第十章 自治省の鴛鴦夫婦 その5
甘々かと思いきや、ドシリアス、しかもバイオレンス展開で申し訳ありません。
ファネ王家の男二人がかな~り痛いことをしてくれます。リアン災難。
物語はいよいよクライマックスです。
旧カリン宮最上階。
そこに居て然るべき人物が、粛々と執務に勤しんでいる。
自治省長官リアン・パルマローザ・アギール。
アギール伯爵令嬢。“世紀のロマンス”の一粒種。
もっともアギールは旧姓で、ごく最近すったもんだの末に王太子妃となり
ファネ王家の一員となっている。
伯爵令嬢でありながら庶民育ち、王国に生まれながら共和国である隣国イサに
留学経験あり、という異色の経歴の持ち主である。
自治省に入って一年余り。次官からあっという間に長官へと登り詰めた。
現在はお妃修行を適当に…いやいや、それなりにこなしつつ、自治省の最高位
として辣腕を振るう。
しかし。
年が改まり、まだ1の月も終わらない時期であった。
「あの~何で居るのですか、長官?」
「何で仕事してるのですか、長官?」
長官の秘書官であるフェイとアイルが書類を両手に握りしめながら、
冷や汗をかいている。
二人は今朝方に出勤して、自治省最上階に人影を認め仰天してしまった。
「自治省長官が自分の執務室で仕事していて何かおかしいことあるの?」
「「おかしいことありませんが…」」
二人は目を伏せて次に言うべき言葉を探した。
自治省長官が自治省でお仕事する。当然のことだ。
仕事熱心な長官は立派だ。
女性で年若の長官を快く思っていない官吏は確かにいる。
二度の駆け落ちで世を騒がしたアギール家出身の令嬢を軽蔑する
貴族至上主義の年寄り連中も確かにいる。
しかし、その仕事ぶりを間近に見ている秘書官たちは、
彼女に確かな尊敬の念を抱いていた…それはもう、いろいろな意味で。
しかし、しかしである。
(貴女は蜜月中の花嫁では?)
(王太子妃になられたばかりなのでは?)
婚姻式からなんと一週間しか経っていない。
先の自治省長官で、現・王太子のキリルは月末まで公務を休むと
高らかに宣言していた。むろん彼が独りで休暇をとるなどあり得ない。
((まさか…))
秘書官二人が怖れているのは、彼らの元上司と現上司がまたも!
仲違いしたのではないかということだった。
これまでに勘弁してくれっ~という声なき叫びを何度上げたことでか。
世間には洩れていないが、“王家の塔”が半壊したのは
落雷のためだけではないことを彼らは知っている。
「フェイ、どうしたの?何か顔色悪いよ。アイルも何で震えているの?」
部下の心、主知らず、と言うべきか。
二人の恐怖を余所に自治省新長官は翌月に迫った立春祭に向けて着々と
準備を進めていた。二度目の祝祭なのでほんの少し余裕がある。
幸いなことに、やれ行進だ衣装だと煩く口だししてきそうな、前長官は
身重の妻を案じて仕事を減らすための干渉こそすれ、増やすことは厳に慎んでいる。
早いものでリアンが自治省に入ってから季節が一巡した。
この一年は想像を越える事態の連続であった。
地方都市から出て来て、いきなり次官に抜擢されたのも驚きだが、
私的な部分では驚天動地。
若き公爵と恋仲になり、婚姻の運びで王太子妃になり、
更に更に!数ヶ月後は母親になる予定である。
いずれの段階の選択も己が意志であり、けして周囲に、というか、
一人の男に振り回され、絡め取られた結果ではないと信じている
…たぶん。
「王宮でご夫君が“機械化”しているようですが」
追加の決裁書類を持って現れたのは自治省次官モムル。
兄である内務省長官レムルは王太子キリルを主と定めたが、
弟である自治省次官モムルは王太子妃リアンを主と定めた。
これも己が意志で決めたことだが、兄弟は互いに破天荒な上司を
持ったものだと自覚している。
フェイとアイルは新次官の姿を見るや、面倒は任せたとばかり
長官執務室を逃げ出した。
「どうやって殿下を執務室に追いやったのですか?」
「追いやったって…何か私が悪人みたいじゃない」
激甘の夫婦水入らず新婚生活を中断してまで、夫を仕事に送り出したのだ。
むしろ褒めてほしいくらいなのに。
「どんな手練手管を使われたものか。あの王太子殿下が宰相殿と
内務長官に両側を挟まれて大人しく机に向かうなど」
宰相レナイドは引退したいのに(そして自治省顧問として、最愛の妹の
孫にあたるリアンの教育係を務めたいのに)いつまでも引き留められて、
いい加減頭にきている。
内務省長官レムルは激務のため愛妻フローネと過ごす時間が激減し、
欲求不満気味である。
勢い二人の、王太子キリルに対する態度は暖かい老爺のそれでも、
兄のような守役のそれでもなく。
(おらおらキリキリ働け、若造が。こっちはおめ~せいで苦労してんだよっ!)
