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1-1 未知との遭遇

 明けない夜はないと誰かが言ったがその通り、誰の元へも朝はやってくる。

 個人的にはそんなに急がなくてもいいので、小一時間ほど猶予が欲しいところだが、そんなに気の利いたことが起こるはずもなく、4月7日……始業式の日はいつも通りやって来た。

 目覚まし時計がけたたましい音で鳴る。

 この音を聞く度に、時間を設定した自分自身を恨むことが最早日課になっていた。

 しかし、いくら日課とはいえ不快な電子音を聞き続けられるわけでもない。

 目覚まし時計を叩き壊すような勢いで止める。この時、いっそ壊れてしまえ、ともよく思うが、幸か不幸か10年物である我が家の目覚まし時計は頑丈だった。

 俺はゆっくりとベッドから体を起こし、身支度を整える。

 顔を洗って何とか意識をはっきりさせ、寝癖であちこち飛び跳ねている髪を押さえつけ、歯を磨く。

 朝食は摂らない。

 必要最低限の物が詰まった……放り込まれただけの薄っぺらいカバンを背負い、財布と携帯をポケットに突っ込む。

 登校準備完了。

 俺は玄関を開けながら言った。

「行ってきます」

 答える者は無かった。

 知っていたことだが。



「人は生きている限り『決まり』に従わなければならない。それは重々承知であるし、自由とは他人の自由を妨げてはならないという道徳の初歩も忘れてはいない。

 しかし、決まりとは絶対に守らなければいけないものだろうか。

 例えば、『黄色信号の悲劇』というものがある。

 「止まれ」という赤信号の前の黄色信号は、「もうそろそろ止まりなさい」とそれを見る運転手に示している(正確に言えば、『止まることのできないものはさっさと進んでおけ』ということだが)。

 その『そろそろ』というのがこの悲劇の原点だ。

 青信号が消えて代わりに黄色い光がついても、「まだ大丈夫だろう」と横断歩道を走り抜ける人は多かれ少なかれ存在する。

 大体の場合これは正しい、と言うと語弊があるが、社会常識に照らし合わせるのでなく、「大丈夫である」という点については大体正しいのは間違いのないことだ。

 さて、その大体から外れてしまった人々によるものが「黄色信号の悲劇」だ。

 加害者たる自動車は、左右に曲がろうとする。

 被害者たる歩行者は、「歩行者信号は赤だが自動車信号はまだ赤ではない」と解釈して急ぎ足で横断しようとする。

 同じ時、同じ場所に、同じ考えの人物が揃ってしまえば、あとは分かりやすい悲劇が起こるのだ。

 本来ならそこで話は終わり、それを見た大人は子供にこう教える。「黄色信号で渡るのは悪いことだよ」と。

 しかしここで、『何故黄色信号が生まれたのか』と考えてみれば、別の面が見えてくる。

 そもそも『安全』と『危険』との間に新しい表示を追加したのは、事故を減らすためである。

 唐突に切り替わってしまったら、事故が起こる可能性が上がるのは自明の理だ。

 実際に整備されなかったころはまだ車自体の普及がそこまで進んでいなかったため分かりやすい数字は出ていないが、実際に試したりしたら車に進んで乗る人は激減するはずだ。

 つまり、黄色信号によって激減したであろうありふれた悲劇の裏に、『黄色信号の悲劇』は小さくとも確実に存在しているのである。

 ところで、この事故の責任は運転手だけのものだろうか。

 無謀に飛び出した歩行者に過失があるのも確かだが、それ以外に、だ。

 青や赤なら判断も何もなく、機械的に従えばいい。

 しかし黄の場合、急に止まることはできない。後続車との接触して別の事故が起こる、あるいは停止線を飛び出したままの状態で迷惑極まりない事になることも考えられる。

 その一瞬の躊躇いの後、「まぁいいか」とアクセルを踏みしめてしまった彼らは、槍玉に挙げられて断罪されるような人間なのだろうか。

 数は少なくとも、本来より良い方向へと人々を導くはずの『決まり』が悲劇をもたらす原因の「一つことになってしまっているというのに、人々は深く考えようとしない。『不運だな』と眉をひそめて思う程度だ。次に巻き込まれるのが自分でないと言い切れないのだが。

 そう、何故か大多数は「自分は大丈夫」と勝手な結論で完結してしまうのだ……その慢心こそがさらなる事故繋がる。

 これはこの話に限ったことではない。

 考えることをやめることは、自らの歩みを止めることだ。

 人々は、いくつもの不自然な決まりやそれがもたらす小さな悲劇から目をそらす。

 しばらく経って、ようやく気づく。「このままではまずい、次は自分の身に理不尽が振りかかるかもしれない」と。

 そして慌てて走りだそうとして盛大にコケるのだ。

 それまでの鬱憤を晴らすかのような急激な改革で歯止めが効かず、国がボロボロになった例は数えきれない。

 結局、何が大切かと言えば、『決まり』と自分の間に折り合いをつけることである。

 極端な例を挙げると、戦後の闇市だ。当時の法律では違法だが、それでも人々は利用した。そうしなければ自らの、そして家族の命が危ない。人々は『生きるため』になけなしの財産を切り崩して闇市に向かった。

