21. 伝えられなかった歌
ミシェル視点。
19話のちょっと前のお話です。
「ねぇ、キリト兄様。 これからあの子・・・フィリアをどうするつもりなの?」
雨が窓を叩く音が室内に響く。
空は暗く、今が昼過ぎであるとは少々信じがたい。
第二王子の執務室に備えられたソファにゆったりと腰かけ、私は訊ねた。
黙々と書類をさばきながら、黒い髪の兄は答える。
「どうする、もないだろう。 まだ15歳の王女に与えられる役割なんて、そう大層なものじゃない」
書面の文字を目で追い、私には一瞥もくれなかった。
訊ねておきながら、私も理解していた。
15歳の王女。
自分がそのくらいの年齢だったころは、作法や教養を身に着け、身を美しく着飾るくらいのことしかしていない。
政治に参加するのは女の役割ではないし、私はさして興味もなかった。
「そうね。 王族の女の役割なんて、血を繋ぐことくらいだわ」
他国と、貴族と、結びつきをつくり、子を成すこと。
よその国でもきっとほとんど同じだろう。
この国が王女に求めることは、それだけだ。
キリト兄様はちらりとこちらを見てまたすぐに書類に視線を戻すが、せわしなく動いていた目は、書類の一点を見つめて止まっていた。
「・・・そういうことだ」
ため息も同時に吐き出すように、呟いた。
「あの子ももうしばらくしたら16歳・・・縁談なんて、実は腐るほど舞い込んでいるんでしょう?」
「・・・・・・」
彼の場合、答えないことは肯定に等しい。
そう、私は知っていた。
キリト兄様は、フィリアに宛てられた縁談をことごとく握りつぶしているのだ。
それはフィリア当人は知らず、また、国王陛下も黙認していることである。
しかし、彼はすべての縁談を蹴るような馬鹿な王子ではない。
きっと周辺の国のうち、結びつきを強めることが重要になる国や、大きな貴族からの申し出は手元に留めてあるのだろう。
彼のことだ、じっくり吟味して、最後に残ったカードからフィリアに選ばせるつもりなのだ。
「私の予想だと、隣国・・・西のトラディニア王国、南東のミュートネット帝国が縁談を申し出ているのではないかしら。 国内では、クロント公爵家、アクライマ公爵家、ブリアーナ侯爵家あたりかしら」
「・・・あながち、間違ってはいない」
キリト兄様はそれまで手元にあった書類をまとめ、窓辺に控えていたレンに手渡した。
何か小声で指示していたが、あまりよく聞き取れなかったし、そう気にすることでもないだろう。
「どの国も、夫候補として名を上げているのはそこそこ歳のいったオジサマでしょう? フィリアもかわいそうに・・・」
「そこは問題じゃないだろう、国全体に影響することなのだから」
霊山を抱くこのクラデリシア国には、5つの国と国境を接している。
そのうち一つは西のトラディニア王国。
元々広大な土地を持つ国であるが、砂漠や大きな湖が領土に含まれているため、実際に人が住んでいる土地は領地の半分ほどだ。
農業と漁業で生きている国であり、素朴な国という印象がある。
我が国とは長らく友好関係を築いており、第一王子であるディーゼム兄様が留学に行っていたこともある。
もう一つ、話に上がったミュートネット帝国は、近年領土を拡張し続けている国である。
魔法を捨て、機械を発展させてきた軍事国家。
クラデリシアに攻めてきたことはないが、これからもそうであるとは限らない。
一応国交もあり、それなりに仲良くしてはいるが、平和なクラデリシアからすると軍事国家は得体がしれないという感情が強い。
フィリアが幼少期を過ごしたアルカの地は、このミュートネット帝国との国境沿いにある。
アルカの現状を打開するためには、ミュートネット帝国からの援助が最も効果的だろう。
「あの子もよくわかっているだろう、王族は国のために尽くすべき存在だ。 いずれ決断は避けられない」
