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17. 名を呼ぶ声

その日は、朝から雨が降っていた。


白を基調とした広い部屋の中に、雨の音が静かに響く。



「それでは前回の復習から・・・」

長い茶色の髪を丁寧に頭の上で結い上げ、深緑の落ち着いたデザインのドレスを纏った壮年の女性が、手に持っている書物を開いた。

彼女の側で、丁寧に白く塗られた細やかな装飾の机に向かうフィリアが、ペンを片手に似たような書物の頁をめくった。





フィリアが謹慎処分を言い渡されてから、こうして毎日決まった教師が彼女の部屋を訪れる。

本来王族であるならば、幼少から学ぶであろう政治学、経済学、言語や言葉遣い、歴史などを教えに来るのだ。

もちろん彼女が城へとやってきた5年前からこれらの勉強はしてきたのだが、彼女はそれまで以上に勉強に身を投じるようになっていた。


「第5代目国王が、優れたカリスマ性を持ち、土地制度の改革をしたという話は覚えてますね。これにより、農民の負担が軽減され、作物が安定して採れるようになりました。

このころから、国主催の収穫祭が行われるようになったといいます。今でも秋に行われている、大事な祭事ですね」


この日教えに来た教師は、クラデリシア国史を担当している。

落ち着いた声色で、知識を言葉に変えていく。


「このころ、周辺各国では小競り合いのような戦争が勃発していました。北方の国々で不作が続き、南下してきた民族の一部が略奪行為を行ったことが事の発端と言われています。

幸いにもクラデリシア国に龍神様が住んでいるという伝承は他国にも広まっておりましたので、我が国は戦渦に巻き込まれることはほとんどありませんでした。

この三百年ほど前に、龍神様の怒りを買ったためにグラノ国が滅びたということも記憶に新しいですしね。

クラデリシアの民は、龍神様の存在によって国が守られているという自覚がありました。そのため、収穫祭に合わせて龍神様を祀るようになりました。

これが、龍神信仰の始まりといわれています」


"龍"という言葉に、一瞬フィリアのペンを走らせる手が止まったが、すぐに動き出した。

教師の言った言葉を、書物に目を走らせながら紙に書いていく。



龍は長寿と言われている。

それならば、あの赤い龍もこの頃には生まれていたのだろうか。

フィリアはその考えをすぐに打ち消した。

なぜなら、彼はこの後に人間の歴史に名を残す龍たちを知らない。

それならば、彼が生まれたのはその伝説の後だろう。思った以上に年若い龍なのかもしれない。




「・・・フィリア様、先に進んでもよろしいでしょうか?」

いつの間にか、手を止めて物思いに耽ってしまっていたらしい。

「あっ・・・、すみません」


集中しなければ、とフィリアは自分を律する。

王女として確かに認められるようにならなければ、自分は誰の役にも立てない。

あの龍に顔向けなどできない。


会いたいからこそ、今は彼のことを考えるべきではないのだ。




「それでは次の頁をめくってください。・・・さて、第5代国王の治世は、戦に巻き込まれることもなく、収穫にも恵まれますが、第6代に代替わり後しばらくしてそうもいかなくなります。

この国を大きな災害が襲い始めたのです。最初は小さな地震が数回・・・段々とその間隔は短くなり、頻繁に地震が起こるようになりました。

そしてある日、とても大きな地震が発生しました。建物は倒壊し、山の土砂が崩れ落ち・・・多くの人が亡くなりました。

その後も小さな地震は数を減らすことがなく、人々は心底不安がりました。

国を離れていく人も多く、孤児や家を失くした人が路上を占めるようになりました。

一気に治安が悪くなり、当時の国王もずいぶん頭を悩ませました。

国からの援助だけでは足りませんでした。友好国からも援助を受けていましたが、それでも十分ではありませんでした」


フィリアは開かれた書物に描かれた絵を手で触れた。

半壊した建物に背を預け、虚ろな目で地面を見つめる餓死寸前の少年の絵だ。


アルカの地での出来事が、フィリアの頭をよぎった。

思わず歯を食いしばる。


おじい様は無事だろうか。優しくしてくれた村のおばさんたち、羊飼いのお兄さん・・・

まさかこんな風にはなっていないと信じたいが、不安が頭を支配する。




あれ以来、アルカの地で何か事件があったという話をフィリアは耳にしていない。

そもそも謹慎中で、接触できる人間は限られている。

もし、何かあったとしても、おそらくキリトあたりがフィリアにまで伝わらないように根回しをしているのだろう。



『アルカについては、俺にすべてを任せてくれないか。俺もあの地を故郷だと思っている・・・最善を尽くすよ。』

キリトはフィリアにそう約束した。

キリトを信用していないわけではない。彼が優秀であることもフィリアは知っている。

それでも、自分が何もできないことに歯がゆさと苛立ちを感じてしまうのだ。



(・・・きっと、お兄様が十分に食糧がいきわたる様に指揮しているはず。大丈夫よ、フィリア・・・)

