16. 届けられた歌
龍視点。
そうしてその場に佇んで、どれほど時間が経っただろうか。
太陽が顔を見せないものだから、時間の感覚がわからない。
目を伏して、じっと動かずに、まるで石にでもなったかのように雨に身を打たせていた。
『リュウ ドウシチャッタノカナ』
『シンジャッタ?』
『ウゴカナイネ』
近くの木陰で、小鳥たちが囁く声が聞こえた。
『アメ ヤマナイネ』
『アシモト キヲツケテ』
『ゴハン ドコニオチテルカナ』
鹿の親子の鳴き声が、小さく響く。
小さな生き物たちの声は聞こえるのに、一人の少女の声は聞こえない。
人間の街に耳を傾けても、雑音ばかりで耳が痛くなる。
(どこにいる・・・? 何をしている・・・? また命を投げ出そうとしてはいまいか・・・?)
疑問ばかりが頭を支配する。
――否、これは疑問ではない。
『不安』という感情、なのだろう。
小さきものたちが、捕食者を目にした際に溢れ出る感情だ。
かつてこんな感情など持ったこともないのに、私は何を恐れているのだろうか。
いったい何が、私の心をこんなにも追い立て、支配するのか。
(・・・わからない・・・。 フィリア、お前ならば、答えを知っているか・・・?)
あんなに複雑な感情を持つ、人間という不可思議な生物であれば、私の恐怖の答えを知っているだろうか。
――テオドバルト様、
どこからか、彼女の声が聞こえた気がした。
気のせいだと、自らに言い聞かせた。
――テオドバルト様、私の愛しい、テオドバルト様、大事な、大事な…、
違う。
目を見開いた。
気のせいじゃ、ない。
身体に電流が走ったようだった。
その衝撃に、息をするのも忘れた。
――テオドバルト様、ありがとう、ありがとう……
フィリアの、歌だった。
幻聴かと思ったが、違う。
確かに聞こえてくるのだ。
森の木陰から、幾重にも重なる声で。
【フィリア!?】
衝動的にその名を森へ叫ぶ。
驚いた動物たちが一目散に草陰に飛び込み、鳥たちは留まっていた木から飛び立った。
彼女の歌は、聞こえなくなった。
(・・・今のは、いったい・・・? 確かに、聞こえた・・・)
聞き間違えるわけがない。
彼女が私に歌った、あの旋律。
その旋律に込められた想いも同じだった。
もう一度、耳を澄ませる。
じっと動かず、わずかな音も聞き逃さないように。
私の咆哮で静かになった森の中。
小さな小さな声で、動物たちが囁く。
一つ一つは小さくても、総数が多いため、様々な思惑が混ざる。
驚愕、警戒、恐怖・・・。
危険を察知し身構えた動物たちも、しばらく私が動かないでいると、ゆっくりとまた元の日常へと戻っていく。
いつもと同じような会話へと、戻っていく。
雨が、止まない、と誰かが囁く。
あぁでも、もうすぐきっと止む、と誰かが返す。
向こうの空が明るくなってきたよ、と誰かが知らせる。
向こうの方に住んでる鳥たちは、元気かな?
あっちはもう晴れたのかな?
またあの歌聴かせてくれるかな?
少し遠くの木へ移った鳥たちが、囀り始めた。
私はゆっくりと、会話をしている鳥へと意識の照準を合わせた。
『キレイナ ウタ』
『ニンゲンノウタ ッテ アッチノコガイッテタ』
『シロイ オウジョサマ マイニチウタウッテ』
『オウジョサマ ッテ ナニ?』
『ワカンナイ』
自分の鼓動の音がうるさい。
鳥たちの言葉を拾うたびに、心臓が跳ねるように苦しい。
オウジョサマ、オウジョ、王女…
彼女は、私と初めて会ったとき、なんと言っていた?
第三、『王女』、だ…
その言葉の正しい意味はわからない。
しかし彼女は、『人間』の中の『王女』という存在であると、確かに言ったのだ。
彼女の歌だ。
確かに、フィリアが歌った歌だ。
彼女はその歌を毎日歌うのだと、鳥たちは言うのだ。
だから、彼女のそばにいる他の鳥が、その美しい旋律を覚え、伝え――ここまでたどり着いた。
毎日、私に贈った歌を歌っているのか。
私の名を織り交ぜて。
感謝の感情に、それ以上の感情も添えて。
身体が燃えるように熱くなる。
少しでも気を抜けば、体内に渦巻く星の力が暴走して、本当に着火しそうなほどだった。
フィリアは、私を忘れていない。
私の名を呼んでいる。
彼女は・・・生きている。
(あぁ・・・わかったぞ・・・この感情は)
あの日から、ずっと私の心を支配しているモノの正体。
(私は、お前に会いたいのだ、フィリア・・・)
お前のいないこの世界は、とても淋しい。
もう一度、目の前でその歌を歌って欲しいのだ。
私の名と、得体のしれない感情を織り交ぜて。
お前の唇から紡がれる旋律を聴きたいのだ。
豊かな白銀の髪を揺らし、やさしい笑顔を向けてほしい。
その美しい碧色の瞳に、私を映してほしい。
分け隔てられた世界など、この翼で越えてみせよう。
人間の世界に、龍がいてはならないなどと、誰が決めたのか。
ただ、会いたい。
この山である必要性はないのだ。
私には、大きな翼がある。
大陸中、どこへだって飛んで行ける。
望むのならば、海ですら越えて行こう。
そこに、お前がいるのならば。
ぎゅうっと、目と耳に同時に力が入る。
体内の星の力が、視力と聴力を格段に引き上げる。
フィリア、お前はどこにいるのだ?
鳥たちの会話を拾う。
――あっちの方
歌を伝えた鳥は南側から来たのだという。
雨がだいぶ弱まってきた。
灰に霞む視界も、少しだけ澄んできた。
南側には・・・大きく目立つ、白い石壁がそびえ立っている。
人の手により形を整えられた膨大な量の石が、積み上げられて形を作り上げている。
ぐっと目を凝らす。
その壁の中に彼女がいるとは限らない。
それでも――なんでも、よかった。
考える前に行動をしていた。
とにかく必死で彼女を探していた。
岩壁の隙間から見える人間たちを一つ一つ確認していく。
それでもだめなら、白い岩壁の下に広がる鮮やかな色の中を探そう、と。
焦燥感に駆られながら、多くの人間を見ていき、・・・気付いた。
白銀の髪を持つ人間は、ほとんどいない。
四角く、切り取られた岩壁の中から、こちらを見つめる一人の少女を除いて。
そして私は、気づけば大地を蹴り、翼を広げていたのだ。




