ワグナ公爵の養女 その1
「自治省の悪臣」後日談。本編より5年後のお話です。
ファネ王家の影を担う王弟ベリルにちょっぴりでも幸せになってほしいな、と
思いまして続きを書きました。前・中・後篇の予定ですが、初っ端から暴走
している王族が若干名おりますので、「その1」とさせていただきました。
そんなに長くはならないはず、ですので、もう暫くお付き合いください。
毎回「えっ?」と驚くことが出てきます。
ファネ王国王府内ワグナ宮。
国軍総司令部の置かれる場所。その頂点に立つは国王ソランサの弟ベリル。
その居所に因みワグナ殿下と呼ばれることが多い。
そろそろ50の手前だが、彼を“中年オヤジ”呼ばわりする命知らずは、
この王国にいない。王弟で国軍大将である彼は王国屈指の権力者である。
彼の不興をかった者は王都キサラに留まることができず、彼の怒りをかった者は
…この世に留まることを許されない。
ファネ王家の男は大抵が為政者としての能力に優れ、造作も良く、しぶとい。
ゆえに聖王家が滅び現王家に移行してから300年以上に亘って専制君主国家を
維持してこられた。実際のところは、国民に知らされていないだけで、賢人よりも
変人の方が多いのだが。
ワグナ殿下も国軍大将としての実力を認められながら、その“人となり”はやはり
常人とは大きく異なると言わざるをえない。
王族にあるまじき“生涯独身宣言”で妃を迎えることも後継ぎを設けることもせず、
その一方で派手な女性関係が度々大衆娯楽誌“王都薔薇色通信”に報道されている。
「…来たわね、ベリル」
扱いの難しい王弟をしかし簡単な手紙一枚で呼びだす強者がいる。
王国一“お騒がせ貴族”と言われるアギール家出身の王太子妃リアンである。
彼女は、自治省の入っている旧カリン宮の最上階で義理の甥を迎えた。
義理の甥。
何の冗談かと言いたくなるが、先代王キランサと王太子キリルは異母兄弟の
間柄にあり、キランサの子であるベリルは間違いなくキリルの甥にあたる。
つまり、年齢は逆転しているものの、リアンにとって、国軍大将ワグナ殿下は
義理の甥にあたるのだ。
「この俺を呼びつけるなぞ偉くなったもんだな、リアン」
無精ひげと着崩した軍服がもはや商標になりつつある王弟は、ずかずかと
自治省長官専用の応接室に踏み込むや、どかりと腰を下ろし、両足を前に投げ出した。
そうしてから王家特有の藍の双眸で王太子妃を一睨みする。
夫の瞳とよく似ているが、ずっと険があり、翳りを帯びている。
百官が震え上がる威圧感にもリアンはへっちゃらだ。
ベリルの王族らしからぬ乱暴な態度も無礼な物言いも今更、である。
今日はたまたま重要案件が出て、リアンの方から呼び出したが、平素王弟は、用事も
ないのに自治省にフラフラやって来ては毒舌を吐き、仕事の邪魔をする困った男なのだ。
リアンが自らワグナ宮に出向いても良かったのだが…次官に青筋立てて止められた。
自治省次官モムル曰く、王太子が“また”大騒ぎして周囲が大迷惑するから止めてくれ、
とのこと。なにしろ王太子妃は王子ティリル、王女ユアンに次ぐ、第3子の出産を
間もなくに控えているのだ。
「王妃さまが陛下と避暑地にお出かけ中だから、私の所に陳情が来たのだけど」
リアンが用件を切り出す。
「誰からだ?」
「陳情者の名前はラク・ドラン。王都近郊イドル村の助役よ」
「知らんな」
「じゃあ、ラーナ・ドランの名は?ラク・ドラン助役の妹さん」
「…特定できないな」
リアンの苛々が募る中、ワグナ殿下は無気力な回答を続けた。
「3年前までワグナ宮付下級女官だった人だけど!」
「さっぱり分からんな。下級女官の姓なぞいちいち覚えていないし、ラーナなぞ
ありふれた名前、いくらでもいる」
「ベリル、男らしくないわよっ!」
