の片隅で、ジンと戦っていた。
互いに真剣だが、覇者の剣はイチヨウの腰の鞘に収まっている。
手を剣の平で叩かれて、イチヨウは思わず剣を取り落とした。
「ほら、今の攻撃は読めただろ。剣も取り落とすな。痛くても落としたら終わりだ」
「と言われましても……」
「相手の先の動きを読むんだ。なんの為に良い目をしてるんだよ。手の動きはもちろん、肩の動き、足の動き、腰の動き、全てに次の攻撃へのヒントが隠されていると思え」
「それを維持させるのが難しいです、先生」
「集中力だな、問題は」
ジンは苦い顔で腕を組む。
「集中の世界に入れないと、一皮剥けないぞ、お前」
「集中の世界、ですか?」
聞いたことがない単語に、イチヨウは戸惑う。
「ああ。集中力が極まった世界だ。全てがスローモーションに見えて、相手の動作も自分の取るべき動きが手に取るようにわかる……まあ、お前はそれ以前に長期戦闘で読みを維持する努力をするべきだな」
「読み、ですか」
「そう。天眼流は一にも二にも読みだ。相手の取るべき行動を先読みして対処に当たる。眼が良く素早いお前にはうってつけの流派だよ」
言葉にするのは簡単なのだ。しかし、相手の些細な動作から次の行動を読み取るには、イチヨウには経験が足りていないように思う。
「とにかく戦闘の数をこなすぞ。短期決戦なら良いセン行ってるからよ」
「はい、先生!」
そう言って、イチヨウが飛び掛り、二人は再び戦闘を開始した。
ハクは退屈そうにそれを眺めている。
夜に村の片隅で火を起こしてジン達は食事を取っている。
ジンとイチヨウは熱心に剣術談義をしており、ハクは退屈そうにそれを眺めている。
そのうち、ジンとイチヨウが寝入った。
シホは苦笑顔でジンの寝顔を眺めている。
「よほど疲れたのね。一日中剣術指南だったから」
「剣術ってそんなに大事かな」
ハクが不服げに言う。
「大事なものを守る為には、必要な時もあるでしょうね。世の中には、暴力が溢れているから」
シホが、どこか遠くを見ながら言う。
「その為にどの国も兵を抱えるし、その為にどの町でも剣を習う。動物だって、自分の群れを維持する為に力を持っているでしょう?」
「そうなのかな……」
ハクはやはり不服げだ。
シホが、ハクの肩を抱いた。
「イチヨウを剣に取られた、って思ってる?」
ハクはしばし考えた後、小さく頷いた。
「前なら、もっと話し相手になってくれた」
「けど、今はイチヨウ君は剣で強くなりたいんだよ。ハクちゃんを守るためにね」
「私を、守るため?」
「そう、ハクちゃんのため」
「色々な話をしてくれるほうが、私はよほど嬉しい」
「そうよね、そこが難しいところよね。男の子は、見栄を張りたい生き物だから。女の子の気持ちをわかってくれないのよね」
ジンには、イチヨウを戦力として育てる狙いがあるのではないか、ともシホは思う。
現在近接戦闘をこなせるのはジン一人。もしも多数と戦うようなことがある場合、シホのような後衛やハクのような神術師を守るポジションの剣士が必要となる場合もある。
ジンはそこにイチヨウを当てはめようとしているようにも見える。
ただ、何故彼が多数との戦闘を想定しているのかはシホにはわからない。錬度の低い山賊程度ならば、ジンの剣術とシホの魔術で十分に対処可能だからだ。
「ハクちゃんは、イチヨウ君のことが好きなのかな?」
シホが、ハクの肩を撫でながら言う。
「好きとかは、私にはわからない」
ハクは、困った表情で言う。
「ただ、あの大きな町で守ってもらってから、イチヨウがいなくなるんじゃないかってたまに不安になる。傍にいてくれないと、困る」
「そっか。傍にいれないと、寂しいしね」
ハクは、小さく頷く。
「明日は森を超えなきゃいけないから、必ず話せるよ」
慰めるように、シホは言った。
