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自治省の悪臣  作者: 雪 柳
49/52

ワグナ公爵の養女 その4

絶縁中の王太子は?

誘拐された王子は?


父親と息子、よく似た二人はリアンが好きすぎて…「大迷惑」な人たちです。




自治省の入る旧カリン宮最上階。

この2日間というもの、上空には暗雲立ち込め、さながら魔界のような様相を

示している。その原因は明白で、自治省長官の機嫌が最悪に最悪だからだ。

伯爵家令嬢であるにもかかわらず庶民育ち、ファネ国の王太子妃であるにもかかわらず、

自治省長官という希有な経歴の持ち主はただ今のところ…夫君であるキリル王太子と

絶縁状態にあった。


幸いに、というべきか、第二王子トリルを出産して僅か1ヶ月、妃としての公務は

最小限に留められていたため、王太子夫妻の不仲が国民に知られることはなかった。

そして夫妻をよく知る王府・王宮内の者たちは「またか」と嘆息しつつ、

いつにない深刻さに眉をひそめていた。

同じ旧カリン宮に執務室を持つ工部省長官は早々と「夫婦喧嘩で“王家の搭”が

半壊しても国費からは出せませんぞ」と自治省次官モムルに釘を差した。


「妃殿下」

入室したヴィリジアン騎士団長の呼びかけにリアンは書類から顔を上げた。

傍らにはモムル次官だけが控えている。

他の秘書官たちも信用しているが事が事だけに…ティリル王子誘拐は伏せられた。

「見つかったの?」

「いえ…ですが、王都から出ていないのは確かです。

 居場所を特定するのも間もなくかと」

「犯人からの要求はないのね?」

「全く」

ティリルは王子という身分を隠して市井に出ていたところを(さら)われたのだった。

単なる金持ちの(ぼん)と思われたなら、予め決めてあった商人の家に連絡が入るはずだ。

しかし、何もないとすると…例えば子どもの正体が最初から王子と知れていた場合。

「あの子が普通の子どもで、この誘拐が王家に対する怨恨ゆえだとすると

 …今頃、我が子はどこぞの廃屋で死体になっているわね」

「長官!」

縁起でもない、と次官が抗議する。一方で、騎士団長は王太子妃の挑発に乗らなかった。

「ティリル王子は稀有な能力の持ち主。討たれることはありますまい」

「そうやって、あの子の“先祖返りの力”とやらを頼みにするの?

 5歳の子どもに相手は悪党とはいえ、人を傷つけたり殺めたりさせるの?」

「キリル殿下がキランサ王の刺客から身を守るために小刀を振るったのはわずか

 4つの時と聞いておりますが」

「父親と同じ経験をさせるつもりはないわっ!」

リアンは声を荒げ、(こぶし)で机を叩いた。


むかつく男だ、ヴィリジアン。

攫われた長子を心配してリアンが苛つく中、騎士団長は平然とした態度を崩さない。

やはり血のなせるわざというべきか。

彼女の今や天敵ともいえる男…王弟ベリルと何となく似通った雰囲気を持つ。


「妃殿下、ティリル王子はご無事です」

「分かっているわ。簡単に殺られるような子じゃないもの」

でも、万一のことがあるかもしれない。

命に別状なくとも怪我くらいはしているかもしれない。

一緒にいたはずの大伯父レナイドからも祖父ハリドからも音沙汰がない。

頼みの綱の夫、キリルは今回全く当てにはならない。

リアンは世の母親が抱く最大の恐怖…我が子を奪われるかもしれないという恐怖を

味わっていた。


「妃殿下、殿下には…」

「キリルに話すことは何もありません」

この2日間、リアンはホウオウ宮にも“王家の塔”にも戻らず、旧カリン宮に

籠城中である。ちなみにユアン王女とトリル王子も引き連れ、隣室を育児室とした。

ユアンは相変わらずワグナ殿下に狙われ目を離せないし、トリルには授乳の必要がある。

…つまり、旦那だけ除け者にしている。


「ヴィリジ、どうせこの後、キリルの所へ行くのでしょ?

