3. フィリア
真紅の龍は、アルステリア霊山の頂近くの洞穴に住んでいた。
朝日の光が洞穴の中に差し込み、その眩さに彼は毎日目を覚ます。
あぁ、今日も朝が訪れた、美しき空を眺めに行かねば・・・
そう寝起きの頭で考えて、目を開こうとしたときだ。
本来遮るものがないはずの朝日に、何かが影を作った。
それほど大きなものではないが、ちょうどその影が龍の顔にかかったために彼も気がついた。
洞穴の前に何か、誰かいる。
菜食主義者とは言え龍は龍。
森の動物たちは畏敬の念を自分に抱いているはず。
今までこのように、自分の寝込みを襲うような真似はしていない。
最も、実際襲われたところで硬い鱗に覆われた龍に普通の動物が何かできるわけでもない。
もし今目の前にいるものが自分に敵意を抱いているものであっても、そうそう簡単に仕留められるほど弱くない。
危機感はあまりなかったが、少々気味が悪いことは確かだ。
不審に思ってゆっくり目を開く。
朝日が眩しい。光を遮っているのが何なのかよくわからない。
ゆっくり目が慣れていき、自分の前に立つものの形だけはわかってきた。
しかし、逆光であるためにやはり良くはわからない。
・・・というよりも。
(・・・・・・見たことのない動物だ)
彼はその種の生物に初めて会ったのだ。
森の動物たちが噂する声を聞いたことはある。
多少の知識としては知っているが、見たことはなかった。
だから、瞬時にそれとは判断することができなかった。
「・・・・・・お目覚めになられましたか・・・?」
彼女が言葉を発するまでは。
(・・・・・・・・人間だ・・・・・・・・!!!)
まさかこんなところに人間が現れるとは毛ほども思っておらず、彼は硬直してしまった。
なぜこのような山奥に人間がいるのか。
なぜこんな朝早くに自分の目の前に立っているのか。
疑問符ばかり頭に浮かんで、言葉を発することも身じろぎすらできない。
彼女が一歩前に踏み出してやっと、我に帰った。
【近づくな、お前は誰だ、何用だ】
人の言葉は知らないが、意志を伝える術を彼は知っていた。
これも人が魔法と呼ぶものの一部なのだろう。
頭に直接響くような声に、彼女は少し驚いたような顔をして、すぐににっこり笑って礼をした。
「私は、クラデリシア国第三王女のフィリアと申します。このように朝早く、龍神様の御前に断りなく訪れたことをお詫び申し上げます。」
彼女は、できるだけ目の前の巨大な龍の気に触れないように、丁寧な言葉を選んだつもりであったが、彼の前にそれはあまり意味を持たなかった。
【・・・要件は何かと尋ねたぞ】
彼に人間の言葉はわからない。彼女が口に出して伝えたいことを汲み取る程度だ。
つまり彼には、彼女が王女とかいうもので、フィリアという名前で、起こしてすいません程度のことしか伝わらなかった。
しかも、王女という立場は、人間の国境だとか国の仕組みだとかを全く知らない彼にとっては、さっぱり意味がわからない。
彼が得られた確かな情報は『フィリア』という生き物だ、というだけであった。
「申し訳ございません、その、・・・どこから説明したらよいのか・・・」
【端的に話せ】
聞きなれない、言葉とやらでごちゃごちゃ説明されても面倒くさい。
そもそも人間の考えていることは全くわからんという噂を動物から聞いている。
回りくどいことを一から聞くよりは、要件をさっさと言ってもらった方が良い。
そして早々にお帰りいただいて、朝食を取りに行きたいところだ。
「端的・・・はい、分かりました。」
一瞬考えて、彼女はスッキリとした笑顔を彼に向ける。
「どうか私を、食べてください。」
【意味がわからん。説明しろ】
「た、端的にと言われたのでそう言ったんですけども・・・」
自ら捕食者に身を捧げる動物など、この森では見たことがない。
人間とはここまで意味のわからない動物なのか、と怪訝な目を彼女に向ける。
彼女は、というと、やはりどこから説明すればいいのか悩んでいるようで、右手を口元に当てて、目を伏せていた。
相変わらず陽の光を背に受けており、腰ほどまである長い髪がキラキラと白銀に輝いている。
その姿はアルステリアの滝を彼に連想させ、見惚れさせた。
山の中を歩きやすいようにか、生成色の動きやすい麻の服を着ていた。
それでも、その服の所々に凝った刺繍があり、彼女の頭には光を照り返す糸で編みこまれた頭飾りが王族の証のように輝いていた。
よくよく目を凝らすと、星の力を多く溜め込んでいる。森の動物たちとはおそらく比較にならないだろう。
なるほど、見るものが見れば美味しそうに見えないこともない・・・。
しかし、いくらコレを食べれば体に力がみなぎるといっても、まずいものは食べたくないものである。
興味本位で発言の理由を聞いてしまったが、聞いたところで自分は彼女を食べることはできない。
「・・・我が国は、龍神様のご加護のおかげで、恵みを多く受けております。一昨年の実りはそれは素晴らしきもので、国中が貴方様に感謝を捧げておりました。」
(・・・龍神のご加護・・・?なんのことだ・・・?)
