7. 闇夜
いやいやいや、おかしいだろう。
いくらなんでも展開が早すぎる。
さっき会ったばかりで、「愛しい」だなんて単語が飛び出してくるのはありえない。
聞き間違いだ。聞き間違いだ。そうに決まっている。
彼の頭は混乱していた。
愛しいなんていう言葉を彼は初めて聞いた。
正確には、感じた、というべきか。
面の皮が厚かった(言葉通りの意味である)おかげで、その動揺は顔に出さずに済んでいる。
しかし、彼の中では未知の感情に出会った驚きとその意味の自問自答でぐちゃぐちゃになっていた。
落ち着け。落ち着こう。とりあえず、こんなに取り乱すことではない。
なぜならただの聞き間違いだ。なんてことない。
自分にそう言い聞かせつつも、彼は相手の言いたいことを拾うということに関しては、今まで間違えたことはなかった。
しかしその点に関してはあえて考えることをせず、とりあえず自分を落ち着けることを最優先させた。
ひとり葛藤しているうちに、フィリアの歌がすっと途切れる。
彼女は歌いきってすっきりとした顔をしていた。
歌に織り交ぜてあのような言葉を故意的に伝えたようには思えない。
彼はその顔を見て、すっと頭が冷めた。
やはり、気のせいだったようだな。
すっかり安心して、ふぅっと息を吐いた。
「っ・・・お耳汚し申し訳ありません・・・」
それをため息と勘違いしたのか、彼女の顔は強張った。
【いや、違う、綺麗な歌だった。お前の私を呼ぶ声も、ちゃんと聞こえていた。】
ワタワタとしながら、そう伝える。
そう、確かに彼女の歌に彼は動揺していたが、フィリアの呼ぶ名を龍はしっかり聞いていた。
「・・・本当ですか?」
いたずらっぽく、はにかんで笑った少女は、少し頬を赤らめた。
聞こえた声は、
【テオドバルト】
何度も、そう呼ばれた。
少し恥ずかしくなったようで、フィリアはふふ、と笑った。
「お気に召しました?」
【・・・テオドバルト・・・何か意味がある言葉なのか?】
その名に何か別のものを示す意味があるのなら、あの言葉がもし聞き間違いでなかったとして、その真意がわかるかと彼は考えた。
しかし、彼女は首を横に振った。
「詳しくは内緒です。でも、私の知る中で最も高貴な名を選んだつもりです。」
彼には高貴さというものがどういうものであるのか、あまり良くはわからなかったが、悪い気はしなかった。
そして、自分の動揺の原因となる、先程の『愛しい』という言葉は、もう深く考えないようにしようと心に決めた。
「テオドバルト様・・・そうお呼びしても構いませんか?」
【構わん。好きに呼ぶといい。】
なんだか背中がむず痒くなって、彼は羽を広げた。
夜も更けた。大概の動物はこの時間は眠りにつくはずだ。
おそらく人間もそうであろう。暗くなったらあたりは見えない、危険な場所へと変わっていく。
【お前は本当にここで眠る気なのか?】
「もうあたりも暗いですし、ここより他に行くところなどありません。」
本当に大丈夫なのだろうか、この娘・・・。
森の動物たちは群れで暮らすものが多い。巣もほとんどのものが持っている。
それは外敵から身を守るためである
夜ともなれば見境のない奴は多い。
肉食の動物たちは、人間さえも食べるのではないのか。
放っておくつもりではあるのだが、いかんせん心配ではある。
なんの関係のない人間とはいえ、今日はほとんど一日中一緒に時間を過ごしているのだ。
情が移った。不覚だった。
【この山には狼が多いぞ。】
「私よりも美味しい動物はたくさんいますでしょう?」
・・・・・・。
【この場所は空から見えやすい。】
「龍神様以外の何が空から私を狙ってくるのです?」
【夜目の聞く凶暴な鳥もいる。】
この娘は危うい。
夜の危険を分かっていない。
というか、何かがずれていないか?わざとか?