ついでに、この決裁書類と見積案、それから計画書を渡しておいて頂戴」

モムルに指示してバサバサと書類の束を騎士団長に押し付けてゆく。

本心では今すぐ王府を飛び出して、自分で息子を探しに行きたい。

しかし、闇雲に走り回ったところで益はない。彼女は王太子妃で自治省長官なのだ。

これ以上の我が儘は許されない…専制君主国家であるファネで次代の王である夫君に

逆らい、王子(トリル)王女(ユアン)を連れて一省庁に引き籠ることも、

本来許されることではないのだ。


「王太子殿下がお気の毒ですな」

そんな捨て台詞を残し、ヴィリジアンは書類の山を抱えて退室した。

どこが気の毒なのよ、あんなヤツ、と自治省長官が怒り狂ったのは言うまでもない。


自治省次官(モムル)は兄である内務省長官(レムル)と連絡を密にし、

旧カリン宮が王太子夫妻の戦場とならぬよう警備を強化したそうな。

レムル・モムル兄弟は真剣に危惧していた。

これ以上、キリル殿下に禁断症状…愛しい(リアン)に会えない、触れない…が続いた場合、

壊れて暴走するのも時間の問題だと。


(ティリル王子…早く帰ってきてください)

兄弟は切に願っていた。


リアンには言えないが、父親似の王子のことだ。

2日どころか2週間行方不明になってもあんまり心配しない。

但し、彼が戻らないことには、王太子夫妻の間に亀裂が入ったままだ。

このままでは、夫妻だけではなく、王宮、王都、更には王国にまで亀裂が入る。


(王子…早く帰ってきてください)

兄弟は切に切に、王子の帰還を待ち望んだ。


*** *** *** *** ***


王太子妃が押し寄せる不安と戦いながらも旧カリン宮で執務をこなしていた頃、

王太子は…といえばワグナ宮にて飲んだくれていた。


もう一度言おう。


“偉大なる王”イランサと聖王家の巫女姫たるイルーネとの間に生まれた稀有なる御子は。

兄王キランサとの暗闘に勝ち、ミルケーネ公爵、内務省長官、自治省長官とを兼職しつつ

王権の中枢に食い込み、今や次代の王となることを誰からも認められた男は。


執務を放り出し、ひたすら酒を煽っては空瓶の山を築くことに専念していた。


長子ティリルが誘拐されたのが2日前のこと。

そのこと自体はキリルにとって割とどうでも良い。

問題なのはそれが発端となり、愛しの妻に殴られ、「大嫌い」と告げられ、

彼は一瞬にして灰と化した。


しかし、彼とてファネ王家の一員。その矜持(プライド)にかけて、翌日には灰を掻き集めて

何とか復活を果たし、機械化してサクサクモクモクと仕事を片付けて行った。

こういう時の王太子は神業的な速度と的確さで政務を処理してゆく。

外から見れば完璧な王太子サマと映ったりもする。


それが()ったのは1日のみ。

いそいそと旧カリン宮最上階へ赴く度に鼻先で扉を閉められ、

花束と共に伝言を寄せても突き返され、

三度の食事も間食も一緒にとってもらえず、

トドメに夜もすっぽかされ…とリアンに徹底的に無視されて、キリルは壊れた。


「キリル、この馬鹿め」

一夜明け、“玉座の間”に伺候した王太子を見て、ソランサ王は呻き声を上げた。

王の隣ではシャララ王妃が笑うべきか、慰めるべきか、諫めるべきか決めかね、

口元に扇の先を当てながら、微妙な顔つきになっていた。


国王と王妃の御前には「リアンに嫌われました」と項垂れ、半ば魂を飛ばし

…要するに、どこまでもダメダメになっている男がいた。


「ベリル、その馬鹿を連れて行け」

ソランサ王は国軍大将に命じ、王太子を退出させた。

シャララ妃と視線を交わし、心の中で会話をする。


(一体いつになったら引退できるのだ)

キリルは(ああ見えて)、ミルケーネ公爵であった頃から、自治省長官としてはともかく

(グウタラ歴あり)、内務省長官としては、よく国王を助けていた。

再び王族に戻り、王太子となってからは、国王代理として辣腕を振るい、宰相レナイドが

引退して後は、その職務をも引き継いだ。

そうして国王夫妻には年に2、3度の温泉旅行を楽しめるほどの余裕が生まれた。

旅行途中でこっそりと駆け落ちした元王女(マリンカ)元騎士(イェイル)と再会することも叶った。

ごく最近では若夫婦の間に生まれた双子の、紅葉のように可愛らしい手をきゅっと

握りしめるという喜びも味わった。


しかし、ソランサ王ほどの者でも無欲ではいられない。

今までが今までだったために、もっと妻とゆっくりしたい、とか。

(おおやけ)にする訳にはゆかないものの、もっと娘に会いたい、とか。

生まれたばかりの双子の成長をもっと側で見守りたい、とか。

さまざまな願いが膨らんできたりもするのだ。


王太子夫妻は30過ぎ。3人の子宝にも恵まれた。

いつ位を譲っても良いはずなのだ!!!

