12. ワタシノイミ
「フィリア様。お疲れのところ申し訳ありませんが、キリト様の執務室まで・・・」
「わかってるわ。お兄様が心配してるって言いたいんでしょう?」
レンが転移した先は、クラデリシア城の東塔の屋上だった。
先程までいたはずの、アルステリア山と、そこから流れるルティルスの河が一望できる。
あぁ、戻ってきてしまった。
先日までお気に入りの場所だったここを、捨てる覚悟で城を出たのに。
何もかもうまくいかなかった。
誰も幸せにできなかった。
いったい自分は何をしていたのか。
城を出ようと決めて、龍の住処にたどり着くまでに、いったいどれだけの人に迷惑をかけただろうか。
あの赤き龍も、心底鬱陶しかったに違いない。
・・・そして、これから向かう部屋で待っているであろう、あの人。
きっと会ったら踏みとどまってしまうから、会いたくなかった人。
黒く塗られた重厚な木の扉の前で、レンは足を止める。
ちらりとこちらを見やり、ゆっくりと拳を胸の前に持ち上げる。
そんな、こっちを伺う様子なんて見せないで、さっさと連れていけばいいじゃないか。
"無理やりにでも連れ戻す"とまで言い切ったのだから、私の意思なんて気にする必要はないのに。
いっそ心のない人形でも扱うように振舞ってくれた方が楽かもしれないと、ぼんやり考えながらレンが扉を叩く動作を見つめる。
扉の向こうからすぐに返答が聞こえる。
入室を許可する、低い声だった。
「失礼します。」
レンは扉を開け、一礼し、一歩右へ動いた。
視線で、入れと合図を送られる。
私はなるべく無表情を装って、兄の執務室へと足を進めた。
この部屋に入ると、いつも目にする光景。
大きな窓の前に、威圧感を持って存在する執務用の重厚な机と、それに合わせられた椅子。
そして、そこに座っている黒髪の青年。
そう、いつもと同じ景色。
ただ一つ、いつもと違っていたことは。
彼の顔に私を迎え入れる微笑みがなかったことだ。
「フィリア」
人形のように、精巧な美しさ。
眉ひとつ動かない、無表情。
薄い唇から発せられた声に体がピクリと跳ねた。
私と同じ緑の目の奥には、静かな炎を揺らめかせている。
怒っている。荒ぶる感情を無表情の檻に閉じ込めて、まるで私を食いちぎる瞬間を狙っているかのように見えた。
こんなに感情を高ぶらせた兄を見るのは初めてで、恐怖のためか手が震え始める。
震えを消すようにぎゅっと拳を作り、私は口を開く。
「・・・あ、の・・・お兄様・・・」
「お前が何のためにあの山に行ったのか、どうやってそこにたどり着いたのか、全部知っている。今更弁明の必要はない」
ぴしゃりと言い放たれ、言葉を失う。
呆然としていると、兄は席を立ち、ゆっくりとした動作でこちらに向かってきた。
相変わらずの無表情に思わず身構える。
彼の手が挙がり、叩かれるのだときつく瞼を閉じ――
「・・・無事で、よかった・・・。」
樹木に似た柔らかな香りを感じた。
気が付くと、体は温かく大きなものに包まれていた。
恐る恐る目を開けると、視界の端に映る黒。
兄は私を強く抱きしめていた。
「どれだけ心配したと思っている」
「・・・・・・ごめんなさい」
頭に置かれた右手は、そのまま私の髪をやさしく梳き。
腰に回された左手は、少し震えているようだった。
耳元で、安堵のため息が聞こえた。
私は抱きしめかえすこともできず、突っ立っているだけだった。
「二度とあの山に行くな。生贄になんかなる必要はない。龍に頼る前に、人であり家族である俺を頼れ」
ぐ、っと兄の腕の力が強くなった。
同じ父母から生まれた、同じ目をしたキリト兄様。
兄姉の中で最も私を気にかけてくれるキリト兄様。
私が大好きなお兄様。
だから、――会いたくなかった。
すごく、心配してくれたのだろう。
だって、いつも感情を表に出さないで、周囲に仕える人たちから少し怖がられている、そんな兄様が。
今、こんなにも震えてる。
きっと私が生贄になれていたなら、涙を流して悲しんでくれたのだろう。
なぜ自分に一言も言わなかったのだ、と嘆いてくれたのだろう。
そんな兄の気持ちをわかっておきながら、私はその想いを踏みにじったのだ。
「ごめんなさい、お兄様」
ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。
それでも私は、生贄になることを願うのだ。
兄が、家族が、アルカの民が、国民が、どれほど嘆き悲しむ結果になってでも。
私は、あの『赤き龍』の糧になることを望んでしまうのだ――