「道中で、少し問題が待ち受けているらしいけれどね」
そう言ったシホは、苦笑顔だった。
「わかっておられますな、ジン殿」
村の長老が、念を押すようにジンに言う。
ジンは苦笑顔でそれに対応した。何に使うつもりなのか、樽を小脇に抱えている。酒場にあるような樽の半分ほどの大きさのものだった。
「わかっています。そもそも、俺も奴とは顔見知りですからね」
奴とは誰なんだろう、とイチヨウは思う。
「ええ、念を押しただけです。無事をお祈りしておりますじゃ」
ジンは頷いて、森の中へと一歩を踏み出した。
シホがその後に続き、イチヨウとハクも並んでその後に続く。日を遮る木の葉のカーテンで、森の中は薄暗かった。何処からともなく、鳥の声がしていた。
「いいか。この森じゃ不殺生を貫け」
ジンが、いつになく静かな口調で言う。
「不殺生、ですか」
イチヨウの言葉に、ジンは頷く。
「虫一匹殺すな。殺すと厄介なことになる。村の人間も、決められた量しか狩りをしない場所だからな」
「聖域、みたいなものなのですか?」
「それより悪いな。こっちは本当にバチが当たるからよ」
バチが当たる。そんな言葉に、イチヨウは首を捻る。イチヨウは神の類を信じたことがない。だから、そんなことを言われてもピンと来ないのだ。何処の誰がバチなど与えるというのだろう。
「ねえ、イチヨウ。今日は元気?」
ハクが話しかけてくる。
「ちょっと筋肉痛があるかな」
「神術、かけてあげようか」
「いや、いいよ。昨日も少しかけてもらったろう。大事な時の為に、温存しておけよ」
「そう」
ハクは寂しげに言って、黙り込んだ。
その頭にある三日月の髪飾りを見て、イチヨウは胸に罪悪感を覚えた。
そういえば、最近ハクと話をしない日が増えている。
「ハクは元気なさそうだな」
「そうでもないよ」
ハクは答える。僅かに憂鬱げな表情に見えた。
「俺の村の話しでもしようか」
「うん」
上機嫌に、ハクは頷いた。
「俺の同年代の奴に、イチって奴がいてさ」
ハクとイチヨウは話しながら進んでいく。
ハクは嬉しそうに、イチヨウの他愛もない話を聞いている。
なんだか幸せだな、とイチヨウは思う。
ハクは本当に真っ白だ。くだらない話でも、他愛のない話でも、新鮮な情報であるかのように吸い込んでいく。
そのうち、イチヨウは足を止めた。
「すいません、トイレ……」
「おう、待ってるから早めに済ましてこいよ」
ジン達はその場で立ち止まった。
イチヨウは、少し離れた場所へと移動して、ズボンを下ろす。そして、それと眼があった。
狐、というにはそれはあまりにも巨大すぎた。猪よりも大きいだろう。それが、歯をむき出しにしてイチヨウを威嚇している。
イチヨウは慌ててズボンを上げて、剣を鞘から抜く。覇者の剣は背中にある。師に、覇者の剣は強すぎて成長の妨げになる、と言われて使用を禁じられたのだ。
相手は飛び掛るタイミングを計っているように見える。
イチヨウは、恐怖しなかった。今なら、相手の飛び掛るタイミングを正確に測って対処できるという自信があった。
二度の実戦に、師匠との練習。その数々で、イチヨウは実戦に対する自信を身につけていた。
問題は、不殺生を命じられていることだ。
手間取るかもしれない、とイチヨウは思う。
しばし、両者は睨みあっていた。こういう時、目をそらしてはいけないとイチヨウは知っている。
相手の体がぐっと沈みこむ。
イチヨウは剣を引き、迎撃の準備を整えた。
そして、ついに狐が飛び掛ってきた。
剣と剣がぶつかり合う澄んだ音がする。
気がつくと、目の前に二人の人間が立っていた。
一人はジン。苦い顔で、イチヨウの刃を剣で受け止めている。
もう一人は、見たことがない金色の髪をした女性だった。臀部には九つの尻尾が生え、頭には獣のような耳がある。彼女は片手で、巨大な狐の頭を押さえ込んでいた。