が…ダメだ。


ベリルに引き摺られるようにして“玉座の間”を出ていったキリルを思い浮かべて、

ソランサ王は頭を振った。どうにも譲位するには不安であった。

優秀なことは間違いないのに、何故か年下の叔父(キリル)は極端から極端に走るきらいがある。

今は廃人…灰人?と化しているが、一度変な方向に燃え上がったら、手が付けられない。

夫婦喧嘩の度に王家と王国を存亡の危機に晒すのは本当に止めてほしかった。


「大丈夫よ、あ・な・た。気長にゆきましょう」

シャララ妃が王を優しく慰めた。


王妃は王太子妃を認めていた。

地方都市ルーマでの下級役人としての経験や隣国イサでの留学経験を生かし、

リアンは保守的な王室に新風をもたらした。

一部の保守派には“自治省の悪臣”などと陰口を叩かれているが、リアンの能吏である

ことは確かだ。王太子妃としても、フッサール伯爵夫人フローネの薫陶を受けながら、

一生懸命学んでいる。望んだ地位ではなく…王家の都合で押し付けられた王太子妃

という重責をリアンは自分らしさを失わぬまま、しっかりと担っている。


ただ…惜しむらくは、この嫁、夫君に対する自分の破壊的なまでの影響力をサッパリ

理解していない。昼夜を問わず(キリル)から甘ったるい愛の言葉を囁かれているせいか、

どうも内容を聞き流している節がある。


キリルがリアンに告げる

“貴女が最愛の(ひと)”、“貴女が唯一の(ひと)”、“貴女だけは失えない”

は掛け値なしの真実。

だからこそ、リアンが考えなしにぶつける「嫌い」はあっという間にキリルを

“頭の切れる男”から、“切れた頭の男”にしてしまう。


今はイジイジウダウダのダメダメ男だが、これでリアンが「別れる」「実家に帰る」

なぞ言いだそうものなら…シャララ妃は王都からの避難勧告を国民に出すことまで

想定していた。


「孫と日向ぼっこはまだまだ先ですわね」

小さな溜め息を一つ。


もっとも王太子夫妻をあまり責めることもできやしない。

彼らを今の地位に無理やり押し上げてしまった直接の原因は。

ソランサ王とシャララ妃の唯一の娘、世継ぎの王女であったマリンカが

近衛騎士イェイルと駆け落ちしてしまったことにあるのだから。


*** *** *** *** *** 


国王ソランサ同様、王弟ベリルにとっても王太子キリルは年下の叔父にあたる。

国王ソランサの下、かつては宰相レナイドと国軍大将ベリル、

そしてミルケーネ公爵キリルが宮廷内における勢力を三分していた。

レナイドが引退し、キリルが立太するに及んで、その均衡は崩れたかに見えたが

…ベリルとキリルが政治的に対立するようなことは起こらなかった。


国軍を掌握する王弟が警察組織と神殿を掌握する王太子と敵対したらファネの未来は

危うくなる。

しかし、傍若無人に見えるベリルでも、王位への野心がないことは明らかだ。

なんと言っても、彼は“将来独身宣言”を出し、これを守り通しているため、

正式な妃はいないし(非公式な女性はたくさんいる)、

嫡子もいない(非嫡出子はたくさんいる)。つまり、王位継承争いから外れているのだ。


「おい、生きているか?」

酒瓶を抱きしめたまま、卓に突っ伏す王太子に声をかける。

兄王に命ぜられキリルを連れ出したものの、別に二人は仲良しではない。

常なら王宮の目立たぬ場所にポイ捨てしている。


今回は特別で、ベリルは自分の根城であるワグナ宮にキリルを歓迎し、秘蔵の高級酒

まで振る舞っていた。そうしてキリルの恨み言やら泣き言やらに一応、お付き合いして

やっている。


もちろん親切心などからではない。

狙いはユアン王女ただ一人。

幼子を何とか自分の娘とするために、ワグナ殿下は古典的な戦略を取ることにした。


即ち、将を射らんと欲せば、まず馬を射よ。


この場合、馬がキリルで、将がリアンだ。二人を殺し…いやいや、順に説得せねば、

望みの王女は手に入らない。幸いにして、聡明な王太子は王女(ユアン)を王弟の養女とすることの

意味をきちんと理解していた。あとは彼を動かして愚鈍な王太子妃の承諾を取り付ける

だけなのだが…その一手がうまくいかない。


「リアンに嫌われた…もう生きていけない」

「ここで死んだら、確実に他の男に奪われるぞ。

 あいつは“二夫に(まみ)えず”っていう柄じゃないだろ」

何なら俺が(ユアン)ごと貰ってやる、と言いかけ、キリルの殺気の籠もった目に阻まれた。


「だいたい、お前が悪いんだろ?