 しかし警官たちはこれを取り締まった。駅で待ちぶせて検問し、食料を取り上げた。

 命を守るための法律で尊い命が奪われた分かりやすい例だ。

 勿論法律を無視することを奨励するのではない。

 しかし、永久に自分の判断を避けていては、いずれ直面するだろう諸問題に太刀打ち出来ないだろう。

 『ここまでは大丈夫だが、ここからはダメだ』とハッキリとした境界線を自らの手で引いた時こそ、輝かしい未来が切り開けるのだ」

 俺は手にした原稿用紙から目を上げた。間髪入れずに、

「……言いたいことはそれだけか」

 と、目の前に立つ女性――逆上江里は言った。

 何故このような問いかけを俺がされているか、何故俺はこのような大袈裟な制度批判をしているのか、ということを説明するためには、まずこの女性について説明いなければならない。

 年齢は20代後半。身長は成人男性の平均以上はありそうで、俺と目線の高さもそうは変わらない。体重についてはプライバシーと自分の身の安全のために勘ぐるのはやめておく。

 そして特筆すべきはその目。

 三白眼、と一言で済ましてしまうには足りない圧倒的な威圧感を持っているのだ。

 顔つきは美人といっても差し支えない……というか世間一般で言う美人には間違いないのだが、その何もかもを萎縮させる目によって世の中の男性は近寄ってくることがないのではないかとまことしやかに囁かれている。

 個人的にはそのまんま真実だと思う。

 過去に犯罪生物学の祖が三白眼は犯罪者によく見られる、というようなことを言ったらしい。犯罪生物学といった学問自体、現在ではその多くが整合性を否定されているが、それでも犯罪精神医学の場ではそれが応用されている。

 そしてこれは海外でトゥインキー・ディフェンスと呼ばれる制度風刺にも繋がる。偏食こそが犯罪の要因となるという考えに基づいた研究もその学問の一部だったが、それにより連続殺人犯の刑期が短くなったのだ。弁護側が『ジャンクフードを多量に摂取したために精神に異常をきたした』、という主張をした。風が吹けば桶屋が儲かるどころか世界経済が回りだすといったくらいのトンデモ理論だが、それは認められ、刑期は5年短くなった。

 噂では被害者である市議会議員が同性愛者だったという偏見によって陪審員が量刑を変えたという。先程の『黄色信号の悲劇』の一例となりうる問題で――。

 話を戻そう。

 分かりきったことであるが、目つきが悪いということは残念ながら相手に良い印象を与えないのだ。

 いや、もっと前だ。 

 結論から言うと、この女性、逆上江里教諭は俺の所属する2年D組の担任であり、遅刻をした俺に原稿用紙を叩きつけて「反省文を書け、ただ言い訳するな」というとんちの効いた解答を期待したと思われる質問をしてきた……それが冒頭からの長々とした論説に繋がる。

 目覚まし時計に叩き起こされたのにも関わらず、俺は遅刻してしまったのだ。

 ここは職員室。逆上教諭の机である。

 俺の書いた作文を一目見ると「読め」と言われたのだ

 どうやら逆上教諭はこの文章が気に入らなかったらしい。

 しかし、我ながら話の展開は下手だとは思うが、言いたいことは上手くまとめられているはずだ。

「はい、それだけです」

 即ち物事の善悪は「時と場合による」……ケースバイケースである。

 それにしてもケースバイケースとは、何とも語呂が良い。それにイメージもしやすい。英熟語の中でも一二を争っている。とはいってもそうたくさんの熟語を知っているわけではないのだが。

「……おい」

 ばしんっ!と頬を叩かれた。

 脳が揺れる。

 逆上教諭の繰り出す手刀は本人の持つ迫力に違わぬ威力だ。思わず殴られた頬を抑える。

 一応抗議してみる。

「……痛いじゃないですか」

「痛くしたからな」

 まるで理由になっていない。痛くしなかったことがあっただろうかと記憶を探るが、覚えはない。探るほど逆上教諭の手刀を食らっているのか、と思われるかもしれないが、それはこの際関係ないので割愛する。

 逆上教諭は深く溜息をついた。つい「幸せが逃げますよ」と言いそうになる、深い深い溜息だった。

「……お前は建前というものを知らんのか」

 勿論知っている。世の中を上手く回しているものだ。

「ならさっさと書きなおせ」

 逆上教諭は新しい原稿用紙を取り出す。

 そして俺の眼前に突き出した。

「言い訳は書いてもいいですか?」

「……もうどうでもいいから書け」

 投げやりにそう言うと、クルリと椅子を回転させ、自分の仕事に集中し始めた。

 俺は職員室を後にした。


 さて、俺は『何故遅刻したのか』という理由を考え無くてはならなくなった。

 勿論、本来の理由を隠すためだ。


 死体と遭遇した、という理由を。

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