「お前のしたことを不問にはできない。しばらく自室から出ることを禁止する。これは陛下にも認可をいただいている決定事項だ」
アルカの地の豊穣を願う、なんて、ただ都合のいい理由づけにすぎなくて。
「・・・わかりました・・・。」
民のために、なんて詭弁。
私は本当は、自分のことしか考えていない。
私がここにいる意味を求めてしまう。
私が『第三王女』である意味を考えてしまう。
そして、龍に飲み込まれて、龍の力として溶けてしまいたいと夢想する。
そうすれば、何も考えなくていい。
すべて忘れてしまえる。
ずっと憧れていた龍の一部になれる。
龍の力になれるなら、その力で民を救えるなら、なんて立派な『自分への理由づけ』だろう。
きっとそうなれば、私は幸せだと感じられる。
そんなことをあれこれ考えて、最後に自分を嘲笑する。
・・・なんて、自分勝手な王女なのだろうか。
罪悪感と自己嫌悪が胸に渦巻いたまま、私はキリト兄様の執務室を退室した。
* * *
私に仕えてくれている侍女たちも、私を心底心配していたらしい。
廊下に出た瞬間に三人の侍女に取り囲まれ、無事でよかった、と涙ながらに歓迎された。
嬉しくはあるが、未だに龍の生贄になることを諦めきれていないので、苦笑いで受け入れることしかできなかった。
山の中で一夜を明かし、服も体もぼろぼろだったので、そのまま侍女に腕をしっかり掴まれ自室に連れていかれ、まず医師に診てもらうことになった。
自分でも気づいていないところに細々とした傷があったようで、至る所に薬を塗られた。
このくらいの傷はなんてことない、と遠慮しても問答無用だった。
昔は、こんな傷放っておいたのに。
七歳の時に、犬のロナと遊びまわっていて転んで擦りむいたときの方がよほどの大怪我だ。
その時は多少消毒しただけで他に何もしなかったのに。
王女になってから、私は私がわからない。
アルカにいたころは、そんなことなかった。
羊を放牧させて、犬と遊んで、それが自分だと思っていたし、それでいいと思っていた。
自分の役割なんて考えることはなかった。
この城に来てから、「王女であるという自覚を」「もっと王女らしく」と言われて過ごしてきた。
王女って、自分って何?
五年も考え続けているけれど、やはりよくはわからないのだ。
「フィリア様、お疲れでしょう? 今日は早くお休みになられた方が良いですわ。」
侍女たちに湯あみをさせられ、体中を磨き上げられ、絹の寝衣を着せられた。
その薄さと肌触りの柔らかさに、心もとなさを感じる。
一昨日まで着ていたのに、これで寒くないだろうかと違和感を感じるなんて。
ここは山の上ではないのに。
「食事は摂られますか?」
「いいえ、食欲がないの。 ありがとう、ゆっくり休ませてもらうわ」
一昨日までと同じ、王女としての言葉遣いで決まりきった台詞を侍女にかけて、下がらせる。
頭が重い。
私はこれからどうしたらいいのだろう。
ぽすり、とベットに身を沈める。
昨日の堅いむき出しの地面とは大違いだ。
頭が答えのない問いかけの答えを出そうと回転しているのに対し、体は素直に疲労を訴えている。
――このような寝具がないと、人は眠ることができないのか?
どこからか、あの赤い龍の声が聞こえてくるような気がした。
(・・・えぇ、そうですよ。 体を冷やしてしまいますから)
自分の妄想だとわかっていながら、聞こえないはずの声に答える。
――つくづく、人間は不便だな。
(貴方様が便利すぎるんですよ。 人は弱い生き物ですから)
――確かに、な。 あんなに傷がつきやすいとは思わなかった。
(体だけじゃなく、心も弱いんです)
――・・・そうなのか?
(そうです。 だから、テオドバルト様、貴方に縋るしかなかったのです)
――・・・・・・・・・
(ご迷惑、おかけしましたよね。 ごめんなさい。)
――・・・構わない。
あぁ、都合のいい妄想だ。
やさしい龍ならこう言うだろうと、自分の心を慰めるために『私の龍』を作り上げている。
「もう、テオドバルト様には会えないのでしょうか」
その返事は来なかった。 自分の中で作り上げることができなかった。
代わりに聞こえたのは、咆哮。
あの、吹雪が吹き荒れる真っ白な世界で。
悲しみを叫んだ、懐かしい紅い龍の声。
「・・・テオ・・・テオドバルト・・・さま・・・」
私はその姿を思い出しながら、夢の世界に落ちていった。
キリトはもっとちゃんと説教するつもりでいましたが、かわいい妹を目の前にしてべた甘になってしまいました。
王女らしからぬ鬱具合。山の中でのがっつき具合とのギャップ(笑)