 母親から子どもたちを奪おうとするから、こんな事態になるんだ」

妻も子も持たないベリルの方が、よっぽどキリルより“母親の心情”なるものを

理解していた。

「別に奪おうとしていた訳では…会いたければいつでも会えるのだし」

「異能の長男を神殿に閉じ込め、幼い長女を王弟に下げ渡し、

 次男を頼りになる実家から離そうとする…子どもたちを疎んじているような所業だな」

「違う!違う!違う!私は…あの子たちにとってもリアンにとっても最善を考えて」

「だが、リアンには全く通じていないぞ?

 子どものことを相談なしに勝手に決定されては、母親が激怒するのも当然だ。

 おまけにティリル誘拐に際して、放置するような発言をしただろう?馬鹿じゃないか」

「しかし、あの誘拐は…それにティリルは」

「例え、誘拐そのものが相手の誘いにわざと乗ってやっただけだとしても、だ。

 例え、ティリルが独りで全く心配なくとも…リアンにしてみれば、わずか5歳の

 子どもだ。命に代えてもと生んだ我が子だ。」

下手を打った自覚はあり、ティリルはその場に沈みこんだ。

白絹の手から力が抜け、何本目かの酒瓶が床を転がる。

ベリル印の黒糖ウメエ酒はアルコール度もさることながら、糖分もそれなりにある。

割るのが普通の代物を原酒のままガブ飲みしているのだから、この時点でキリルの

味覚は相当おかしくなっている。


「リアンに会いたい。声を聞きたい。触れたい。リアンの…」

その後に続くのは、かなり濃厚な夫婦の交渉ごと。

キリルが欲求不満なのは明らかで、このまま切れた場合はリアンの身が()たないだろう。


「おいっ、“お姫さん”たちを呼べ」

ベリルが扉の向こうに叫ぶ。忽ち現れるのは国軍大将手下(てか)の美女たち。

時として密偵にも、兵士にも、踊り子にも、歌姫にも…男たちの遊び相手にもなる。


「ここで少し発散しておけ。そのままリアンを襲ったら、抱き潰しかねないぞ」


豊満な胸と濡れた唇の金髪美女がキリルの右側に侍り、

妖精のように華奢で透明な肌の黒髪美女が左側に侍る。

そうしてベリル自身は銀髪に緑色の瞳をした美女…というか美少女の腰を抱いた。


「リアン以外の…」

(女に用はない)

