19. 疾走
霊山アルステリアに住む、赤き龍神がクラデリシア城に舞い降りた。
その事実は、クラデリシア国・・・特に城下町にとんでもない衝撃を与えた。
龍が城へ飛ぶ姿を見た民衆は、何が起こったのかと混乱し、あるものは狂喜に打ち震え、あるものは恐怖を叫んだ。
そして、その龍が舞い降りた城内は、さらなる大混乱であった。
城内に突如として響いた龍の悲鳴。
かつてない強い声に、何か起こるのではないかと人々は国王やそれに連なる者たちに指示を仰いだ。
指導者の立場に位置する者たちは、『とにかく落ち着き、すぐに避難や身を守ることができるように備えろ』と城内に呼びかけた。
赤い龍が城へたどり着く少し前のこと。
龍の声が響いたその時、第二王子執務室には三人の人間がいた。
部屋の主である第二王子キリト=カルディス=クラデリシア、その執事兼側近とも言えるレン=ティアード、キリトの異母妹である第一王女ミシェル=トリア=クラデリシア。
三人は龍の声を聞くや否や、顔を見合わせた。
「・・・何、かしら。 こんな叫び声初めてだわ」
腹部に手を当て、我が子を気遣いながらミシェルは呟く。
「龍神に何かあったのだろうか・・・? 怪我か何か、身体を傷つけた・・・、いや、龍の鱗は強固だ、そんなことはほとんどありえない」
キリトは大きな硝子窓から、アルステリアを窺がう。
雨に濡れた硝子にぼやけた高き山が見えるだけであった。
「・・・レン、どう思う?」
「・・・・・・。」
キリトは鋭い眼光を傍に控えるレンへと向ける。
彼は赤銅の瞳を細め、その眼差しを受ける。
ミシェルも、やや不安げな顔でレンを見つめる。
レン=ティアードこそ、この場にいるものの中で最も龍の声を分析できるであろう男であった。
「・・・悲痛な叫び、です。 身体的な痛みというより、精神的な痛みの声です。」
レンはそこで言葉を切り、一度息を吐き出した。
「フィリア様を、求める声・・・でしょうね」
「! レン、それは・・・」
「しっ」
レンの言葉に驚いたキリトの言葉を遮り、レンは人差し指を唇の前へ当てる。
そのまま視線で執務室の扉の向こうを示した。
「今は、城内の混乱を収める方が先です」
バタバタと誰かが扉の前を走る音が聞こえた。
城の者たちが、混乱しているのだろう。
「・・・そうだな。 ミシェル、国王陛下の元に行こう。 とにかく王からの指示を民に伝えなければならない。」
「そうね。 きっと皆集まってるでしょうし・・・」
そう言って、ミシェルはふと気づく。
「ねぇ、ちょっと待って。 フィリアは、今どうしているのかしら?」
「あいつは今謹慎中で・・・」
「じゃなくて、今! あの声を聞いて・・・大人しくしているような子だった!? 私ちょっとあの子を見てくる!」
彼女だって、龍の叫び声が聞こえているはずだ。
そしてその叫びにどのような感情が含まれているのかも、きっと感じ取っている。
フィリアはきっとじっとしていられない。 また、城を抜け出そうとするかもしれない。
「待て、俺が行く! 身重のお前よりは俺の方がいいだろう」
キリトは執務室を出ようとしたミシェルを引き留める。
「フィリアを連れて俺も国王陛下のところに行く。 お前は先に行っていろ。 レン、城内の者にとにかく落ち着き指示を待つように伝えてくれ」
早口で二人にそう言い、キリトは部屋から飛び出した。
キリトの執務室からフィリアの私室までは、そこまで遠いわけではないが、走っても数分はかかる。
走りながら舌打ちをする。 こんなことだったら自分の執務室の隣にでも部屋の空きを作って、そこに彼女を住まわせればよかった。
不測の事態の中、一般人である侍女たちが彼女を抑えていられるかどうかは怪しい。
侍女たちに見張らせるだけでなく、屈強な兵士でもつけておけばよかったのだ。
後悔ばかりがキリトの頭を巡る。
そして、彼女の部屋に着き、焦る侍女たちを見て彼は絶望するのだ。
フィリアは部屋にいなかった。
いきなり走り去ってしまったのだと、侍女は頭を深く下げて謝罪する。
止められなかった。
走って追いかけた侍女も、途中廊下の角を曲がった時に見失ってしまったのだ。
罵倒や叱責を待つ侍女たちに声をかけることもなく、キリトは身を翻し、走る。
「どこだ・・・、どこに行った・・・!?」
より山が見えるところか?
街への抜け道か?