両手の平で卓を叩くと王太子妃は勢い良く立ち上がった。
「ラーナさんは父親のいない子を産んで一人で育てていたとか。先日事故で
亡くなって、幼子を引き取った助役が思いあぐねて伝手を頼り陳情に来たそうよ」
「愚かな助役もいたもんだな」
ここまでリアンに糾弾されても、ベリルは一向に動じることがない。
口元にはラク・ドラン助役を嘲るかのような冷笑すら浮かんでいる。
「王弟に子はいない。分かっているだろう?リアン」
「嫡子は、という意味よね、それ」
"生涯独身宣言"のワグナ殿下に妃はいない。
ゆえに王家の一員としての、将来王位継承権を持ちうるような嫡子は存在しない。
現行のファネ王族法は王室構成員としての庶子の存在を承認していないからだ。
しかし。
「間接的とはいえ、泣く子も黙る、というか強面の大人でも黙る国軍大将相手の陳情よ。
向こうも確信あって出て来ているはず…なによりこのままでは幼子が哀れだわ」
王太子妃としては、ファネ王室の権威を損ねるような事態を避けねばならない。
王弟が女官に手を出して子を産ませた挙げ句に捨てた、など醜聞も良いところだ。
但し、リアン自身が懸念するのは別のことで、母を喪い、伯父に引き取られたという
幼子の先行きだ。
父親がベリルだとすると気の毒過ぎて言葉もない。引き取られた先も不安だ。
子を平穏に育てたいと思うなら、わざわざ陳情に来たりはしないだろう。
独身である王弟の庶子など厄介の種にしかならないことなど、少なくとも村の
助役なら分かりそうなものだ。下手に騒げば…消される可能性があるのに。
「リアン、くどいようだが。俺は生涯誰も娶るつもりはない。
女と交渉がないとはいわんが、結婚するつもりはないし、万一子ができても父親に
なるつもりはない。そう最初から相手には告げてある…例外はない」
「…酷い男」
「そうしたのはお前の母親だ」
それを言われると反論が難しい。国軍大将が“最愛”で“"唯一”と思い定めた女は
フェヌイ子爵令嬢ミアン、リアンの母であった。彼女はベリルの求婚を拒み、
幼なじみの騎士団長クロス、リアンの父と駆け落ちして国を出た。
“世紀のロマンス”としてファネ王国のみならず諸外国まで伝播した有名な恋物語だが、
その過程でミアンに恋した王子とクロスに恋した王女を確実に不幸にした。
「愚かな陳情者に伝えておけ。公式であれ、非公式であれ、王弟に子はいない。
これ以上の申し立ては王室への不敬に当たる、と」
サイテー男の台詞だが、口先だけではないことをリアンは知っている。
隣国イサと異なり、ファネは専制君主国家だ。王室の権限も極めて強い。
王室へ不敬を働いた廉で即刻手打ちにされたとしても、庶民は文句言えないのだ。
「お前も余計な同情をせず、腹の子の心配でもしてろ」
畳かけるように言ってベリルは席を立とうとした。
(俺に子など…俺が父親になることなど…ありえん)
彼が己が子と認めるとしたら、ミアンとの間にできた子だけだ。
けれども彼女は別の男を選んだ。そうしてリアンを産んだ。
その後、姉に毒殺されかけ、第2子を流産してから不妊となる。
やがては地方都市ルーマを襲った土砂災害で亡くなってしまう
…もはや、彼が我が子と呼び、慈しむ存在が誕生する可能性は皆無だ。
諦めるという言葉が嫌いな男は、それでもミアンがどうあっても戻らないという
厳然たる事実を認めざるを得なかった。
ワグナ殿下は、今この時、自身の居城ともいえるワグナ宮ではなく、旧カリン宮に居た。
この場所は、ごく稀に“不思議”が起こる場所でもあった。
その昔、先々代イランサ王が若かりし頃、廊下で這い這いをしている赤子イルーネを
見つけた場所でもある。
ふみゃあ。
微かに、子猫のような声が耳に響いた。
(なんだ…?)