彼は神になったこともないし、人間を加護したこともない。
結局話を聞いてもよくわからないような予感を感じつつ、しかし話の腰を折るのは良くないだろうと黙って聞いていた。
「しかし、去年から、我が国の一部の地域だけ、作物が実らなくなってしまったのです。私どもも調査をしているのですが、原因は不明で・・・。
他の地域には変わりはありません。まるでその土地にだけ恨みがあるかのように、何も実らず・・・。
今年に入って、その近隣の地域にも不作の波が訪れております。民たちは我が国の恵が尽きてしまうのではないかと不安に思っております。
そのような状況を、王族として放置する訳にはいきません。
故に、私が生贄として龍神様のお怒りを沈めようと思い、ここまで参ったのです。」
【・・・話は終わりか】
「・・・はい。」
さて、どこから誤解をといたものか。
人間の住む地域の作物など、知ったことではない。
自分は何も関与していないから、感謝されることも許しを請われることも必要ない。
彼はこの山から降りた事はないのだ。
空の散歩はすることはあっても、地に脚を付けることはない。
彼にとってはアルステリアの山が世界のほとんどであった。
【私は、お前が思うような龍神ではないぞ。】
彼女の言葉の端々から、自分に願えばなんでも叶えてくれるような、神にすがるような思いを汲み取った。
【私はお前たち人間に恵みを与えているわけでも、それを奪っているわけでもない。この山で独り静かに暮らしているだけだ。】
彼女の話しぶりから、驚く素振りがあるかと彼は予想していた。
しかし、彼女はその緑色の瞳をまっすぐにこちらに向けて真剣な表情で彼の話を聞いていた。
「・・・それでも、貴方様のそのお力で、土地の魔力を回復させることはできますでしょう?」
【・・・・・・】
この女。
つまり自分が神だろうと悪魔だろうと、土地を回復させる力さえ持っていれば良いということか。
どちらにせよ、その対価として、自分を生贄に捧げるつもりだったのだろう。
「私は、クラデリシアの王族として、魔法教育も受けております。人並み以上には魔力を保持していると自負しております。身も清らかなままで、痩せているわけでもありません。
龍神様は魔力を糧に生きると聞きました。どうか私を飲み込み、願いを聞き入れてはいただけませぬでしょうか。」
なるほど、普通の龍であるならばこのような娘はご馳走と言えるだろう・・・が。
【断る】
自分は違う。
生きた動物を丸呑みなど、想像しただけで気分が悪くなる。
【帰れ。私に頼る前に己のできることをやれ。】
ポカン、と口を開けて、見上げてくる娘。
まさか断られるとは思わなかったのか。その顔にはまだ多少あどけなさが残る。
諦めるか、と思ったその瞬間、その瞳にまたしても決意の炎が宿る。
「・・・分かりましたわ。精一杯、やらせていただきます。」
これでやっと洞穴の入口を塞ぐ女が消えるか、と安堵した瞬間、
「私を食べてもらえるまで、説得を続けますので、よろしくお願いいたします。」
今度はこちらが唖然とする番であった。
こうしてそれまでの彼の日常は、音を立てて崩れ去っていった。