「危ないところじゃったのう、ジン」
女性が言う。
「森の中では揉め事は避けろと言ったろう、イチヨウ」
ジンが苦い顔が言う。
「不殺生とは言われましたが、揉め事を避けろとは言われてません」
イチヨウは不満げに言う。
「ああ、じゃあ俺の言い方が悪かったな。不殺生と言っときゃ逃げてくれると思ったからよ」
「そう仲間を責めるな、ジン」
獣耳の女が言う。
狐は先ほどの凶暴さが嘘のようだ。叱られた子供のように項垂れて、森の奥へと消えて行った。
「どうやら喧嘩を売ったのはあいつじゃ。お前の仲間は被害者と言えよう」
「そう言ってくれれば助かるよ。相変わらず、話がわかる奴だ」
「人に慣れろとこちらも言っておるのだがなあ。仲間も数が増えて、中々上手く行かん」
獣耳の女は、そう言って溜息を吐いた。
森の中の開けた広場に、ジン達は案内された。
獣耳の女性は、その場で座り込む。その向かいに四人は座った。
「さて、見知らぬ顔が三人おるのう。マリはどうした、ジンよ」
「マリとは別行動中だ。あいつの名前を出すのはやめてくれよ」
マリに関しては、イチヨウも少し情報を得ていた。ジンの弟子で、以前は二人で旅をしていたと言う。ジンよりも強いというが、その強さをイチヨウは想像できない。
「痴話喧嘩か」
からかうように女性が言う。
「痴話喧嘩ですねえ」
シホが代わりに答え、ジンは苦い顔で黙り込む。
「ほっ。似合いのつがいだと思っていたがくっついたか。これはめでたい」
「そういうわけでもないんだ。事態はややこしくてね。それより、他の三人の紹介だろう」
ジンは苦い顔で話を進めた。
「私はジンの幼馴染でシホと言います。ジンの遺跡調査の手伝いをしている魔術師です」
シホが自己紹介する。
イチヨウは、慌ててそれに続く。
「イチヨウと言います。ジンさんの弟子で。隣に座ってるのはハクって言って、多分魔術師です」
ハクが小さく頭を下げた。その目は、興味深そうに女性の尻尾を眺めている。
「ああ、これが気になるか?」
女性は微笑んだ。妖艶な笑みだった。
「わしは狐じゃゆえな。尻尾もあれば獣の耳もある。名を、九十九という」
九十九はそう言って、頭を下げた。
「狐……?」
魔性の類か、とイチヨウは思わず剣の柄に手を伸ばす。それを、ハクの手が抑えていた。
ハクは、悲しげな表情をしている。
イチヨウは我に返って、手を元の位置に戻した。しかし、九十九はそれを見ていたらしく、悪戯っぽく微笑んでいる。
「気にせんで良いぞ、小僧。それが人間の普通の反応じゃ。先ほどはこちらが無礼を働いたからな。今度はこちらがそちらの無礼を許そうじゃないか」
「お前、見境のない奴だなあ」
ジンが事情を察し、呆れたように言う。
小さくなるしかないイチヨウだった。
「で、ジンよ。通行料は持ってきたようじゃな」
九十九が目を輝かせて身を乗り出す。
「ああ、持ってきたぞ。重かったがね。町で注文して、昨日やっと近くの村に届いた」
そう言って、ジンは樽を九十九の前に置いた。
「待っておったんじゃ、それを。じゃあ、酒盛りといこうかの」
話がおかしな方向に転がり始めたな、とイチヨウは思った。
ジンが片手でコップを持って酒を呷り、九十九は両手でコップを持って上品に飲み干す。
「これじゃのう。これの為に生きておる気がするわ」
「それじゃあ、たまにしか飲めない今は退屈だろう」
「生き地獄じゃ。さっさと次の代に託したい。しかし、わしのような変異種は中々産まれんらしいの。結局、この森に縛り付けられておる」
九十九は自嘲するかのように言う。
「あの、この方は一体?」
イチヨウは、恐る恐るジンに訊ねる。
「この森を統べる狐だよ。外見は人だがな」
「つまり、その、言っちゃ悪いけど魔物の類……?」
「そうなるな」