音のした方向に目をやれば、隣室へと続く扉が少しばかり開いている。
ふみゃあ、みゃ、みゃ。
不思議な“鳴き声”が“泣き声”に変わる前にリアンが動いた。
そのまま退出してしまっても良かったのだが、ほんの僅かに好奇心の方が勝って、
ベリルは王太子妃の後を追った。
控えの間として整えられた隣室の小部屋は心地よい子ども部屋に改装されていた。
そこに据えられた小さな寝台から身を起こした幼い娘を母親が優しくあやす。
「…ユアン王女か」
ベリルの記憶が正しければ、まもなく2歳になるはずだ。
年はうんと離れているが、叔父の子なので、彼にとっては従妹にあたる。
生まれたばかりの時に小猿のような顔を覗いて以来、近寄って見たことはなかった。
「どれ、少しは母親に“似ず”可愛くなったか」
そういえば髪の色も瞳の色も知らないなと思い、ベリルは幼子を驚かさないように
そっと前へと踏み出した。
世の母親であれば、ここで頼まれもしないのに我が子自慢を始め、我が子が如何に
愛らしいかを滔々(とうとう)と語るところである。しかし、リアンは違った。
臨月でありながら小さな王女を抱き上げ、王弟から遠ざけたのである。
「ん?何だ。顔を見るくらい構わんだろう。減るもんじゃないし」
「何かが確実に減る気がする。とっとと帰れ、ベリル」
「…国軍大将相手に本当に良い度胸だな」
がしっと腕を取られ、抱き上げていた王女があわや床に落ちそうになる。
母親をやんわり押しのけて、王弟は小さな従妹の姫をしっかりと受け止めた。
みゃ、と小さな叫び声を上げたものの、泣き出したりせず、気付けば小さな王女が
彼の腕の中にいた。その瞳は黄緑。
寝起きのせいか、少し潤んだ瞳が上目遣いに彼を見つめている。
肩を少し過ぎて広がる髪は白金。
その時、ベリルの心に激震が走った。
この娘は彼の愛した…今も愛する…女ではない。そんなことは百も承知だ。
けれど、その女の血を引く存在で。
固まった王弟を怖がりもせず、嫌がりもせず、それどころか黄緑の瞳が大きく
見開かれ、桜色の両頬でにっこりと微笑んだ。さらには、紅葉のような両手が
面白そうに彼の無精ひげに向けて伸ばされた。
みゃみゃ。小さな声を挙げて笑う幼子。
たったそれだけの事なのに、ワグナ殿下の中の永久凍土は消滅した。
ファネの国軍大将は、今この瞬間、キリルとリアンの、2歳に満たぬ王女に
陥落した。
「…リアン」
「…何よ?」
嫌~な予感がして、早々に娘を奪い返してから、王太子妃は様子のおかしい王弟に
眉をひそめた。小さな王女は母親よりも祖母似であったため、
できればベリルには会わせたくなかった。
「俺はお前の下僕になってもいい」
「はあ?」
夫も時々変になるが、夫の甥も相当である。
「俺の持てる全てをやってもいい。だからその娘を俺にくれ!」
「はあ…なに馬鹿言ってるのよ!」
「俺の命を懸けて大切に育てる。絶対に幸せにする。だからユアンを俺にくれっ!」
「ふざけるなっ!」
出産間近で気が短くなっているのかもしれない。
大事な娘を取引材料にされたからかもしれない。
リアンは簡単にキレた。
「あんたさっきまで私と何の話していたか忘れたの?
俺に子はいない、いらないとさんざんほざいておきながら、冗談じゃないっ!
いくら王国屈指の権力者でも、女にとって最低最悪の男に誰が娘をやるかっ!」
「妃殿下?」
もともとの話が話だけに人払いをしていたのだが、さすがに控えておれないと、
王太子妃付侍従長のクロンと自治省次官モムルが飛び込んでくる。
少し遅れて王女付女官長シーシェルが入室し、リアンはユアンを彼女に託した。
「叔父上、ベリル殿下をワグナ宮まで送ってくださる?