(しっかりしてくれ。いつまでも守り役をあてにするなっ!)
などと、恐れ多くも王太子殿下に対して、不敬な言葉こそ吐かないものの、
態度と表情には思い切り出ていた。
尊敬する宰相や兄が王太子のために段々ヤサぐれて来ているようで、
自治省次官を拝命するモムルは秘かに心配している。
「手練手管って、あのね…」
リアンは大袈裟に額に手をやる。
次官付秘書官から次官に昇進したモムルは確かに兄に負けず劣らず
優秀だが、どうも最近口が悪くなってきている。上司のせいなのか。
「私はただ夕方から二人きりでお忍び外出したいから、
それまでお互い溜まっている仕事片を付けましょう、と言っただけよ」
「…なるほど。それでああいう事になっているんですか」
キリルは優雅な貴公子然としているが、ごく稀に本気モードに突入すると、
あらゆる感情が削ぎ落ちて機械人間のようになり、驚異的な速度で、
王国の政務を動かしていく。
(王太子夫妻は二人きりで外出ですか。良かったですね、兄上。
今夜は姉上とのんびり過ごせそうじゃないですか)
ふふっと、モムルの瞳が和みかけて…次の瞬間かっと見開かれた。
たまたま書類から顔を上げて、次官の豹変を目の当たりにしてしまった
リアンは、ひっと身を竦ませた。
「長官、何と仰いました?」
「え?何?どの案件の事?」
彼女が当面職場復帰できないだろう(なにせ王太子にべったり付き
まとわれているのだ)と踏んでいた次官と秘書官たちは、長官決裁印が
どうしても必要な案件を除き、大方の仕事を片付けていた。
それでもリアン自身が判断しなければならない案件が幾つか残されていて、
それを緊急度に応じて処理している最中であった。
しかし、モムルが鬼の形相になったのは立春祭に向けての来客応対でも
なければ、冬季大雪被害への緊急支援策でもなかった。
「さらっと今、王太子殿下とお忍び外出とか仰いませんでしたか?
私の空耳ですか?」
「ううん、確かに言ったよ。正体バレないように、ちゃんと変装するから。
繁華街をぶらっと散歩して、買い物して、それから屋台村で夕食して
深夜になる前に帰ってくるから心配しないで」
変装、繁華街、ぶらっと散歩…あっけらか~んとした上官の一言一言に
モムルはくらくらと目眩を覚える。自治省次官という高官職を実は彼以外
誰もやりたがらなかったというのは、こういうウラ事情があるからだ。
「貴女…自治省長官として、いえ、それ以上に王太子妃としての
自覚あるのですか」
「や~ね、一人で出かけるのじゃないのよ?旦那様と一緒よ?」
旦那様というところで、まだ照れが出るリアンである。
そんなお妃さまの様子を可愛いと思う気持ちの余裕はなく、モムルは
内心でひたすら王太子を罵倒していた。
(何で止めてくれなかったのですか、殿下!
どうしてどうして“王家の塔”からこの“危険人物”を
出してしまったんですか、殿下~!)
いや、理由など容易に想像がつく。
新妻にお願いされて、デレデレと了承してしまったに違いない。
しかし、である。
「身重だという自覚はあるのですか、妃殿下?」
まだ国民には公表されていないが、次官であるモムルには話が行っていた。
長官に無茶はさせるなと、王太子からも宰相からも内務長官からも
厳命されている。
「妊娠は病気じゃないのよ。適度な運動や気晴らしも必要なの。
それに王都の民の様子を視察するのも大事なことだし。何より、キリルが一緒なのよ?