九十九が、妖艶に微笑んで言う。
魔物とは思えないほどの絶世の美女だった。イチヨウは思わず、それに見ほれてしまう
「俺もあちこちで魔物退治を任されたもんだが、話を解するのは九十九が初めてだ。大抵の奴は人間を見るだけで襲ってくる危険な奴だが、九十九はそうじゃない」
「おかげで、人間との間にも協定が結べておる。つまるところ、共生しておるわけじゃな」
「魔物と人間の共生……?」
「動物と人間の、と言うべきかの。人間が狩る量はこちらが決めさせてもらっておる。その代わり、わしらは人を襲わんし自ら人里に出んと言う協定じゃ」
「なるほど……」
子狐に餌をやっている子供を思い出した九十九だった。案外、上手く行っているのかもしれない。
「ま、それも人間の気まぐれの産物。わしらの中にも気の荒い奴も生まれつつある。いつまで続くかもわからんが」
憂鬱げに九十九は言って、酒に口をつける。
「またその話か、九十九」
「ああ。憂鬱だからの。滅ぼされるとわかっている種族の頭ほど憂鬱なものはない」
「滅ぼされるって、なんでですか?」
戸惑うイチヨウの言葉に、九十九は目を細めて微笑んだ。
「今の均衡は人間の気まぐれの産物と言うことよ。本気になれば人間は大軍を送ってわしを殺すこともできる。ジンのような腕利きを雇うのも手じゃ。そうすれば後に残るのは人間には歯が立たぬ獣ばかり。生かすも、殺すも、人次第と言うわけじゃ」
「それでも、上手くやってるんでしょう? わざわざ、殺す必要なんてないじゃないですか」
九十九の不安が、イチヨウには今ひとつ良くわからない。
「人間の欲は底がない」
九十九は、酒を呷った。酔い始めているのかもしれない。
「今より良い環境を、今より整った日常を。そうなると、わしのような魔物は邪魔になる。後に残るのは乱獲じゃな。わしらの一族は毛皮にも食料にもなる。とことん狩りつくされるじゃろうよ」
イチヨウは反論の言葉を失った。
毛皮も肉も金になる。そうとなれば、後はどうするか。イチヨウだって、狩ろうとするだろう。
「この国の王族には感謝しておる。お前のような差し入れをくれる友にもな。いつまで、友でいられるかは知らんが」
「つれないことを言うな、九十九は」
ジンは呆れたように言う。
「ふん、種族が違うというのはそういうことじゃ」
「種族の違い……」
ハクが、呟くように言う。何か、考え込んでいるようだった。
「けれども、この森は共生できているんだよね?」
「今のところは、と言うだけじゃ」
拗ねたように九十九は言う。
「お前、飲みっぷりは上品なのに酔い方はよろしくないよな」
ジンが呆れたように言う。
「何もない森の中で何百年もぼんやり滅び行く種の番人をやっておるんじゃ。愚痴ぐらい出てくるわ。それともなんじゃ? もしもという時にはおぬしが助けてくれるのか? ジン」
「対岸の火事と思って見て見ぬふりをするだろうな」
「じゃろう。まったくこれだから人間というのはあてにならん。かと言ってわしのような変異種も出てこん。まったく、わしはなんのために産まれてきたのやら」
「世界の調律のためですよ」
声がした。ハスキーな女の声だ。淡々とした、感情を匂わせない声だった。
「まったく、調律者が目的を見失い人と馴れ合う。見苦しいことこの上ない」
九十九とジンが、コップを置いて立ち上がった。
イチヨウも、慌てて腰を上げる。シホは気がつくと、既に立ち上がっていた。
広場に向って、近付いてくる足音があった。その主は、すぐに姿を現した。
ショートカットの女性だった。男物の旅装に身を固め、腰には剣がある。
「見つけましたよ、アリシラ。手間取らせてくれたものです」
そう言って、女性はハクを見つめている。
「アリ……シラ……?」
ハクが、戸惑うように言って頭を抑えた。まるで、頭痛に耐えようとするかのように。
