1-2 食い違い
今から8時間前、俺が死体と遭遇したのは全くの偶然である。
俺の通う篠房学園への道程は徒歩15分。このことは、高校を決定した理由で中々の範囲を占めている。
遅刻の心配のないため登校中の俺の心は幾分軽かった。
浮かれていた、と言っても良いかもしれない。
正確に言えば、これから毎朝のように起こる目覚まし時計との戦いから目を逸らしたかったのだ。
俺はあまり何も考えず体が覚えている道を歩く。
学校の近くになるとビルが立ち並び、信号も多くなる。そこで俺は最小の信号を通過し、最短時間で学校につける道をこの1年で発見していたのだ。建物の入り組むその間。複雑に入り組む路地裏だ。
そしてその通いなれた路地裏で。
死体と目があった。
大柄な男だった。
見開かれた目はしっかりとこちらを睨んでいた。憎い、という感情に満ちた形相だ。それでもそれが生きている人間でないことは、胸元から流れ落ちる夥しい量の血が物語っていた。
血は、男の着ているYシャツを真っ赤に染め、足を伝って地面に複雑な模様を描いていたのだ。
俺はその姿……死体であることに加えてさらにおかしな状態であったそれを目にして、息を呑んだ。
奇異なことに、その死体は立っていたのである。
死体は、しっかりと足を地につき、軽く上体を反らして胸を張り、手を後ろ手に組んでいた。
路地の中央に立つそれは、まるで死人が蘇り、生者の血を求めているようにも見えた。
死体の見るのは決して初めてではないが、足が竦む。震える足が近くのゴミ箱に触れ、倒れて大きな音を鳴らした。
3秒ほど過ぎ、足の震えが収まった頃には、俺は元来た道へ引き返していた。
目の前の非現実から逃避したのだ。
何故だか分からないが、妙に落ち着いていたように思う。歩くスピードは先程と変わらず、ただ進む方向だけが逆だった。
そうして歩き始めて30秒ほど経つと、後ろから足音が聞こえた。
まさか本当に死人が襲ってきたのか……と振り返ると、そこには額から大粒の汗を流すスーツ姿の中年の男がいた。黒いスーツに黒いカバン、と全身黒ずくめである。そんな真っ黒な格好をした人物が息も絶え絶えになりながらこちらに向かってくれば、さすがに目を留める。
「ちょっと待ってくれ!」
そして男の目的が俺にあるらしいことに気づき、足を止めた。
男は少し安心したようだが、それでも顔は強張ったままだった。
そして呼吸を整えつつ俺に言った。
「……君、見たのか!?」
目的語が抜けていたが、それでも俺には目に焼き付いてはなれないつい1分前の情景が思い浮かんだ。
目の前の男が何故そのことを知っているのか、何故そんなことを聞くのか、と考えると、すぐに結論が出た。路地裏に入っていった若者(俺のことだ)が何かを見てすぐに踵を返したりしたら、それはそれは何があるのか気になるものだろう。男は俺に続いて覗きこみ、あれを目撃したらしい。
正直に答える。
「……はい、死体が立っていましたね……」
「……へ? 立って……?」
どうやら俺の解答は男の予想とは違っていたようだ。しかし思いつくのは立ち上がった死人のことだけだ。
俺が訝しげな顔をすると男はこう言った。
「……あ、あぁ。確かに君の言う通り、死体はあったが立ってなんていなかったような……」
何? 俺はますます分からなくなった。同じ物を見て客観的な事実に相違が生じているのだ。
男と共に路地裏に戻ると。
「……なっ!?」
死体はうつ伏せに倒れていた。その胸元には絶命した原因である大ぶりのナイフが突き刺さっている。
あれは俺の見間違いだったのだろうか?
いや、そんな見間違いなんて……。
「……と、とりあえず通報しないと……!」
俺が考え込んでいる間に、男は持っていたカバンから携帯電話を取り出し、警察に通報した。
◇
警察はすぐにやってきて路地裏を封鎖した。
封鎖の過程は初めて見たのだが、実に素早い手つきだった。何度もやっているのだからそれもそうだと思いつつ、やる度に人が死んでいるのだ、と自分の想像に何となく居心地が悪くなった。
そして鑑識らしき人々がテープの中に入ると、青いブルーシートで入り口は塞がれてしまった。
それをぼんやり眺めていると、20代前半らしき警官がこちらにやって来た。
「すいません、質問よろしいでしょうか。あなたが通報された方ですか?」
年若い警官は緊張したようにそう聞いた。年若いと言っても確実に俺よりは年上だろうが、年下の俺に緊張が伝わってくるような顔をされると何となく年長者という気がしない。
質問に答える。
「いえ、通報したのはそこの人です」
俺は通報した後何故かビクビクしていた男を手のひらで指した。
「……では、一緒に死体を発見された方ですか?」
「厳密に言えば俺が先です」
「? ではお二人に聞きますが……」
そこで警官は自分がまだ名乗っていないことと、相手の名前も知らないことに気がついたらしい。
「申し遅れました! 自分は篠房署の飯島昌平巡査です。お名前と御職業を聞いてもよろしいでしょうか」
随分とかしこまった敬語だ。言葉とともに突き出された真新しい警察手帳を眺めながら、ただの高校生に何故そこまでへりくだった話し方なのか考えてみたが、恐らく変な軋轢を産まないためだろう。
「篠房学園高等部2年、天城浩司です」
ついでにこちらも生徒手帳を見せる。まさか初めて生徒手帳を提示するのが警官とは思わなかった。昨日、まず使うことはないだろうと胸ポケットに入れた生徒手帳を早速使うことになるとは、と俺は不思議な気分になった。
飯島刑事は男にも同様の質問をした。
男は挙動不審な態度をさらに強めながらボソボソと答えた。
「……か、会社員の高本伸介です……」
男は社員証らしきものを取り出した。
そこには『株式会社フルタ 係長 高本伸介』とあった。
「ありがとうございました。では天城さんと高本さん、お二人にお聞きします」
こうしてようやく本題に入った。
俺は高本さんと共に飯島刑事に事情を説明した。
死体が立っていた件についても正直に話したが、高本さんが見てない以上、どうにも見間違いと思われているらしい。どうやったらそんな見間違いが出来るのか教えてもらいたいものだ。
質問を終えると、飯島刑事は俺たちに連絡先を聞いて、もう帰ってもいい、事件のことは人に言わないように、と言った。聞くだけ聞いて随分勝手なようだが、確かにただの一般人にうろつかれたら迷惑だろう。
そしてこの時になってようやく俺は気づいた。時刻は既に9時を回っていることに。