とにかく当てもないままに城内を走り回っていた。
血相を変えて走る第二王子に、周りの者は唖然とする。
呆然とその様を見送る者ばかりだった。
しかし、ある廊下に差し掛かると、人々の様子が違っていた。
何人かが、ある方向を向いて、驚いたように目を瞬かせている。
走りくるキリトに気付くと、さらに目を丸くして、――何か口を開こうとするのだ。
もしや、何か彼女の手がかりでも知っているのかと、キリトは減速し、使用人の一人と目を合わせる。
「お前たち、フィリアを見なかったか?」
言葉を発しながら、足を止める。
「は、はい! まさに今しがた、この道を向こうへと通りぬけていきました!」
慌てて礼の姿勢をとりながら、使用人の一人が発言する。
彼らが見ていた方向、廊下の伸びる先は東塔と王城図書室がある。
こんな時に図書室に行くとは思えない、彼女の向かった先は東塔だろう。
確かにあの塔からはアルステリアがよく見渡せる。
雨に濡れた硝子窓から見にくい霊山の様子を窺がおうとでも思ったのか。
「・・・すまない、助かった。 お前たちも万が一の場合に備えて避難の準備をしてくれ。 くれぐれも落ち着いて、慌てるなよ」
敬礼をする使用人たちにそう言いつつ、東塔へと足を速めようとしたその時。
城内に、轟音が響いた。
何か重たいものが、城に勢いよくぶつかった音らしい。
その衝撃に、城の中まで揺れた。
「っ!??」
「な、なんだ!?」
「隣国の襲撃か!??」
「龍神様のお怒りが他国にまで影響したのか!?」
さすがのキリトも取り乱しかけたが、先ほどまで話していた使用人たちが慌てふためく姿を見て、即座に冷静さを取り戻す。
「落ち着け!! これは隣国の襲撃などではない! 早まった行動を起こすな!!!」
普段物静かなキリトが張り上げた大声に、騒いでいたものは一瞬で静かになった。
驚き、そして恐怖に染まった目がキリトを、縋るように見つめる。
「何らかの衝撃があったことは確かだ。 城の東側は最悪の場合崩れる可能性もあるだろう。 お前たち、とにかく人命を優先して、このあたりにいる者たちを広間まで避難させるんだ!」
すぐにでもこの場から逃げ出したいだろう使用人たちは、キリトの強い光を放つ緑の目に射抜かれ、息を飲んだ。
反論などできず、言われるままに頷くしかなかった。
まだ若いとはいえ、キリトは確かに王族であり、それ相応の威厳を身にまとい始めている。
そのことを肌で感じ、その場にいた使用人たちは確かな頼もしさを彼に覚えるのであった。
わずかばかりの平静さを取り戻した使用人たちは、散り散りになり、周辺にいる者たちに王子の意思を伝えるために走っていった。
そして、キリトは彼らとは反対の方向へと走り始める。
轟音の原因となったであろう東塔へ続く廊下。
その廊下を抜け、螺旋階段へとたどり着き、足を止めた。
目の前には、崩れた岩壁が積み上がっていた。
壁の破片は階段にもいくつか直撃したらしく、手すりの数カ所が曲がっていることが見て取れる。
普段薄暗い螺旋階段には、夕日の光が差し込み、かつて見たことのない光景を生み出していた。
東塔が、現実に崩壊しかかっているという事実を目の当たりにし、一瞬思考が停止したキリトは、光の元を辿るように上を見上げた。
そして、東塔の屋上に、何か、巨大な赤いモノを見つけ、戦慄する。
――龍。
この国が、神として崇め、恐れている存在。
我が国に奇跡をもたらした者の血族。
フィリアと接触しながらも、彼女を生贄として受け入れなかった存在。
複雑な感情が胸を巡る。
なぜ、山を離れ人間の棲む地までやってきたのか。
なぜ、フィリアを求め叫んだのか。
何のために?
やはりフィリアを生贄として・・・喰らうつもりなのか。
予測できる最悪の結果を頭から追い出すように、首を振る。
そしてそのまま、女性のものと思しき靴を見つけた。
見覚えがある。
・・・フィリアの、靴だ。
唇を噛む。
「そんなこと、させてたまるか・・・!」
がれきを越え、階段を上り始める。
上へ上へと行くほどに崩壊はひどくなり、足場が悪くなる。
転がる破片をよけ、抜けた階段を飛び越し、屋上を目指す。
「・・・っ」
屋上までもうすぐそこ、というところで、壁ごと階段が抜けた部分にたどり着く。
左手で伝っていた壁はそこで終わり、手を伸ばしても届かない先からまたその姿を現している。
思わず、抜けた階段から下を見下ろす。
今まで夢中で登ってきた階段が、渦巻いている。
上から光が差し込むおかげで、そこに瓦礫が山積みになっていることがわかる。
落ちれば、ひとたまりもないだろう。
そろり、と足を半歩前へ出し、ゆっくりと体重を移動させる。
何とかその場は崩れないことを確認し、息をつく。
しばらく躊躇ったが、キリトは意を決し穴を飛び越えた。
螺旋に続く階段なのだ、上に同じく壁も階段もない空間は数か所ある。
しかし、戸惑う時間すら惜しい。
その後彼は、足を止めることなく抜けた階段を飛び越えていった。
屋上へ、最後の数段を駆け上がる。
まぶしい夕の光に一瞬目がくらむ。
それでも目を閉じず、目立つ白銀を探す。
そして彼は、一瞬息をするのを忘れた。
長い白銀の髪を風にたなびかせ、少女は赤き龍に寄り添うように立っていた。
赤く陽を照り返す、硬質な鱗に覆われた龍は、その鋭い金の目を少女から、キリトへと向ける。
その眼はすぅっと細められ、何かを問いかけるようで――キリトは心臓をつかまれたかのような気分になった。
今すぐに膝をつき、降伏したいような。
今すぐ踵を返し、逃げ出してしまいたいような。
言い知れぬ不安感、恐怖感を覚える。
目の前にいる龍が、瞬きをする間に、この命をどうとでもできてしまうのではないかと、自分の死を握られるような恐ろしさ。
それを、キリトはこのときはじめて知った。
冷や汗が背中を伝う。
身動きもできず、言葉を紡ぐこともできない。
そうしているうちに、もう一対の――己によく似た色を放つ瞳がこちらに向けられ、驚き見開かれる。
はっと我に帰り、キリトは自らがこの場に来た意味を思い出す。
ぐっと恐怖を飲み込み、必死の思いで、彼は叫んだ。
「――っフィリア!!!!!」