キリルは酔っ払って意識を混濁させつつも、二人の美女を振り払った。

身も心も飢餓に苛まれているが、喰らい尽きたいのは女ではなく、リアンだ。

(リアン)だけだ。


「キリル様」「王太子殿下」

しかし、金髪美女も黒髪美女もただ者ではない。

肉感的な前者も細身の後者も国軍の厳しい訓練を耐え抜いた女戦士でもある。

片方がしな垂れかかると見せかけ、その実、相当な腕力でキリルを横倒しにし、

もう片方が背後から彼を抱き込んだ。


気が付けばキリルの鼻先には露わになった白い胸が。

そして向きを変えれば、くびれた腰が彼を誘っていた。


「やめっ…」

抗議の声は美女の胸に阻まれ、次いでもう一人の唇に飲み込まれた。

国軍大将の側仕えであれば、先鋭中の先鋭、つまり…男を籠絡する術に長けていた。


ベリルの言い分ももっともかと、キリルは自棄(やけ)を起こす。

このまま苛立ちをぶつければ、愛するリアンを壊しかねない。

それくらいなら…一時の快楽に身を任せてしまおうか。

そう思い始めてしまうくらい、キリルは追いつめられていた。


藍の瞳を閉じたまま、白絹の手を伸ばす。それから黒髪だが、金髪だがを適当に

引き寄せ唇を貪る。


これは自分に与えられた玩具なのだ。優しくする必要はない。

ただ、己が欲望を吐き出せば良いだけのこと。


「ベリル、聞きたいことがあるのだけど」

その最悪ともいえる時機(タイミング)に登場したのは。

よりにもよって旧カリン宮で籠城しているはずの奥さまであった。


ユアン王女のことがあって、王太子妃が万が一にも現れたら直ぐに通すよう、

ベリルは部下たちに命じていた。

それが今回、仇となり、リアンは見たくもないものを見る羽目になった。


ゴミ箱をひっくり返したような国軍大将の執務室。

淀んだ空気に酒に煙草、怪しい薬やら女物の香水の匂い。

…これらはよくある事で。


銀髪に緑の瞳の紛い物…リアンの亡き母に似せた女にこの部屋の主が絡んでいる。

…これもまた想定内。


まだ日没前だとか、ファネ国軍総司令部が、とか一々叱る労力も惜しい。

けれども、よもや、この場所で夫君と対面することになろうとは。


「リアン、誤解です…」

弱々しく呟いた夫に妻は返す言葉がなかった。


我が子が誘拐されて行方不明中。

それでも自治省長官として執務を全うするリアンに対し、王太子はまさかの職場放棄。

挙げ句に飲んだくれ、女遊びに興じている。

王弟が焚き付けたにせよ、王太子が乗ったのは確かだ。


リアンは扉を開けた時、目にしてしまったのだ。

キリルが…自分以外の女性の、(自分にはない)たわわな胸を揉みしだきながら、

相手の唇を激しく貪る様を。


(何が“最愛”で“唯一”の女よ。他の女の人でもいいんじゃないの)