少し錯乱気味なようだから、必要なら後頭部殴って気絶させて構わないわ」
しかし、クロンの手を振り払ってベリルは話し続けた。
「錯乱しているのはお前の方だろ?まだ話は終わってないぞ」
絞め殺してやろうか、このおっさんはとリアンの脳が再び沸騰しそうになった時
…普段より早いお迎えがやって来た。
「リアン、落ち着いて下さい。身体に障りますよ」
白絹の手が彼女に触れ、次いで背中から抱きしめる。
頬と項を掠めるは柔らかな唇の感触。
王太子キリルが今日もまた愛しい妻を迎えに自ら足を運んで来た。
「私のリアンを苦しめるなら即行地獄行きだと言っているでしょう?ベリル」
「ほう?国軍を敵に回すか?」
旧カリン宮最上階で繰り広げられる叔父と甥の舌戦も珍しいことではなく。
「貴方一人消すのに、王都で内戦ごっこをするともりはありません。
私の少数精鋭、内務省直下の暗殺部隊だけで事足ります」
キリルはにっこり微笑むも、目で本気だと相手に伝える。
「私情で国軍と内務省を動かすのは止めてください。
…本日はその辺りで収めていただけませんか」
内務省長官レムルが仲介し、それ以上の緊迫状態は回避された。
*** *** *** *** *** ***
リアンはキリルに腕を取られて、まだ日のある内に“王家の塔”に帰宅した。
塔の5層目は小さな王女のために設えられ、王太子妃付侍従長クロンの控え室と
王女付女官長シーシェルの控え室も用意されている。
二人は仲の良い夫婦であるのでこの人員配置は何かと都合良いものであった。
「ティリルはまだ戻ってこないの?」
半ば強制的に長椅子に横たえられてから、リアンは開口一番に尋ねた。
5つなった長男は、引退した元宰相レナイドから勉強を教わるようになっていた。
“先祖返り”と云われる王子は聖王家の不思議な能力を色濃く受け継いでいて、
手も触れずに物を動かしたり壊したり、口を使わずに意志を伝えたり、更には
空中にふわりふわりと浮いたり…などなど、あら不思議を体現していた。
最近になって漸く人前で力を抑えることを覚え始め、レナイドに連れられて
少しずつ“外の世界”に触れるようになった。
「ティリルならハリドの所で今夜は泊まりだ」
「…またなの?大伯父上もお祖父さまもティリルを連れ出してばかり」
それは先々代イランサ王の時代。
大盗賊の首魁と捕縛の長としてレナイドとハリドは激突していた。
更にレナイドの妹をハリドが略奪愛するに及んで、二人の仲は最悪となった。
今は昔と言うべきか。
かつては天敵同士であったものの、齢70を越してから二人はティリルを挟んで、
しばしば旧友のようにつるむようになった。デレデレと爺馬鹿丸出しになって…はおらず、
文のレナイド、武のハリドとして王子を鍛えている。
ちなみに、とばっちりなのはシャイン子爵クロンとシーシェルの次男シェロンで、
ティリル王子の遊び相手に選ばれてしまっている。
「ティリルはまだ5歳なのよ…二人とも変なこと教えてないと良いけど」
なおもブツブツ文句を言う妻を抱え込んでキリルは仏頂面になった。
「…面白くない」
「そうよね。さすがにキリルもそう思うわよね。
可愛い息子を爺さま達に取られっ放しなんて」
私だってティリルともっと遊びたいわ、と続けようとしてリアンは口を噤んだ。
間近に迫る旦那様の顔が熱を帯びてきて…凶暴化しつつある。
「面白くない…」
もう一度そう言って、王太子は妃に深く口付けた。
「貴女ときたらティリルのことばかり」
「え、えっ?」
「リアン、何度も言いますが、私は貴女の一番というだけでは足りません。
貴女の全部でなければ嫌です」
「や、でも待って、それは…ん」
無理と続けようとして、またも唇を塞がれる。
結婚して、5年が過ぎた。長男ティリルに、長女ユアン、そして3人目を
出産間近という状態で、今更、今更なのだが、旦那様の綺麗過ぎる顔が直視できない。