自分に言い聞かせ、教師の話に耳を傾ける。


「――そして、様々な政策を行った末に、国王は決意しました。

大地の揺らぎが止まらぬ以上、また被害があるかもしれない、それならば元々の原因をなんとかすべきではないのか、と。

その頃には龍神信仰が深く広まっており、国王自身も熱心な信者でした。

国を挙げて龍神様に祈りを捧げる祭事を催すこともありましたが、ついに国王はその身一つでアルステリア山へ向かうことに決めました。

国を代表して神に祈りを捧げようと、険しい山を登り、黒龍レイヴン様にお会いしたのです」



なんとなく、教師の視線が痛かった。

この伝承の通り、身を捧げようとフィリアは山を登ったのだ。

決して褒められた行為ではない。咎めるような視線が怖くて、ひたすらペンを動かした。




「・・・レイヴン様は、我が国の大地の揺らぎを止めてみせる代わりに、国王の娘を捧げるように取引を持ちかけました。

国王は悩んだ末に娘を龍神様に差し出しました。

レイヴン様はクラデリシアに降り立ち、一度強く咆哮したと言われています。

その声は空を震わせ、大地を揺るがし、大地震の再来かと人々に思わせましたが、建物も山も崩れることなく、その後ピタリと地震が収まったとされています。

その後国王は2代に渡り災害に遭った人たちを援助し、ようやく治安が回復したと言われています」




そこまで話すと、教師はぱたりと書物を閉じた。


「・・・少し、休憩いたしましょう。しばらくしたら戻って参りますわ」

彼女はそう言い、一礼をして部屋から出た。


今日やった範囲は、フィリアの精神的に辛いものだと判断されたのだろうか。

いつもより早くに休憩時間になってしまった。

実際、嫌でも色々なことを考えさせられる。


折角この城で頑張ろうと前向きになれたのに、また不安になってしまう。

ずいぶんと不安定な精神状態だな、とフィリアは自嘲した。



椅子に座ったまま、背伸びをする。

ずいぶんと気を張っていたようで、身体が固まっていたことがわかる。

ふぅっと息をついたところで、ノックの音が聞こえた。



「失礼いたします」

侍女がワゴンを押しながら部屋に入ってきた。


「お茶をお持ちいたしました」

「・・・ありがとう」

ワゴンの上には、花の絵が描かれたティーセットと、クッキーが並べられていた。

ふわりと部屋に漂う紅茶の香りに緊張が解れる。







「・・・雨、止まないのかしら」

フィリアがアルステリアから城に戻ってきて、今日が初めての雨だった。

「夕方頃には、止むそうです。占い師様が、そう仰っていたそうですよ」

侍女がフィリアの問いかけに答える。

占い師は、城に勤めている気候や地脈を読むのに長けた者たちだ。

また、そのほとんどが魔力も平均以上に保持しており、魔術師としての側面も持っている。

未来予知とまでは行かないが、明日明後日の天気予報や、収穫に関する予測は得意としている。

その彼らが雨が止むと言うのならば、いずれ止むのだろう。



フィリアは部屋の窓から外を眺めた。

晴れた日であれば、あの龍がいる霊山が綺麗に見える。

ここ数日、今のような休憩時間にアルステリアに向かって歌うことが日課になっていた。




きっと彼に届くことはない。

それでも、忘れないように。

自分の決意を、刻み込むように。

必ずもう一度会いに行くのだと、自分を勇気づけるために。





――ふいに、山の方から龍の鳴き声が聞こえた気がした。

今日は雨に煙って山の輪郭がぼんやりとしか見えない。


あの、真紅の龍の声だろうか。

はっきりとは聞こえなかったが、低く身を震わすような響きだった。



あの山には、龍は一頭しかいない。

先ほどの響きが気のせいでなければ、そして確かに龍の声であるならば。

それは、彼――テオドバルトと自分が名づけた龍しかいない。


あぁ、離れていても、こうして存在を感じられるならば・・・きっと、もっと頑張れる。





無意識に、歌を口ずさんでいた。

あの日、赤い龍に捧げた歌。

祖父から教えてもらった歌。


(心の底から大事だと思える、大切な人に、感謝を伝える歌・・・)