危ないことなんてあるはずないじゃない」
「つまりどうあっても出かけると」
モムルはがっくりと両肩を落とした。
お土産買ってくるからね、などと浮かれている妃殿下を後目に、
彼は急遽手配しなければならなくなった護衛を考え、頭痛がした。
そしてもう一人。
モムルの兄であるレムルの状況はもっと悲惨であった。
夕方になって、計ったかのようにキッチリ仕事を終えたキリルが
機械化を解いて颯爽と立ち上がる。
珍しくも仕事が定時前に終わり、久しく忘れていた微笑みが内務省長官に
浮かんだところであった。
「いつも済まないな、レムル。今夜はフローネとゆっくりしてくれ」
と、上機嫌のキリルが労いの言葉をかける。
ここまでは良かった。
「さて、私はこれからリアンと出かけてくるから」
賢明な王太子にしては迂闊にも、ぽろりと漏らしてしまったのだ。
「…は?」
愛妻の暖かな腕や柔らかい胸を想像して、にやつきかけていた
フッサール伯爵(ファネ王国名門当主!)はキリルの言葉に固まった。
「どこに行こうかな、何を食べようかな。寝室で過ごすのが一番だけど、
たまには二人で外出するのも良いな」
傍らの内務省長官がどんどん悪鬼に変貌しているのに、
浮かれた王太子サマは気づかない。
「王太子夫妻がお忍びで夜間外出…」
ふるふるとレムルが震え出す。
「何考えているんですか、貴方は~!」
“王家の塔”に落ちた雷より凄まじいものをレムルは主の頭上に叩き落とした。
*** *** *** *** *** ***
日付が変わる少し前に、ヨレヨレになったレムルは、
フッサール伯爵邸、ではなく、職場である内務省長官室に戻ってきた。
自治省長官室ほど贅を尽くしていないが、それなりに立派な仮眠室が執務室並びに
設けられている。
「お帰りなさい」
待っていたフローネが優しく夫を抱きしめる。
6年にも及ぶ別居生活を経て、互いの誤解を解いて後は熱愛夫婦に転じている。
レムルのフローネに対する溺愛ぶりは相当のものであるが、その更に上をゆく
熱愛ぶりを王太子キリルが常に常に、妃リアンに対して示しているため
王府内で大きく取り沙汰されることはない。
「フローネ、会いたかった…」
朝も昼も会ったのに、という言葉を賢明な妻は飲み込む。
そんなことを口にしようものなら相手が拗ねるに決まっているから。
それに朝は内務省泊まり込みのレムルと大急ぎで食事を共にしただけ、
昼は王宮からの書類を届けに来ただけ、と二人きりの時間が少ないのは事実だ。
しかし、国王ソランサの姉リウカを母に持つ、つまりは王家の血を
色濃く受け継ぐフローネの、目下最たる関心事は愛する夫…ではなく、
初めてできた友人と、その危険な夫についてであった。
「リアンは変わりなく?大叔父上にもおかしなところはなかった?」
途端、レムルは顔をしかめた。
「…何も問題はなかった。しばらくあの二人のことは忘れさせてくれ」
お忍びで外出しようという王太子夫妻にレムルは苦言を呈しつつも
影ながら護衛を付けた。というか、結局のところ心配で自らがこっそり後を付けた。
王太子一人でも十二分に妃を守れるだろうが、万が一のことがあっては
ならないという配慮だ。何と言っても…お妃は身重なのだ。
果たしてリアン妃は自分のお腹に次々代のファネ王が育っていることを
どこまで認識しているのだ!
黒いモジャ髪に丸眼鏡を掛けて貧乏書生に身をやつしたキリルと、
金茶の髪を木綿の手巾で覆って下町の若奥さん風を気取るリアン。
王宮を出てから戻るまでひたすら“二人だけの世界”が展開していた。
その熱愛夫婦ぶり…いや、厳密に言えば旦那側の過剰な愛情表現に
辟易して妻が抵抗するも、傍目にはじゃれあっているようにしか見えない
…という阿呆すぎる展開に、レムルは世の無情を噛みしめた。
名門フッサール伯爵家の当主であり、国王の覚えもめでたい内務省長官たる己が
何故、出歯亀のようなまねをせねばならぬのか。
ちなみに王太子夫妻のお忍びに虚しさと憤りを感じたのは彼だけではなかった。
レムルは護衛中、反対側の死角にモムルの存在を認めた。
自治省次官となった弟も心配でお妃の後を追ったらしい。
更に兄弟は背後に少し距離を置いて、複数の存在をも感じていた。
宰相レナイドの命か、アギール伯爵の命か。
シャイン子爵クロンも出没する。クロンの場合、叔父や父に
命じられるまでもなく、妻にお尻を叩かれるまでもなく、