癖のない黒髪はサラサラ、藍の双眸煌めき、陶磁器のような肌に白絹の手。
30過ぎて親父臭くなるどころか、男の色気がいや増して、心臓に悪い。
「24時間365日、私にことだけ考えてください」
そうしてリアンに対する熱愛ぶりも鎮まるどころか、膨れ上がるばかり。
「それは無理です!」
ここで照れ照れしていると、なし崩しになるのが分かっているので、
きっぱりお断りする。
「でしたらせめて二人でいる時くらい私の事を考えてください…さもないと」
綺麗な笑顔でじわじわと圧力をかけてくる。
この状態の旦那様を放置しておくと後が厄介なのだ。
それは3年前。2歳になったティリルを連れて地方視察に出掛けた時のこと。
どうしても王都を離れられなかったキリルの了解を得るのにそれは難儀した。
しかし、1週間の視察予定が現地の事情で10日に延びて帰都した後が輪をかけて
大変だった。
ニッコリ出迎えた王太子は直ちに“内務省の試作品”なるものを取り出して自分の
左手とリアンの右手に嵌めた。それ即ち伸縮鎖付手錠。
キリル側の操作で鎖の長さが零から5歩離れる位まで伸び縮みする。
その内飽きるだろうと我慢比べのつもりでいたら、ず~っとそのまま拘束状態が
5日も続き、イロイロ宥めて1週間後にようやく解放されたという黒い過去がある。
要するに5つのティリル王子よりも2つになるユアン王女よりも王太子は
手がかかるのだ!
「リアン…」
以前は逆だったが、リアンのお腹が大きくなるに及んで、キリルは好んで彼女に
膝枕するようになった。そうして緩く金茶の頭を拘束し、恣に口付けを落とす。
「早く生まれて来ないかな」
白絹の手が夜着の上を滑り、リアンの腹の上で止まる。
ここで、ああ夫も早く3人目の子に会いたいのね…などと妻は感動したりしない。
案の上、続く言葉は、「早くリアンを独り占めしたい」だった。
王太子サマは…自分の子どもに愛情がないわけではないだろが、世間で云うところの
“我が子を溺愛する父親”にはならなかった。彼の溺愛対象はあくまで妻一人である。
これがフッサール伯爵夫妻となると別で、レムルはフローネとの間に生まれた娘を
それこそ“目に入れても痛くない”ほど可愛がっていた。警察と密偵の親玉である
内務省長官が、だらしなく相好を崩す様は…不気味というか、薄ら寒いものがある。
リアンは夫の熱を唇に額に頬にと感じながら、藍の双眸に見入っていた。
そうしてから、どうしたものかと再び考え込んでしまう。
よく似た色彩の、けれどもずっと険のある瞳の持ち主のことを。
王弟が元女官に生ませた子をいかがすべきか。
王妃様ならもっと上手に対象できるのだろうが、リアンにはどうしたら良いのか
分からない。
ベリルが言うように捨ておくことなどできない。
さりとて王家に引き取ることもできない。野心家の伯父の元に置いてもおけない。
となると、然るべき養子先を見つけるべきなのだが…頭が痛い。
「何を思い悩んでいるのですか」
キリルが優しく髪を手櫛で梳いてくれていたので、気持ち良くてつい本音を
漏らしてしまった。
「ベリルのこと」
瞬時に失言を悟る。
「私の膝で他の男のことを!」
「ぎゃぁああ、痛い痛いっ!」
お妃らしからぬ悲鳴を漏らしたが、致し方ない。旦那様に抱き潰され呼吸困難なのだ。
「許しませんよ、リアン!」
「いやいや、ちょっと待って。ベリルの子どもが現れて…」
夫のきつい拘束にジタバタしながらもリアンは何とか事情を説明しようとする。
何と言っても、ベリルはキリルの甥、他人ごとではないのだ。
しかし。
「ふっ、ワグナ殿下の庶子など。今に始まったことではありません。
貴女が思い悩む必要など全くありませんよ」
なんと王太子はさくっと国軍大将の悪行を暴露した挙げ句、鼻でせせら笑った。
キリルの口ぶりから察するに…王弟の隠し子は複数いる。
そして、たぶんだが、王家に関わる女性問題は水面下で王妃が穏便に処理していたに
