8. やさしさのかたち
闇夜にまぎれてフィリアに近づいてきた足音は、不意にぴたりと止んだ。
おそらく相手にとっては一瞬でフィリアに飛びかかれる間合い。一方彼女にとっては、不意をつくには少々遠い距離。
背中を冷や汗が伝う感覚。呼吸もままならないような緊張感。
彼女にとってその一瞬は永遠のように感じられた。
今、襲われる前に魔法を放つべきか?
彼女は覚悟を決め、息を吸った。
しかし、彼女は用意しておいた閃光の魔法を使うことはなかった。
【人間、起きているか?】
彼女の集中と緊張を解いたのは、頭の中に直接響く、赤き龍の言葉だった。
その時になってやっと、彼女は背後から迫ってきていたのがテオドバルトであったことに気がついた。
心底、安心してしまったらしい。
まだ体はこわばったままであったが、心臓がさもそれまで止まっていたかのように、音を立てて動き出した。
冷え切った手先に血がめぐり、体に熱が戻り始めた。
【寝ている、か?】
彼女は呼吸が乱れないようにするだけで精一杯で、言葉を返すことも、体を動かすこともうまくできなかった。
体の中を渦巻いていた魔力も霧散してしまった。
フィリアがテオドバルトに返答するタイミングを逃し続けているうちに、彼は彼女が寝ているものと思ったらしい。
再度、彼女を起こさないように最新の注意を払ってゆっくりと近づいてくる。
(テオドバルト様・・・いったい何をしようとしているのかしら・・・)
彼はついにフィリアの真横まで来て、じっと彼女の様子を伺っているようだった。
たまに顔を近づけてみたり、また戻してみたり・・・先ほどからその繰り返しだ。
テオドバルトに見つめられているため、動くに動けなくなってしまったフィリアは、相変わらず寝たふりをしたままだった。
目は瞑ったままであるが、龍の呼吸音や、硬い鱗が動く音などで、彼の大体のしぐさはわかる。
彼女にしてみれば、何がしたいのかまったくわからない。
だんだん彼女は、今の状況がつらくなってきていた。
一方、彼のほうは、というと、彼も彼で困ってはいた。
無関心を装おうとしてはいたものの、やはり心配になって寝付けなかった。
仕方がないから彼女を安全な場所・・・自分の洞穴まで連れて行こうと思って出てきたが、目の前の少女は身動きひとつしない。
きっと慣れない山の中で疲れてぐっすり眠っているのだろう、彼はそう判断した。
しかし、寝ているからといってこのまま置いておくわけにもいかず、起こしてしまうのも忍びない。
何とかそっと運べないだろうか、と考えているのだが、なかなかいい案が浮かばない。
昼間に彼女を背に乗せたように、服を咥えて持ち上げてしまおうかとも思ったが、彼女はあいにく獣たちとは違う。
うまくしなければ起こしてしまうだろう、となかなか実行に切り出せない。
何か他に方法はないのだろうか。
起こさないように、音を立てないように、彼女の反対側へ回ってみる。
フィリアの寝顔が見えた。髪の色と同じ白銀のまつげが、ふと震える。
夢でも見ているのだろうか。なおさら起こせなくなってしまった。
フィリアの顔の前に置かれた手に目がいく。
人間には強い爪も鱗もない。
こんな体では誰かを傷つけることも、自らを守ることもできない。
どうしてこんな生き物が自然界に生きていられるのだろうか。
山の下の世界を知らない孤独な龍は、その答えがまったく見つからない。
けれど、と彼は考えた。
彼女の手は、きっと誰かの手を傷つけることなく包むことができるのだろう。
雌は、いずれ子供を産まなければならない。獣だって人間だってそれは変わらないだろう。
彼女はその手で、我が子を抱くのだろう。爪を立ててしまう心配もなく、自分の体温を子供に伝えて、子供の体温を感じるのだろう。
彼には母という存在がどのようなものであるのかはわからない。山の動物たちの親子関係を見てきただけだ。
こんな人間が母親になっても、子供を守れない可能性は高いと思う。
それでも、そのやわらかさとあたたかさは、・・・彼にはないその弱さは、尊いものなのかもしれない。
人間のような、フィリアのような姿があったなら、彼女を傷つけずに、静かに抱くことができるだろうか。
ひたり、フィリアの額に何か硬くて冷たいものが触れた。
(・・・まさか・・・テオドバルト様・・・?)
それはおそらく、龍の鱗の感触。
鼻先でも触れているのだろうか。
これは、目を開けるべきか否か。
さすがにもうそろそろ気がついてもいいんじゃないか、というかこれは気がついているという合図なのかもしれない。
しかし、やはりまたしても、彼女は目を開けるタイミングを失ってしまった。
額にあった感触が一瞬で消える。離れたのではない、消えた。
一瞬ふと風が通り、鱗は消えた。
龍は息をするように魔法を使うことができる。
ならば彼は、その魔法を使って姿ごと消したのか。
否、彼はそこにいる。呼吸の音が、動く鱗の音がまだするのだ。
だが、何か違和感を感じる。
その違和感の正体を、彼女は次の瞬間、直接見ることとなった。
「っ!??」
彼女の体が持ち上げられたのだ。
魔法ではなく、人の手で、横抱きにされたのだ。
「え・・・!?」
さすがに驚いて、フィリアは目を開けてしまった。
そして、月のような金色の目玉2つと出くわしてしまった。
【・・・起こしてしまったか。すまない。】
相変わらず、その声は直接頭に響く。
しかし、目の前にあるのは、精悍な人間の青年の顔。
顔を腕の中のフィリアに向けているため、不揃いの赤い髪が顔にかかっている。
その隙間から見える金の目は野性味を帯びている。
フィリアと目が合って、少し細められた気がした。
「テ、テオドバルト・・・様・・・?」
色合いや息遣いはあの龍の面影を残しているが、それにしても姿が変わりすぎていて頭がついていかない。
【なんだ?】
対してその青年は、さもなんでもないことのように彼女に答える。
そしてそのまま歩き始めた。
「あの、そのお姿は・・・?」
【人間を模してみたが・・・、うまくいかなかったな。起こしてしまった。】
起きていました。
なんてことはさすがに言えない。
「え・・っと、どちらに向かわれるのです?」
【洞穴だ。お前が寝ていたところよりはいいだろう。】
「あ、あの、わざわざ運んでもらわなくても、歩けますので・・・」
【目と鼻の先だ。下ろすほうが面倒だろう。】
「いえ、ですから、その・・・」
【まだなにかあるのか】
「・・・・・・」
フィリアは徐々に顔が熱くなっていった。
背中とひざ裏にあるテオドバルトの手に支えられ、横抱きにされている。
すぐ上にあるテオドバルトの顔はもう直視できない。
少なくとも若い人間の男性に見えるテオドバルトに、まるで子供のように抱き上げられているという事実。
とにかく、彼女は恥ずかしくて仕方がなかった。
「・・・なんでも、ないです・・・」
しかし、それを龍であるテオドバルトに伝えたところで、理解を得られない気がする。
彼女は顔に手を当てて、羞恥に耐えた。