「貴女の抵抗もそこまでです、アリシラ。貴女には貴女の義務と運命がある」
「待てよ、勝手に話を進めてもらっちゃあ困るな。この子の護衛を任されているのでね。それとも、家族さんかな?」
ジンはそう言って、ハクと女性の間に立ち塞がる。その手には、既に剣があった。
「姉妹、と言って良いでしょうね」
女性は、淡々と言う。そして、剣を抜いた。
「この子は記憶を失っている。証明できるものがなければ、身柄は渡せないな」
「記憶喪失……。そうか、自ら記憶を閉じましたか。なら、引きずってでも連れ帰るまでです」
女性が近付いてくる。
イチヨウも、慌てて剣を鞘から抜いた。それを見て、女性の足が止まった。
「それは、覇者の剣……? 覇者の剣を人に託すなど、愚かな真似を……」
「まるで、自分達が人じゃないような言い分だな」
ジンが、皮肉るように言う。
「ええ、そうです。私達は星の奏者ですからね。ん……? どうやら、貴方も混ざり物のようですが」
「混ざり物?」
ジンが、戸惑うように剣の穂先を下げる。
「ええ。隣国の王家の人間でしょうか」
「……その血は流れている」
「なら、貴方にも星の奏者としての使命がある。この星をより良くする為の使命が。その為に、その少女は必要なのです。素直に、その子を渡しなさい」
しばしの沈黙が漂った。
ジンの返答は、シンプルだった。
「やだね」
ジンは、まるで子供のような一言で女性の願いを切って捨てた。
「前にもいたんだ、お前のような綺麗事をほざく人間が。結局その人間は世界制服を目論んでいた。それ以来お前みたいなタイプは信用しないって決めてるんだよ」
「そうですか……そうか、その眉間の傷。お前が大罪人のジンか」
女性の言葉と表情に、初めて憎悪が混じる。
「ならば、ここで死になさい」
女性が地面を蹴った。一瞬でその体が、ジンの後方に移動する。死角からの急襲。しかし、ジンは振り向いて正確にその一撃を受け止めていた。
尋常な速度ではない。その女性の攻撃を、ジンは辛うじて捌いていく。
「まいったな……」
シホが暗鬱な表情で呟く。
「二人の動きが速過ぎて、うかつに援護できない。」
「先生は、勝てますよね?」
シホは、答えない。こんな素早い敵を見たのは、シホも初めてなのかもしれない。
ジンは攻撃を回避して、大きく剣を引いた。それでは、次に大振りの一撃を放つと見え見えだ。
女性はそれを回避するためか、大きく後ろに引いた。
その瞬間、火球が女性の周辺を囲んでいた。
「退いてください」
シホが、凛とした声で言う。
「ハクちゃんの親族なら、傷つけたくはない」
女性は剣を下ろす。しかし、それはフェイントでしかなかった。
「馬鹿、迷うな!」
ジンが叫んだが、その時には遅かった。
火球の包囲網を自らを焼きながら突破し、女性の体が一瞬でシホの眼前に移動する。
剣が振り上げられ、シホは目を大きく見開く。
全てが、スローモーションに見えた。
覇者の剣が、使い手の心に反応するかのように、素早く動いていた。
女性の剣が砕け散る。
イチヨウは、女性の剣を破壊し、シホをすんでのところで救っていた。
「くっ、腐っても剣の所有者と言うことか……」
舌打ちして、女性は後方へ下がる。その右腕、左足、腰が焼け爛れているが、彼女は気にした様子はない。
「しかし、名前は呪い。本当の名前を知ったアリシラは、そのうち必ず記憶を取り戻す……その時が、別れの時となるでしょう」
不吉な言葉を残し、女性はそのまま逃げて行った。
しばし、五人は緊張状態で女性の去って行った先を眺めていたが、そのうち戻ってこないと悟ると溜息を吐いて剣を鞘にしまった。
ジンがイチヨウの傍に歩いてきて、その頭を撫でる。
「良くやった、イチヨウ。お前がいなけりゃ、シホは回避し切れなかっただろう」