怒るでも、悲しむでも、呆れるでもなく。

この時、リアンは無言のまま、キリルに蔑みの目を向けてしまった。


「リアン…」

よろめきながらもキリルは妻に一歩近づいた。

それが穢らわしいとばかり、リアンは一歩後退する。


王太子夫妻のド修羅場を予感した女たちは、さっと波の引くように部屋を出て行き、

王弟だけが、やや距離を置いてその場に留まった。

普段なら高みの見物を決め込むベリルだが、今回ばかりは内心青ざめていた。

王太子夫妻が仲直りをしない限り…王太子が妃を説得しない限り、彼は望みのもの

…ユアン王女を手にすることができない。


女たちを呼んだのは大失敗だった。


「リアン、話を聞いてください」

「何も聞きたくない」

「誰のせいだとっ!」

かっとなったキリルがリアンに襲いかかろうとする。


「ちょっと待てっ!」

そこをすかさずベリルが背後から羽交い締めにし、王太子の暴走を止めた。


「離せ、ベリル!」

「ちょぉおっと、落ち着こうかキリル。

 このまま無理やりしたら確実にリアンに嫌われるぞ」

「黙れ。妻は夫の所有物(もの)だ。妻は夫の相手をする義務があるんだ!」

専制国家ファネの、伝統的な王侯貴族社会において、この考えは間違いではない。

が、隣国イサで男女の本質的な平等だの、夫婦でも性的暴力は成り立つだのを学んだ

進歩的なお妃さまは…夫の台詞に当然のことながら激怒した。


もっとも、リアンが返したことと言えば、その黄緑(ペリドット)の瞳にただただ侮蔑の色を

滲ませ、キリルを見据えるのみであった。


王太子夫妻の間に重苦しい沈黙が下りた、その時。


「申し上げます。ティリル殿下がご帰還との知らせが入りました!」


朗報がもたらされた。


「ティリルが見つかったの?どこにいるの?」

リアンの表情がぱっと明るくなる

「ただ今、ホウオウ宮に向かわれていると…妃殿下っ!」

皆まで聞かずリアンは走り出していた。

一瞬で最低な旦那のことなど忘れさる。

頭の中は我が子の安否で一杯だ。


「おいっ。追わなくて良いのか?」

ベリルがはっぱをかけるも、妻に見捨てられた夫は、その場から動けずにいた。

改めて己が所業を顧みれば…リアンに愛想を尽かされて仕方ないことばかりしていた。

自分で自分に嫌気がさし、胸がムカムカしてくる。

酷く身体が重く、気分が悪い。


「おいっ!ちょっと待て!」

ベリルが銀の(たらい)を投げるも間に合わず、キリルは床の上に激しく嘔吐した。


一方、夫に背を向けたリアンは全速力でティリルの元へと向かっていた。

王太子妃にあるまじき作法…長い裾を絡げて、(ふくら)(はぎ)が顕わになるのも頓着せず、

一目散に走る、走る。


「ティリル、ティリルっ!」

近衛騎士たちの長身に埋もれるように、艶やかな黒髪がぴょこぴょこと揺れている。


「母上!」

リアンの姿に気づいて、小さな身体が駆け寄ってくる。


「ティリル、ああっ、良かった!」

王太子妃としての威厳も何もなく、リアンは戻ってきた我が子を感極まって抱き締めた。


まずは無事に…と言えるだろうか。

5つの子どもの頬や額、手の甲には擦過傷があり、薄らと血の滲む箇所もあった。

母としてはそんな些細な傷一つにも胸が痛むが、大きな怪我もなく帰ってきたことを

まずは安堵すべきだろう。


「貴方が誘拐されたと聞いて、生きた心地がしなかったわ。

 この母の寿命を縮める気なの?」

我が子の温もりを確かめて、そんな軽口も漸く出てくる。


「…ごめんなさい、母上」

実年齢よりも遥かに大人びている王子は直ぐに気づいた。

微笑みを浮かべつつも母親の顔が憔悴していることを。

そして大好きな黄緑(ペリドット)の瞳に化粧ではない隈取りがされていることも。


「…ごめんなさい、母上」

ティリルはもう一度謝ってから母の胸に顔を埋めた。


「あ~わしらの心配はなしか、リアン」

「寂しいのう。頑張ったのにのう」

ティリルの直ぐ後ろに立っていたのにリアンに無視された二人が殊更に年寄りくさい

咳払いをしながら愚痴を零す。


「お祖父さま。大伯父さまも。ご無事で何より」

ティリルを抱えこんだまま、リアンは労いの言葉をかけた。

…実は二人のことはあまり心配していなかった。

70過ぎの高齢で第一線を退いたとはいえ、元宰相レナイドもアギール伯爵ハリドも

現役の武将としてまだ十分に通用する。この二人に何事かが起こる事態であれば、

それ即ち国家存亡に関わるような敵が現れたことになる。


神妙な顔をしつつ、レナイドもハリドもどこか得意げだ。

つまりは二人がティリル誘拐事件を首尾よく片付けたことを意味する。


「誘拐犯を一網打尽にしてくださるのは有り難いのですが、お二人とも年を考えて下さい」

リアンの手厳しい発言に、ハリドもレナイドも「年寄り扱いするな」と反論する。

そうして、強がった手前、ハリドは両膝の痛みを意地でも認めなかったし、

レナイドもまた腰の痛みを訴えることができずにいた…自業自得である。

リアンは二人を“玉座の間”に向かわせ、国王・王妃への報告に当たらせた。


「ティリル、戻ったか」

ホウオウ宮に戻る頃になって、ようやく父親(キリル)が現れた。

なぜか国軍(ベリル)大将から拝借したと思われる、黒絹のシャツを着ている。

「父上」

母親から身を離し、王子は固い表情で父親に向き直った。

キリルの藍の瞳が冷たくティリルを見下ろす。

王太子は静かに怒りの炎を燃やしていた。


「勝手な真似はするなと、私は言ったはずだが。凱旋将軍気どりが」

すっと音もなく白絹の手が上がる。ティリルは正確にこれから起こることを予想

していたが、一歩もその場から動かなかった。


「ティリル、この愚か者!」

子ども相手とはいえ容赦なく、キリルの利き手が一閃した。

派手な音がして地面に倒れたのは。


「母上!」「リアン!」

ティリルを庇って自ら打たれた王太子妃であった。


結婚して5年。キリルがリアンに手を上げたことは一度もなかった。

それがここに来て、我が子を守るためとはいえ、夫に叩かれた妻は身体よりも

心に衝撃(ダメージ)を受けた。

しかし、妻を誤って叩いてしまった夫の方が遥かに衝撃を受けていて

…キリルは、その場に凍りついた。

よろよろと身を起こすリアンを助け起こすことも、謝罪や弁解の言葉を口にすることも

できずにいる。


「キリル、子ども相手に何てことをするのっ!」

そんな夫の態度にリアンの方がキレた。

王太子としての職務を放棄し、酒を飲み、女と戯れ、挙げ句に漸く戻ってきた幼い王子に

暴力を振るおうとする。最低の男ではないか!!!


「子どもたちを連れて…」

実家(アギール)に戻らせていただきますっ!)

そう宣言しようとして、リアンは背後から忍び寄った手に口を塞がれた。


「ファネ王国を滅亡させる気なの、リアン?そのまま黙っていなさいね」

現れたのはフッサール伯爵夫人であった。

(離しなさいよ、フローネ!)

リアンはモゴモゴと反論したが、伯爵夫人は手を緩めようとしなかった。

「王太子夫妻が人目も憚らず大喧嘩なんて止めてちょうだい。

 それに、今はティリルの手当てをして、休ませるのが先決でしょう?」

王宮一の貴婦人は懇々と王太子妃を諭し、己が立場を理解させる。


一方、正気を失いかけている王太子の方へも救いの手が差し伸べられた。

「はい、はい、落ち着いて。ここで暴走しても良いことは一つもありませんよ?