姪っ子可愛さに自分から率先して動いていそうだ。
そして…もちろん国軍大将ベリル配下の者がいる。
王弟が王太子妃の生母ミアンに横恋慕していたのは有名な話で、二人の間に何が
あったのか分からないが、ベリルはリアンの命を守り続けている。
「お二人が仲睦まじいのは何よりだが…甘過ぎて疲れる」
レムルは愚痴りながらも、さりげな~く、フローネの豊かな胸に顔を埋めた。
「…お疲れみたいだから、早くお休みなったほうがよろしいわね」
「…意地悪だな」
「そう?疲労困憊で帰ってきた夫を更に疲れさせるようなことを求めては
いけないと思って」
「そう?求めてほしいな。君には、いつも私のことを」
などと!艶っぽい会話ができるほどには、このお二人も成長したのである。
妻に離婚を言い出されるのが怖くて、逃げ回っていた半年前までとは雲泥の差だ。
「こちらの胸が痛くなる位に…キリルは幸せそうな笑顔を浮かべていた」
夫婦水入らずの時間に本格突入する前に、ほんの少しだけ、
レムルは王太子夫妻のお忍び外出を振り返った。
貧乏書生に扮した王太子は、身分は隠しても妻への愛情は少しも隠さない。
その激甘ぶりに胸焼けしそうになりつつ、ふとした折々にキリルが浮かべる
透明で美しすぎる笑顔に何故か切ない思いがした。
「胸が痛くなるような…幸せな笑顔?」
すううっと静かに水が引くようにフローネから甘い雰囲気が消えた。
代わって顕れるのは王家の血筋ならではのもの。
「フローネ?」
妻の豹変ぶりをいぶかしみつつ、レムルも微かに異変を察知した。
「大叔父は決心したのだわ…おかしいと思ったのよ。
いくらリアンが頼んだからといって、今この時期に外出を許すなんて」
淑女にあるまじきことだが、フローネは長い裾を絡げて走りだした。
「フローネ、待って、どういう…?」
突然駆け出した妻を追いながらレムルは尋ねた。
「キリルは自分の子を殺めるつもりよ!リアンの命を守るために。
最初で最後の親子3人での外出のつもりだったのよ!!」
妻の血を吐くような叫びに絶句したのも束の間。
二人は手を取り合って“王家の塔”へと向かった。
*** *** *** *** *** ***
“王家の塔”最上階に据えられた瀟洒な寝台にリアンは身を横たえていた。
久しぶりの外出にはしゃぎすぎてしまい、ぐったりである。
とはいえ、心地良い疲れに、今夜は良い夢が見られそうであった。
まだ膨らんでこないお腹を両手で包めば、自然と口元が綻んでくる。
妊娠したのはもちろん初めてのことなので、何が“普通”なのかは
よく分からないが、聖王家の血を引く子が“特別”なのは、夫や姑に
言われるまでもなく、我が身で感じることである。
例えば時に五感が異常なまでに研ぎ澄まされ、遠くのものが見えたり
聞こえたり。ふとした瞬間に人の心が読めてしまったり。
はたまた浅い眠りの中に、異なる時間や空間を彷徨ってしまったり。
気のせいや錯覚、夢や妄想で片付けきれない様々な現象がリアンの
身に起こっていた。
正直なところ、怖れや不安がないとは言えない。
けれども、彼女は独りではない。
リアンは思いがけずも妊婦になってしまって以来、全面開き直りの
姿勢を貫いていた。目指せ、肝っ玉母さんである。
それなのに…彼女の夫はてんでダメダメだった。
「これを飲んでグッスリお休みなさい」
キリルの差し出したのは白瑠璃の小杯。
中には琥珀色の薬酒が入っている。
こうして彼は妊婦の健康に良いとされるものを太王太后や宮廷医師に
尋ねては、せっせと運んで来るのであった。
妻の体調管理は自分の役目とばかり、リアンの三食におやつ、
睡眠時間から運動量にまで目を光らせている。
汲めども汲めども尽きぬ泉のように溢れ出る愛情を惜しげもなく
夫から注がれて、リアンは目眩がするほどの幸福を感じていた。
但し、溺れきらないのがリアンで。
この時は察するものがあってか、キリルから差し出された小杯を
受け取らずに首を振る。
「それは飲めないわ、キリル。
私には薬になっても、この子にはそうではないでしょう」
黄緑の瞳が藍の瞳に重なる…静かに。
リアンはキリルを責めない。
けれど、彼が行おうとしていることは認められない、許せない。
「困りましたね…貴女は聡明過ぎる。
どうか何も考えずに暫くの間、眠っていてくださいませんか。