言いながら、キリト兄様は私と向かい合ってソファに座りこんだ。
「お前の言うように、フィリアが王族として意味を成したいと思っているならば・・・、受け入れなければならない。 きっと役割の中に生きるようになれば、今回のように迷走することもなくなるだろう」
「・・・そうね・・・。 そうかも、しれない」
そう肯きつつも、何か胸に突っかかる疑念があった。
彼女を突き動かしたのは、それだけではないような気もする。
本当に、ただ自分が王女として役に立ちたいがためだけに、あの険しい山を登ったのか。
城を抜け出す算段ができたのならば、アルステリアではなくアルカに向かうこともできたはず。
直接その足で、彼女の血族の無事を確かめ、食糧を配布することだってできたはずなのだ。
なぜ、龍に縋ったのか。
なぜ、龍に命を捧げようとしたのか。
その答えは、王族としての役割という言葉だけでは説明できない気がした。
ふと、不安に駆られる。
「ねえ、キリト兄様」
「・・・なんだ」
レンが一言断りを入れ、キリトの前にティーカップを置く。
彼は執事としての役割を受け入れ、私たちの話を黙って聞いている。
会話の邪魔をしないように、空気のように立っている。
「もしも・・・、もしもフィリアが出会った龍が、"私たち"のことに気づいていたら・・・、あの龍はどうするのかしら」
目の前の碧色の瞳が、すっと細められた。 窓際に控えるレンの表情も、ピクリと動いた気がする。
「・・・そうであったなら、おそらくレンもフィリアも、ここに戻っては来れなかっただろう?」
「・・・そうね、そうだけども・・・」
「何を心配している?」
少し冷えてきた指先を温めようと、自分の前に用意されたティーカップを手に取る。
紅茶の香りが、雨の日の憂鬱を和らげた気がした。
ほんの少し、だけれども。
「何か、胸騒ぎがするの。 フィリアと話をしてから、ずっと・・・」
あの日から、何かもやもやと心に霧がかかったようで、それは日に日に大きくなっていたのだ。
何か、何か気になる。
そう、気になっていることがあるのだ。
「・・・兄様。 フィリアの歌、聴いたことある?」
あの日、彼女が私に歌ってくれた歌。
不思議な旋律、聞き取れない言葉、そして・・・妙に魔力を帯びた歌声。
あれを聴いてからなのだ。
「あぁ・・・、幼い頃はよく歌ってくれてたな」
「その歌の中に、兄様の知らない歌はあった?」
「いや、よくある民謡ばかりだったな。 誰でも知っているような・・・」
「私、フィリアに全く知らない歌を贈られたのよ。 感謝の歌だって・・・」
すうっと息を吸い、耳に残っていた旋律を音に変える。
普段自分が使っている言葉とは違うので、曲中の言葉まではうまく紡げなかった。
冒頭の一節を歌い、兄の表情を確かめる。
「・・・聞いたこと、ある?」
彼は面食らった表情で、私の顔を見ていた。
「いや・・・知らない歌だ。 それをフィリアが歌っていたのか?」
「えぇ。 いったいどこで、こんな歌を覚えたのか・・・気になって」
彼にしては珍しい表情だ。
めったに動揺を顔に表さないのに・・・、本当にフィリアのことになると人が変わるようだ。
胸元のペンダントをいじりながら、目線を落として考え込んでいる。
「・・・・・・その歌は」
おもむろに、レンが会話に入ってきた。
これもまたとても珍しいことである。
視線をキリト兄様からレンに移して・・・また、驚いた。
彼は、執事としての顔をやめていた。
その赤銅の瞳からは彼の本性がちらついていた。
私は、息をのんだ。
「とても、とても懐かしい歌です。 この国ができる前に使われていた言葉で、感謝の気持ちを織り上げた歌・・・、一度だけ、私も聴いたことがあります。」
遠い昔を追想するように、彼は深く息をついた。
クラデリシアは、国として成立してから七百年ほどが経っている。
それより前に使われていた言葉を、フィリアはどこで覚えたのか。