そういって、祖父はあの歌を教えてくれたのだ。

亡くなって久しいのに、今も祖父が愛し続ける彼の妻が、贈ってくれた歌なのだと。



『・・・けれど、今から教えるこの歌の続きはむやみに歌ってはいけないよ。将来フィーが、心から愛する人ができたなら、その人に歌ってあげなさい』

アルカの地を離れ、城へと旅立つ日。

別れの挨拶と共に祖父が教えてくれた歌の続き、その旋律が頭を過ぎる。



「――」


覚えているだけで、歌ったことのないその続きを、口に出してみようかと記憶を音にし始めた直後、ノックの音が部屋に響いた。

「失礼いたします」


休憩時間の終了を知らせる教師の声だった。




     *   *   *





「・・・それでは、今日はここまでとしましょう。 一日お疲れ様でした」

その日一日の授業範囲が終了し、教師は教材をてきぱきと片づけていく。


「ありがとうございました。 ・・・今日は、その、集中が続かなくてごめんなさい」

フィリアのその言葉に、その日の教師の役割を終えた女性は目を瞬かせる。

「そんな、姫様は一生懸命頑張っていらっしゃいますわ。 私はお礼を言われるようなことはしておりません」

にっこり微笑み、女性は言った。




『――――――!』


その時、低く響く鳴き声が部屋の中に響いた。

先ほどのものよりも強い咆哮。


「な、何事でしょう・・・!? まさか龍神様・・・?」

(やっぱり・・・さっきの声は、気のせいじゃなかった・・・)


テオドバルトの声だ。




教師や控えていた侍女と共に、窓から見える山を窺がう。

雨足は少し弱まり始めていたが、依然山はぼやけたままだった。



しばらくそうして様子を見ていたが、咆哮が聞こえたのはその一回で、その後の山は静かなままだった。


「・・・何かあったのでしょうか、龍神様・・・」

教師は不安そうに口元に手を当てる。 何かを考えるときの彼女の癖らしい。

侍女も青い顔をして呆然と立っている。



彼女たちが不安になるのも無理はない。

今まで、龍の声が聞こえてくるのは日常的にあった。

しかしそれは、遠吠えのように、どこか聞く者を切なくさせるような声だったのだ。

今のように、強く、悲痛な叫びのような鳴き声は、今までになかったものだ。



彼女の言うように、何かあったのか。

あんなに痛そうな声・・・もしや何か命に関わるようなことがあったのか。

そんなまさか、彼に傷をつけられるような存在がいるはずはない。

では、なぜ――?




フィリアは、胸元を抑えた。

あの声が聞こえてから、心臓が痛いのだ。

唇を噛んだ。

アルステリアから目が離せない。

人間なんかの目では、何も見えないのに。



バタバタと、後ろで人が動く音と声がする。

城の様子を窺がうとか、指示を仰ぐとかで、部屋にいた教師が出て行ったり侍女が入れ替わりにやってきたりしているのだ。


それでもフィリアは窓の向こうから視線を外せなかった。




(・・・呼ばれている気がする・・・?)

なぜそう思ったのかわからない。

先ほどの叫び声がまだ耳に残っている。

痛い、という声。

でも、それだけではない。

フィリアには、助けを求めるような、縋るような声にも聞こえたのだ。




あの龍は孤独だ。

孤独で寂しいと、目がそう語りかけてきていた。

今、きっと彼は泣いている。

痛くて痛くて、泣いている。

涙を流すことはなくとも、きっと心が割れそうなほどに独りが悲しい。

彼の痛みを受け止めてくれる誰かは、彼の側にはいない。



(・・・あぁ、私は、彼を置き去りにしてしまったんだ)





山から離れる瞬間に、泣き出しそうな金の目を見たことを思い出す。

心臓が鷲掴みにされたように苦しくなったことを思い出す。

悲しくて寂しくて、涙があふれて止まらなかった。

私の一方的な感情だと思っていた痛み。



あの龍は、意思を直接相手の頭に響かせる。

もし、意思とまでいかない感情でさえも、相手に直接伝えることができるなら。


――あれはもしかして、あの龍の感情だったのか。









「――テオドバルト様」

硝子越しに、アルステリアを撫でる。



どうして泣いているのですか。

いったい何があなたをそんなに苦しめているのですか。

どこか痛いのですか。

誰かを求めているのですか。




人間なんかが、とあなたは仰いますか。

誰も救えない小娘風情が、と思われますか。



それでも。




「・・・あなたが私を呼んでくれるのなら、私は・・・」




いますぐにでも、あなたに会いたい。






その果てしない孤独を、自分ひとりが癒せるだなんて思ってはいない。


それでも、痛がるあなたの側にいたい。




(あなたは私の命を救ってくれた。 私も、あなたの助けになりたい)











【――】



硝子越しに、フィリアは赤い光を見た気がした。


いつの間にか雨は止んで、もうずいぶん雨雲の晴れた遠くの空から陽の光が差してきたらしい。

アルステリア山の方角にある、何かがその光を反射したのだ。



「・・・っ」

息をのんだ。


確かに聞こえた。

音のない、声。

頭に直接、響くような――



【――フィリア】




城に向かって飛んでくる真紅が、白銀の少女の名を呼んだ。



少女は、止めようとする侍女たちに目もくれず、部屋から飛び出していった。


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