1-3 約束
時間を戻そう。
時刻は4時。反省文は明日にでも逆上教諭の机ににおいておこう。恐らく面倒になってどんな文でも見逃してくれるに違いない。
俺は今、篠房学園の廊下を歩いている。
行き先は図書準備室だ。
一般小説から書店ではお目にかかれないような難解な本までを網羅している篠房学園の図書室は、生徒によく利用されている。その蔵書数を誇るのに合わせて、図書室の面積もかなりのものだ。学校の設備の中では、体育館とプールの次くらいに広い。
図書準備室はその隣にある。
常に大きく開かれた図書館の大扉と違い、そこには小さな扉があるだけだ。
俺はその扉を開けた。
普通の教室サイズのその部屋には、入ってきたばかりでコードを貼り付けられていない本が積まれている。これらの本は、特殊すぎる思考を持った本(過去に大規模テロを起こした宗教組織の思想本が紛れていたこともあった)を取り除くため、図書委員会の面々が毎日のように検閲している。『多感な年頃の生徒に悪影響のある本を触れさせないこと』が目的らしい。それなら読まざるをえない図書委員はどうなるのか、という話だが、そういうきな臭い本はある人物が一手に引き受けている。
本の山の奥にある椅子に座り、その人物……九条綾乃は本を読んでいた。
整った顔立ちに、長い黒髪。男子諸君が持つであろう憧れの女性像のアンケートをとって平均を出したら、きっと九条に近い外見になるに違いない。誰が見ても美人である。逆上教諭が上司にしたい美人とするなら、九条は先輩にしたい美人、と言ったところだろうか。残念ながら、彼女は俺の同級生である。
九条が読んでいる本は毎日変わる。重厚な作りの本を読んでいる時もあれば、店に平積みされている漫画本を読んでいる時もある。九条は濫読家なのだ。それが活字を含んでいれば、且つ初めて見る本であるなら尚更何だって読む、それが九条綾乃のモットーである。まぁこれは彼女が言ったわけではなく、俺がそう思っているだけだが、あながち間違ってはいないだろう。
また、どんな本を読んでいても彼女は幸せそうである。純粋に目を輝かせながら文字を追うその姿は、誰が見ても微笑ましい。美しい、と言わないのは、その時の九条がまるでお伽話に胸を弾ませる子供のようであるからだ。
「……あぁ、天城君か」
どうやら入ってきた俺に気づいたらしい。ドアの開閉音を気にも留めず、眼の前に立ってようやく気がつくのだから、その集中力は驚くべきものだ。
九条は手に持つ古めかしい本に栞を挟み、こちらを向いた。夢中になっていたことが少し恥ずかしいらしく、頬をわずかに染めている。それを見ていたこちらも若干照れくさくなり、とりあえず言葉を発する。
「……相変わらずよく分からない本を読んでるな」
表紙にタイトルらしき文字列があるが、読めない……というか、そもそもそれが何語なのか分からない。
九条は英語を始めとする様々な言語に精通している。そのため、普段は保管庫でホコリをかぶっているような洋書を読むことがあるのだ。
「これか? 面白いぞ。翻訳されたものもあるから読んでみるといい」
九条は、自身が読める限りの言語で本を読む。恐らくそれも読んだのだろう。
以前、『何故同じ本を様々な言語で読むのか』と聞いたことがある。
答えは、『解釈の違いで読み方が変わる』そうだ。
まぁ同じ言葉を使っていても世の中の誤解は尽きないのだから、それぞれ違って当然である。
「……何やら浮かない顔をしているな。何かあったのか?」
九条はそう言うと、興味深そうにこちらを見つめた。こいつは自身の容姿にあまり頓着しないのだが、それは美徳でもあり、欠点でもある。むず痒くなるというか、何となくその場に居づらくなる視線を浴びながら、俺は答えた。
「……まぁな。実は今朝――」
俺は反省文という面倒極まりないものを受け入れ、坂上教諭へ事件のことを話さなかった。しかし、九条にはあっさりと話そうとしている。それには理由がある。
それが九条と俺の1年前から続く『約束』だからだ。
俺は九条に不可解な現象を報告する。
九条はそれに対し意見を述べるのだ。
ただの探偵ごっこのようなものだと思われるかもしれない。しかしこれには、少なくとも俺達にとって重要な意味を持つものだ。
「――と、いうわけで俺は今日遅刻した」
俺が一部始終を語り終えるまで、九条はじっとこちらを見つめたままだった。非常にやりづらいが、いつものことなので既に諦めている。
「……ふむ、『立ち上がる死体』……いや、『立っていた死体』と言うべきか」
九条はそうつぶやくと、俺に言い放った。
「面白い。調べてみようではないか」
この台詞を聞くのは何度目だろうか。俺は彼女の言葉に頷きながら、そう思った。