「うん、ありがとう、イチヨウ君。あんな攻撃を止めるなんて、着実に成長してるね」
イチヨウは、思わず微笑んだ。その表情が、ハクの顔を見て強張る。
ハクの表情は、蒼白だった。その体は、小刻みに震えている。
「妙じゃ……」
九十九が、呟くように言う。
「どうあっても、あの娘を攻撃しようと思えんだ。逆に、攻撃される気もまったくせんかった。まるで心の中の見えないブレーキが互いに働いたかのように。すまんな、援護できんかった」
「なに、奴の狙いは俺達だ。俺達の持ち込んだトラブルに巻き込んですまなかった」
ジンがそう言って、再び酒樽の前に座る。
「奴はわしを調律者と言った」
九十九は深刻な表情で言う。
「……奴は何か、世界の理に通じるようなことを知っておるのかのう」
「今となっては、わからんことだよ。飲みなおそう」
ジンはそう言って、酒を呷った。
九十九は溜息を吐いた。
「まったく、さばさばした奴じゃ。わしも、飲んで忘れるとしよう」
「以前、世界中の人間を洗脳できる魔方陣を破壊したことがある」
ジンが酒の席で、呟くように言った。
「世界中の人間を、洗脳?」
イチヨウは、戸惑うように言う。あまりにもスケールの大きな話だ。
「簡単に言えば、争いを無くす魔方陣だな。人間から凶暴性や向上心を奪い去る。それは、古い時代に一度発動してしまったらしい。お前さんも思ったことはないか? この世界はちぐはぐだ、って」
「うーん、ぱっと思いつきません」
「例えば覇者の剣。誰にも抜かれない状態が数百年も持続する魔術。そんなもの、今の時代の魔術師では作れるか? 作れないんだよ。競争が人を進歩させる。競争がなければ人は衰える。人類は、その洗脳を受けて、緩やかに衰えて技術を失って行ったんだ。現在の魔術や技術じゃ再現できないような遺跡や覇者の剣みたいなマジックアイテムが存在するのはそのためだ。その洗脳も薄れ、統一王による戦争が起きたり、遺跡調査などが行なわれているのが今の世界ってわけだ」
「なるほど……」
「利点もあったみたいだけどな。例えば世界中の言語が統一されたのはその魔方陣のおかげらしい。長い時間が過ぎたから、方言みたいなものが強くなって会話が通じない場所もありはすると聞くが」
「その話と、あの女性に関連性があると?」
ジンは頷いた。
「あの女は、自分を奏者と言った。魔方陣を操れる人間も、自らを奏者と自称していた。奴も世界中の人間を洗脳しようって類の輩なのかもしれん。ならば、魔方陣を壊した俺を大罪人と憎んでいるのもわかる。その魔方陣があったのは、魔物が狙っている例の港町の遺跡ときたもんだ。何かが、繋がりそうな気がするな」
「なんで、壊したんじゃ?」
九十九が不思議そうな表情になる。
「争いがなくなる。良いことだと思うがの」
「まあ、色々事情があってな。それに、洗脳を受けて家畜みたいに過ごす友人の姿なんて見たいか? 技術力を失い徐々に衰退していく同胞を見たいか? 俺は嫌だった」
「……まあ、人間らしい決断じゃな。人間は欲が深い。ただ生きていくということができん」
「そう言うなよ。まあ、長老の爺さんが言っていたことは正しかった」
ジンはそう言って、酒の入ったコップを地面に置く。
「この一件、何かが動いている」
確信めいた表情で、ジンは言う。
ハクは、精神的に疲労したのか、寝付いてしまっている。シホは、その頭を撫でていた。
「それにしても」
ジンが、ふと付け足すように言う。
「少し強くなったな、お前」
褒められて、イチヨウは思わず頬を緩めた。
「先生のおかげです」
「おう。その謙虚さを忘れんようにな」
「ふてぶてしいお前が言うかのう」
九十九は、少し呆れたように言った。
森の中で、四人は夜を迎えた。女性の襲来を恐れて、火は使っていない。