 これ以上、リアン妃に嫌われたくなければ、大人しくしましょうね?」

ティリルの幼少時から守役として仕えていたフッサール伯爵レムルが登場する。

内務省長官でもある彼は主君(キリル)が職場放棄したために、その後始末(フォロー)に追われていた。

放っておけと命ぜられても、完全放任することもできず、ティリル王子を裏で支援(サポート)して

いたのも彼である。王太子夫妻の喧嘩が単なる痴話喧嘩の段階に留まってくれれば、

介入するつもりもなかったが、いよいよ国家存亡の危機にまで近づいてくると、

レムルとしても無視する事ができなくなり、ここに出張ってくることになったのだ。


(勘弁してほしいよ、本当にこの人は…)

本音を隠しつつ、レムルは主君の手を引いた。リアンを打ってしまった衝撃が大き過ぎた

のか、キリルは反抗することもできずにいる。普段なら「離せ、邪魔するな、消えろ」

くらい言おうものだが。


妃殿下(リアン)、ティリル王子が落ち着かれたら、“王家の塔”に起こしください。

 どうか短慮を起さず、殿下(キリル)の話を聞いて差し上げてください」

レムルの言葉遣いは丁寧だが、リアンには分かる。


(これ以上、手間をかけさせないでください。

 夫婦で話し合って、さっさと仲直りしなさい。さもないと…)

そんな内務省長官の心の声がしっかり聞こえてしまう。

今は王太子妃となったリアンの方が地位は上だが、内務省長官レムルは

自治省次官時代に先輩であった人物なのだ。

この人を怒らすと後が厄介…と、リアンはコクコクと頭を縦に振った。


そうしてリアンとティリルをフローネが、キリルをレムルが引き取り、

王太子夫妻の決裂は回避された…フッサール伯爵夫妻の絶妙な連携のお陰といえる。


*** *** *** *** *** *** 


「先ほどは何を言おうとしたの、リアン?」

ティリルが入浴している間、お茶を飲んで一息つきながらフローネが尋ねた。

「キリルの考えていることが分からなくなってしまって…このままだと感情的に

 なるばかりだがら、暫く実家に戻って頭を冷やそうかと」

「子どもたちはどうするつもりだったの?」

「もちろん3人とも連れて行くつもりだったわ。王宮に置いておきたくないもの」

王宮にいた方が安全なのは確かだ。しかし、長男(ティリル)父親(キリル)に睨まれているし、

長女(ユアン)()(リル)に狙われている。

そして次男(トリル)は生まれたばかりで眼が離せない。


「それ、大叔父(キリル)に言わなくて正解よ。アギール家が滅ぼされかねないわ」

「まさかキリルもそこまでは…」

「まだそんな甘い事を言っているの?

 貴女を囲い込むために実家(アギール)が邪魔と判断したら

 どんな理由をでっち上げてでも取り潰しするでしょうね。大叔父が本気になったら

 ハリドもクロンもシーシェルもシェロンもただでは済まないわ」

リアンの祖父に叔父、叔母に、小さな従弟。彼女にとって、皆大事な家族だ。

それをキリルが愚かな独占欲で害そうとするなら…絶対に許さない。


何だか、夫に対して、黒い感情ばかりが湧いてきて、リアンは自分が嫌になった。

瞼の奥に、豊満な女性に覆いかぶさったキリルの姿が目に浮かぶ。

トリルに授乳中のリアンも小ぶりな胸が大分成長したが、あの時の女性の胸はもっと

たわわに実っていて…いやいや、そういう事ではなく。

あの時、キリルは自分以外の女性の唇を貪っていて…いやいや、そういう事でもなく。


「嫌い。私、キリルが嫌い」

これは嫉妬だ。けれでも、認めたくない。

「リアン、だから、そういうことを…」

言わないでくれる?と窘めようとして、フローネは続けることができなかった。

金茶の前髪が震え、黄緑の瞳が潤んでいる。


(愛しているから、嫌い)