深まる疑問に首を傾げたところ、レンがその答えを返した。
「大方、フィリア様のおじい様とやらが教えたのでしょう。 とても意味深い歌ですから、旋律を知っているものは限られています」
「意味深い歌?」
「・・・・・・見えてきたぞ、レンの言いたいことが」
キリト兄様がレンを鋭く睨むと、レンはそれを微笑で受け止める。
赤みを帯びたその眼は、兄とは対照的で、とても物悲しい光を湛えていた。
「何よ、私一人おいて、二人仲良く視線で会話しちゃって・・・」
置いてけぼりにされた気分だった。
彼らは昔から一緒にいるため、今のように私にわからないように会話を進めることがある。
なんなのだろうか彼らは。 ひょっとして言葉で言えないような関係にでもあるのだろうか、なんか年頃の女性が喜びそうなやつ。
と、変な妄想をしていても始まらないので、私も自分で考えてみる。
フィリアの祖父が彼女に伝えた、レンが知っているような古代の言葉を使った歌。
・・・大昔の、・・・意味深い、・・・レンと、フィリアの祖父・・・
「・・・そうか」
兄にだいぶ遅れて、私もその真相にたどり着く。
否、真相というほどはっきりとしたものではないが、なぜその歌によって胸騒ぎを起こされたのかという答えには足りる結論だった。
「あの歌は、大昔にある女性が龍族に贈ったもの。 人間から龍族への感謝を歌う歌。 当時その歌を聴いた龍たちは、歌に込められたその女性の心の美しさに感動し、その旋律を胸に刻み込みました。 その歌を忘れぬ限り、人を助けようと・・・たとえ世代を超えても」
このクラデリシア国が知らない伝承だ。
国が成り立つ前に、人間と龍が交流した際に、生まれた歌。
かつてその歌を胸に刻み込んだ龍が、アルステリアから姿を消した龍が、まだその歌を覚えているのならば。
私がその歌を聴いて、胸騒ぎを覚えたのも頷ける。
そう、目の前にいる、赤い瞳と黒い鱗を隠す龍が、その血肉に旋律の意味を刻み込み、後世に伝えているのだから。
「そういうことね・・・。 その女性と彼女が歌った歌が、龍が人間を救うという不文律を作ったのね」
人間の姿をして静かに佇む、かつて"レイヴン"と呼ばれたこの男のように。
年老いた姿ではないくせに、どうにも胡散臭さを漂わせる男・・・今では"レン"と名乗る執事は、にっこりと笑う。
「そういうことですね」
真実と伝承は、往々にして相違があるものだ。
この国に伝わる伝説は、事実がねじ曲がったものだ。
龍は、あの山に棲む一頭だけではない。
人間の世界に紛れ込み、今も生きている。
それを知っているのは、龍族と、クラデリシアの王族のみ。
アルステリアの赤い龍は、龍族に置いていかれた、龍として最後の一頭なのだ。
「・・・やれやれ、隠居して久しく・・・、もう私が表舞台に出ることはないと思っていたんですけどね。 あの龍を置いて行ってしまったのは、結果的には同じ龍族の責任でもある・・・。
もしも、彼が君たちに害成す存在になろうとしたその時は、私が責任を持って止めますよ・・・」
龍で在りながら、人間の王子の執事を務める変わり者は、そういって力なく笑った。
本当に、彼は笑顔ばかりだ。
目は全然笑っていないくせに。
「ですから、あなたの心配は無用ですよミシェル姫」
「・・・あら、それはどうもありがとうございます」
礼を言ってみたはいいものの、実際彼が出てくるような事態にならないことを願うばかりだ。
そうなってしまった時点で、国の中が大混乱となるのは目に見えている。
ただただ、あの若き龍が何も知らぬまま、龍としてアルステリアにいてくれることを祈る。
孤独な龍が、仲間に捨てられたことを知らぬままであることを。
真実を知って、嘆き悲しむことや、怒り狂うことがないように。
そんな願いは儚く、直後に部屋に響いた咆哮によってかき消されてしまったのだった。