イチヨウは、覇者の剣を抜いてその刀身を眺めていた。
シホが襲われたあの瞬間、全てがスローモーションに見えた。覇者の剣が自らの意思に忠実に女性の剣を破壊した。あれが、集中の世界というものなのだろうか。
しかし、イチヨウは自分の意思でその世界に足を踏み入れることができない。まだまだ、強くなるには先が長そうだ。
けれども、強くなるヒントは掴めたようには思う。
その時、服の裾を掴まれて、イチヨウは小さく震えた。
振り向くと、ハクがイチヨウの服の裾を掴んでいた。
不安げな表情をしていた。今にも泣き出しそうだ。
「どうしたんだ、ハク。た、体調でも悪いのか?」
イチヨウは、剣を鞘に収めて慌ててハクに向き直る。
ハクの表情が歪んだ。
イチヨウは戸惑って、ハクの手を握る。
「どうしたんだよ、ハク。何か俺に出来るか? 出来るなら言ってくれ」
ハクは、中々口を開かない。
しかし、そのうち、意を決したように口を開いた。
「私、やっぱり人間じゃないのかな……。イチヨウとは、本当はいちゃ駄目なのかな。そう考えてたら、なんだか悲しくなってきた」
イチヨウは、咄嗟に返事ができなかった。
しかし、すぐに微笑顔を作った。
「九十九さんと俺達、共生できてるだろ」
ハクは、頷く。
「人間だって、違う存在だからって殺すような、野蛮なだけの存在じゃないと思うんだよ。いや、俺も魔物って聞いた時は思わず剣に手が伸びたけど。けど、最終的には仲良く話せただろ?」
ハクは、もう一度頷く。
「それに、普通じゃなくても、俺が守るって言った」
イチヨウは、ハクに向って掌を差し出す。
ハクは、その掌に自らの掌を重ねた。その指が、イチヨウの手に絡みつく。
ハクの表情は、悲しげだった。
自分の記憶が思い出せない状況とは、どんな不安なものなのだろうか。自分が人間かどうかもわからない状況というのは、どういったものなのだろうか。イチヨウには、想像がつかない。
ハクを抱きしめてやりたいという気持ちがあったけれども、照れ臭くてそれを実行に移せないのがイチヨウなのだった。
「そういう時は、抱きしめてあげなさいな」
呆れたようにシホが言う。
「そういう時は二人きりにしてやるもんなんだよ」
呆れたようにジンが言う。
「……全員、起きてるんですか」
イチヨウが呆れたように言葉を続ける。
「ほら、ハクちゃん、大丈夫だよ」
そう言って、シホがハクを抱きしめる。
ハクはシホの腕の中で、そのうち安堵したのか寝てしまった。
「……何者なんだろうね、この子」
シホが、ハクを横たわらせながら、呟くように言う。
「わからん」
ジンが、投げやりに返す。
「全部、上手く終わってくれたら良いんだけど……」
シホも今日の一件で、先に不安を感じたようだ。
「わからん」
やはり、ジンは投げやりに返した。
眠いのかもしれなかった。
「眠いからって適当に返事しても許してくれるのはマリさんまでだからね?」
「……すまん」
シホにはやはり敵わないジンなのだった。
「初めて会った時には随分淡白な子だと思っていたけれど……」
ハクの頭を撫でながら、呟くように、シホは言う。
「イチヨウ君がどんどん強くなってくみたいに、ハクちゃんもどんどん感情表現豊かになっているね。良いことだ」
感情表現豊かになった。それは人間臭くなったということだ。それはつまり、それまでは人間らしくなかったということだ。
ハクは徐々に変わっている。まるで自我を成長させていく子供のように。
記憶を失う前のハクは一体どんな人間だったのだろう。いや、そもそも人間だったのだろうか。
考え込んでしまったイチヨウだが、その晩は疲れていたのでぐっすりと眠ることができた。
微笑んでいるハクと、花畑を眺めている夢を見た。
夢の中のハクは、悩みなんか無さそうで、幸せそうだった。
次回
奏者の光