違いない。今回は偶々王妃不在のため王太子妃に問題が回って来たに過ぎない。
やだやだ、やっぱり王妃稼業なんてヤダっと、心の中で叫びつつ。
「王弟の名誉なんてはっきりいってどうでも良いけど、子どもは放っておけないわ!」
「貴女ときたら…夫のことは放っておくくせに、他人の子どもなぞ」
「キリル!その子はユアンと同じ位の幼子なのよ!母親を亡くしたばかりなのよ!」
やはり、確実に怒りっぽくなっている。
リアンは先刻王弟のふざけた態度に逆上したが、ここでも怒りを爆発させてしまった。
臨月のためか、何なのか、ちょっとのことでイライラしてしまう。
流石に妻の体調を慮ってか、この手の喧嘩では珍しく、キリルの方が先に折れた。
「私の奥様は我が儘ですね」
そう嘆息しつつ、妻を優しく寝台へ横たえる。
「ラーナ・ドランの子は私がなんとかします」
やはり彼は元内務省長官。現・王太子、未来の国王陛下。リアンが一言も女官の
名前を口にしていないのに何もかもお見通しのようであった。
「キリル、これは王妃様不在で私に回ってきた案件よ」
「貴女は身重なのですよ?私に任せておきなさい。貴女は何も心配しないで…」
「キリル」
リアンは皆まで言わせずに遮った。黄緑の瞳が藍の瞳を覗き込む。
彼女の旦那様は本当に困った御方で、過去に“王家の塔”を半壊させるに至った
過ちを何度も繰り返しそうになる。即ち、リアンを真綿でくるんで、危ないこと、
嫌なことから極力遠ざけようとするのだ。
「…明日、騎士団長とこの件で会うことになっています。
気になるなら、貴女も同席なさい」
もう一度重い溜め息をついて、キリルはここでも譲歩した。
「うん、ありがとう、キリルっ」
そうしてようやく表れた妻の笑顔に、王太子は安堵する。
リアンは彼のことを困った夫だと思っているようだがとんでもない。
いつだって彼を振り回し、最終的に思い通りにするのは彼女の方なのだ。
王太子夫妻に甘い時間が戻ったかに思えたが、その晩、実はもう一悶着あった。
「キリル…あのですね」
ウトウトしていたリアンがパチリと目を開き、ぎこちなく問いかける。
「ん…どうしました?」
吐息がかかるほどの至近距離に旦那様の顔がある。
灯りを落としていて正解だ。頬が熱くなるのを見られずに済む。
「あのですね、こういうのって聞くべきではないと思うの。胸に秘めておくのが
淑女の嗜みというか…で、でも、こういうことがあると、やっぱり気になると
いうか。ごめんね、堪え性がなくて」
「一体、何の話です?」
さっぱり要領を得ない妻の謝罪に、キリルは半身を起こした。
「えーと、あのう、ティリルやユアンに…そのう、母親違いのお兄さんとか、
お姉さんが、どこかにいる、なんてことはないのかな…な~んて」
「……………」
闇よりもなお暗い影となった旦那様の沈黙が重い。
「私の愛を疑うのですか、リアン?貴女が“最愛”で“唯一”の女だと数え切れない
ほど告げ、その身に刻んだはずなのに」
ようやく口を開いたキリルに密着した状態で、リアンは慌てて弁明する。
「違うよ!疑ってなんかいない。
で、でも出会う前のことまでは分からないし、責められないし…」
リアンが自治省でキリルに出会う前のこと。
キリルがそれなりに女性経験を積んできたこと、これは間違いない。
なぜ分かるかというと…分かるものなのだ。夜を共にしていれば。
「馬鹿馬鹿しい。私をワグナ殿下と一緒にしないで下さい」
「馬鹿馬鹿しくなんてないわ!キリルの隠し子が出てきたら、衝撃大きすぎよ。
万一その可能性があるなら事前に教えておいて欲しいの。
そうすれば私も多少の心構えが…むがっ」
最後のところで、またも封じられる。それはもう濃厚な接吻で。
そのまま長い間、貪られ、動けない。
「信用されていないのを悲しむべきか、可愛いらしいやきもちを喜ぶべきか、
対応に困る」
「だって」
「いもしない隠し子のことで気を揉まないでください、リアン。