「・・・もしかして、心配してくださってます?」
ためらいがちに彼女はこちらの様子を伺う。
【・・・気のせいだ。せいぜい襲われないよう祈りながら休め。】
図星を突かれて動揺しそうになる。
それを隠すように会話を切り上げ、早足で巣穴に戻った。
洞穴の目の前ではあるが、他の動物の目に付きやすいところに彼女を置いたままでいいのか。
体を休める体勢になっても、頭の中を悶々と駆け巡る自分を責める言葉。
しかしだ、彼女には早く帰ってもらいたい。
そのためには、危険な山の夜も薬になるだろう・・・
自分で自分に言い聞かせて、無理やり目を瞑る。
自分には関係のないことだ・・・。
欠けた月が空を照らす。
そして、大地を照らす明かりはそれだけであった。
影に何かが潜んでいないかと、目を凝らしたところで何も見えやしない。
「・・・・・・そりゃあ、怖いですよね・・・。」
フィリアは、ぼそりとつぶやいた。
テオドバルトに言われ、火を消してしまった。
もう一度火を起こそうかと考えもしたが、人間がここに居るということを周囲に知らしめてしまうのではないかと躊躇していた。
それよりなにより、あの赤龍が火を消せと言ったのだ。消さないわけにはいかない。
彼女がテオドバルトとあの素っ頓狂な会話をしたことには理由がある。
「怖い」と一言でも言えば無理やりにでも山を下ろされるだろうということだ。
足を怪我した際、あの龍の背に乗せられたが、彼女はそのまま人の住む地まで連れて行かれるのではないかと危惧した。
しかし、あの状況でも無理矢理には自分を帰そうとはしなかった。
それがあの龍の優しさなのだろう。私が望むまでは帰さずにいてくれるような、そんな気がする。
先程もかなり心配してくれていた。
本人は必死で隠そうとしていたが、まともに話す相手なんて今までいなかったのか、目まで嘘をつくことはできない。
人には龍の表情など読みにくいものであるが、それでも彼はわかりやすいと思う。
一言でも怖いといえば、安全な場所へと送ってくれたのだろう。
毛布にくるまって、テオドバルトの、動揺を必死に隠す顔や無表情を装う様子を思い出してふっと少し笑う。
と、さっと強い風が通っていった。
彼女はビクッと体を強ばらせた。
しばらくして、何も起こらないことに安心して、緊張を解く。
結界魔法でも試してみようか・・・フィリアはそんなことを考え始めていた。
彼女は、教育も受けているので魔法は使える。
しかし、結界魔法はなかなか難しい。
それこそせっせと1刻ほどかけて陣を書き、詠唱に詠唱を重ねてようやくできる代物。
結界を作れば作ったでそれを維持するために集中力を解くことはできない。
つまり、眠ることは不可能。
それでも、このまま何もできず、あの龍神様に捧げられることなく野獣に食べられてしまうよりはましだ。
陣の書き方、詠唱の順番を頭の中で思い出す作業に入っていったが、途中でぴたりと思考が止まる。
最悪の展開が、訪れた、と彼女は戦慄した。
足音が聞こえる。パキ、と木の枝が折れた音だ。
すっと血の気が引いた。
彼女はまだ毛布の中だ。そこから飛び出る勇気もない。
彼女にできることは、震えを抑えて動かないこと。
眠っているふり・・・あわよくば死んでいるように見えてくれれば、なおよし。
咄嗟に相手の気をそらせるような簡単な魔法を思いつけるだけ思い出そうとするが、これがなかなか出てこない。
なんだっていい、一瞬のスキさえあれば逃げられるかもしれない。
ようやく一つ、一瞬だけまばゆい光を出す魔法を思い出し、それをいつでも出せるように集中を始める。
足音は、ゆっくりと、音を立てないように近づいてくる。
相手は大きな体を持っていることが気配でわかる。
背後からゆっくりと近づいてくる・・・。
緊張で耳のすぐ横で鼓動がなっているような錯覚を覚える。
今動いたら終わりだ、確実に相手の間合いに入っている・・・
できるだけ冷静に、彼女は切り札を出すタイミングを計っていた。