そんな心の痛みが伝わってくる。自分にも過去、覚えがある痛みであったために、

フッサール伯爵夫人はそれ以上、王太子妃を諌めることができなくなってしまった。


「母上」

黒髪を濡らしたまま、ティリルが浴室から戻ってきた。

いつもの快活さがなりを潜め、とぼとぼとした歩き方になっている。

リアンは慌てて目じりを拭うと、タオルを取って、我が子の頭を拭いてやった。

それから軟膏をとって、顔や手の切り傷や擦り傷を丁寧に手当する。


「母上…」

王子は暫く言葉を探していている様子であったが、やがて意を決したように顔を上げた。


「どうしたの、ティリル?どこか痛む?」

「父上と仲直りしてください」

「えっ?」

てっきり父親の冷酷さに子ども心を傷つけられていると思っていたリアンは吃驚して

ティリルの顔をまじまじと見つめた。

黒髪に藍の瞳。白絹のような肌まで、夫によく似ている。


「母上に嫌われたと…父上が絶望して廃人になっています」

「まさか」

「本当です。生ける(しかばね)状態で、レムル長官が叱咤激励しても全然ダメみたいです」

「そんな見てきたみたいに…」

「見てきたわけではありませんが、分かるんです。

 僕と父上は…互いの意識を接続(リンク)することができますから」

「え…?え?」

5歳の子どもが言うことを30歳を過ぎた母親は理解できなかった。

ティリル、“生きる屍”なんて難しい言葉を知っているのね、などとちょっぴり

現実逃避してしまったりする。


「母上、別に父上は僕を見捨てていたわけではありません。

 王都内であれば、だいたいのところ、互いの安否や居場所を把握することが

 可能なので、表向き動かないように見せていただけなのです」

「意識を接続(リンク)って…離れていても会話することができるの?」

「会話、とは少し違うかもしれません。心話とも言うべきもので、互いの表層意識を

 読むので、嘘をつくことは難しいです」

表層意識って…またも5つの子どもらしからぬ言葉がでてきて、リアンの眉間に

皺が寄る。

母親の頭からは、しばしば抜け落ちてしまうことだが、ティリルは聖王家の血を引く

王子である。それも“先祖返り”の力を有した。


「そのことを、()太子(リル)殿下も王子(ティリル)もどうして妃殿下(リアン)

 隠していたのかしら?」

話を聞いていたフッサール伯爵夫人が王太子妃に代わって質問する。

「隠していたわけでは…」

ティリルが言い淀む。それは嘘だと自分でも分かっている。父親と自分との間の

不思議な力について、敢えて母親に語ろうとはしなかった。


「王太子殿下も何故その“聖なる力”とやらをさっさと説明しなかったのかしら?

 王子が無事でしかも居場所まで把握しているとなれば、リアンだって夜も眠れない

 ほど心配することはなかったのに」

重ねて伯爵夫人に文句を言われ、ティリルは慌てて弁解をした。


「それは、母上に構って欲しかったからです!僕も…父上も…決して、母上に心労を

 かけたかったわけではなく…ただ、もっと、母上に構って欲しくて…。たぶん、

 父上は、この力のことを言わなければ、母上がもっと父上のことを頼ってくれると

 思って…だから」

「はぁ?馬鹿じゃないの?」

リアンが呆然とする中、フローネの方が貴婦人の仮面を取り去って声を上げた。


人騒がせな父親で申し訳ありません、とティリルは殊勝に謝った。

普段なら絶対に父親の弁護などしない。母親を巡っては天敵でもある存在だからだ。

しかし…今回に限っては自分に非があることも確かで。


「ごめんなさい、母上。父上に止めろと言われたのですが…どうしても僕を付け狙って

 いた連中を自分の手で締めたくて。それで、ハリドとレナイドにも協力してもらって、

 わざと誘拐されたんです」

真実は少し違う。

狙われていたのはティリル王子ではなく、リアン王太子妃であった。

改革派の妃を煙たく思っていた極右勢力がリアンを追い落とすために幼い王子を誘拐

して利用しようとしたのだ。だからこそ、ティリルは内務省でも国軍でもなく、

自分の手で敵を叩きたかった…大好きな母親を守るために。

けれど、結果的にはその行為は母親を苦しめ、悲しませるものとなってしまった。


「ティリル…」

ここは母親として、びしっと叱るべきなのだろうが、5つの子どもの計画にいい年を

した大人たち(祖父と大伯父)が協力してしまった状況に脱力してしまう。


「ごめんなさい、母上。反省しています。

 だから、どうか、どうか、父上と話をしてください」


息子の懇願。

実はティリルの方が冷静に物事を判断していた。


このまま狂える父を放置すれば、王家に王都、更には王国全土に災いが降りかかると。

それを防ぐには母親に動いてもらうしかない、と。


息子の藍の瞳を見つめながら、リアンはこの2日間を振り返り、

少しだけ…少しだけだが反省した。


キリルにも言い分はあるんだ。たぶん。

子どもたちと引き離されるのは我慢できないが、とにかく話だけは聞いてやろうと、

考えを改める。


リアンはその夜、鼻息も荒く、“王家の塔”へと向かったのであった。


リアンとキリル、バトルの行方。


リアンは子どもたちと離れずに済むのでしょうか。

ベリルはユアンを迎えることができるのでしょうか。


次回、「ワグナ殿下の養女」編、最終回です。

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