それに…過去の女たちのことで貴女が心配することは何もありません」
過去の女たち。たち。たち…その言い様が不快で、リアンはよせばいいのに、
ささやかな反撃を試みてしまった。
「ふ~ん、過去のことだものね。気にしても仕方ないよね」
「納得してくれたところで、もう休みましょう。睡眠不足はいけません」
「うん、分かった。私に…ラウザやベツレム以外で過去にお付き合いした人が
いても、キリルは気にしないということで。ああ、良かったわ。お休みなさい」
言うなり、布団を頭から被って横になる。
ささやかな意趣返し。
実際にリアンがきちんと異性交遊なるものを経験したのは初恋のラウザだけで
あったし、ベツレムは恋人になる前に死んでしまった。
「リ、リアン…」
「んあ?」
臨月の妊婦は疲れやすい。ベリルの件もあって目を閉じるなり猛烈な睡魔に
襲われた彼女を地獄からの声が揺さぶった。
結婚して5年。奇人変人の夫の暴走もだいぶ御せるようになった…はずだが、
時折失敗する。ごく稀に、大失敗する。
「私の監視網を潜り抜けて、過去にまだ他に男が?リアン、許しませんよ。
全て、洗いざらい、きっちり吐きなさい。白状するまで寝かせません」
監視網と言っているあたり、危ない男であることを自ら暴露しているのだが、
キリルの暴走は止まらない。
「アベッチィ子爵のところの次男ですが、絹織物問屋の若旦那ですか、
あるいはシロやポチといったありふれた名字の男ですか。
さぁ、言いなさい、さあさあ」
「……………」
今度はリアンの方が闇よりもなお暗い影となった。
第3子を間もなく出産予定だというのに、王弟の隠し子問題、更に夫の詰問。
「自分の過去を棚に上げて、何言ってるのよ!」
くわっと口から火を噴く勢いで、リアンは怪獣になった。
当代一の貴婦人であるフッサール伯爵夫人フローネを見習って、淑やかで
威厳あるお妃になろうと日夜努力はしている。しているが…
地方都市ルーマで一般庶民として元気いっぱい育った本性は変わらない。
「わぁ、リアン、待てっ!」
「いつも負けてあげると思ったら大間違いよっ」
言うやいなや、羽毛の枕がキリルの顔面を直撃する。
傷にはならないが、地味に痛い。いや、それよりも心が痛い。
鋼にも金剛石にも例えられる王太子の精神力だが、妃を前にしては桜貝のように
繊細である。妻に嫌われたら、あっという間に生ける屍と化す。
さりながらリアンの“過去の男たち”発言が気になるキリルは引くに引けない。
かくして“王家の塔”最上階には、王太子夫妻の夜を徹しての愛の営み、ではなく、
互いの過去をめぐる激論が戦わされた。久しぶりに派手な夫婦喧嘩であったが、
彼らに仕える者たちは誰しも傍観を決め込む。
もはや、春の嵐や秋の野分のように年中行事?と化した痴話喧嘩だ。
王太子付侍従長ヴァンサランも王太子妃付侍従長クロンも王女付女官長シーシェルも、
それこそ“王家の塔”が全壊する事態に陥らぬ限りは介入するつもりはない。
そのころ長男のティリル王子は曾祖父のハリドと曾祖伯父のレナイドに見守られて
アギール伯爵邸で熟睡中。
長女のユアン王女は大叔父のクロンと大叔母のシーシェルに見守られて“王家の塔”
下層にて熟睡中。
キリルとリアンを両親に持ち、二人が逞しく育つのは確実であった。
ということで、ベリルの隠し子問題と、ベリルの「ユアンくれ~!」発言にリアンは
苦悩します。
本編で産まれた長子ティリルが5歳になっています。次話登場予定。
いつの間にやら長女も生まれておりまして、ユアン、まもなく2歳です。
名前はキリルのもともとの名前であるユランサのユと、リアンのアンの組み合わせです。
フッサール伯爵夫妻のところには女の子が、シャイン子爵のところには男の子が生まれて
おります。
次話では本編でほとんど出てこなかった騎士団長が出てきますが、「ええっ?」の
展開がまだ続きます。お楽しみに。