全てを私に任せて。次に目覚める時には終わっていますから」
「キリル…っ!」
幸福な時間は跡形もなく消え失せて。
リアンは咄嗟に小杯を払った。
白絹の手から放たれたそれは、寝台の支柱に当たって粉々になる。
琥珀の液体が飛び散り、絨毯に染みを作るが構わない。
怒りと哀しみと、そのどちらが支配するか分からないままに、リアンは告げた。
「この子に何かしたら…終わるのは私たちよ」
彼女の夫ときたら、何度同じ過ちを繰り返すのだ。
辛いことは全部彼に任せてしまえと言う、何も考えるなと言う。
その独善的な態度に過去何度となく二人の関係は破綻しそうになった。
それでもこれまでは修復できた。
だからこそ二人は現在、夫婦として、王太子夫妻としてここに在る。
けれども、この先、彼が彼女を守るという大義名分で二人の間に
できた子を流した場合…もう修復はできない。
王太子夫妻という立場上簡単に離婚するこてはできないかもしれないが、
埋めることのできない深い溝ができるのは確実だ。
「リアン、聞き分けてください。貴女を失うわけにはいかないのです。
その子は“先祖返り”と呼べるほどの強い力を有しています。
私にはそれが感じ取れるのです。貴女にも自覚症状が出ているはず」
「でも、この子は私を害したりしないわ!」
「今はまだ、ね。けれど、その子の力は日に日に増していく。
普通の人間には耐えられるものではありません」
「勝手に決めつけないで。簡単に我が子を切り捨てないで!」
「ねぇ、リアン」
キリルは宥めるように妃の手を取った。
「お願いだ。その子は諦めてくれ。
これから先、子が望めないわけじゃない…もっと力の弱い子なら
君にも生める。それに王太子夫妻に子どもができなかったとしても、
私は構わない。後継ぎがどうのと騒ぐ奴が出てきたら、フローネの
ところから養子を迎えても良いし、いっそ王制など廃して隣国の
ように共和制を導入してもいい」
リアンを思って紡ぐ言葉が、ことごとく彼女の心を抉る。
この子はダメでも他の子なら良い。
養子でも構わない。
王家がなくなっても構わない。
…情けなくなってしまう。
悲壮な決意で「王になる」と告げた男はどこへ行った。
その男のために、入りたくもない王家に入り、なりたくもない妃に
なったと言うのに!
そして、その男をダメダメにしているのは他ならぬ自分だと思うと、
リアンは一層情けなくなった。
「キリル…私はこの子を産むわ。何があっても。
子より自分を優先する訳ないでしょう?母親なのよ、これでも」
「私より、その子を優先するのですか…許しませんよ」
ゆらりとキリルから立ち昇るのは殺気。
リアンは慌てて身を解こうとするが寝台に縫い留められて動けない。
細身に見えて怪力の持ち主である元内務省長官は片手だけて相手を
縊り殺すこともできる。
「貴女を奪う者は容赦しません。例えそれが我が子であっても」
深い口付けが降ってくる。
許しを乞うように熱く、甘い感覚にリアンの心が緩む。
しかしそれを狙ったかのように、舌先から差し入れられたのは
芥子粒ほどの丸薬。
リアンの中に嵐のような衝撃が駆け抜けた。
次の瞬間、寝台の天盖と四方の支柱が吹き飛び、キリルが天井に
叩き付けられた。
その次の瞬間、キリルが落下するのを見る間もなく、リアンの全身を
激痛が襲った。
「っあああっつ!」
堪え切れない悲鳴が迸る。
「リアンっ!」
着地したキリルがよろめきながらも白絹の手を伸ばす。
「来ないで!」
双方とも瞬時に理解していた。
寝台を破壊し、キリルを吹き飛ばした力がどこから来たのか。
「リアン、ダメだ。力を使わせるな!使えばそれは君に跳ね返ってくる」
説明されるまでもない。たった今、実体験したばかりだ。
母親の感情に未だ胎児の子が同期して力を顕現させた。
しかし、力の糧は他ならぬ彼女自身で。
ただ人の身で振るった力は大きな苦痛を伴うものとなった。
二人とも暫くの間、満足に動くことができず、絨毯敷きの床に
荒い息をしたままへたりこんだ。
何て過激な夫婦喧嘩…などと回想している場合ではない。
キリルはまだ愚かな考えを捨てていなかったし、リアンはもちろん
全力でそれを阻止するつもりでいる。
「…派手にやってんな」
扉を足で蹴り上げ、ダミ声で登場したのは。
「ベリル」
リアンの口からそっと安堵の吐息が漏れる。常には口論が絶えない相手
だが、キリルの暴走を拳で止めてくれる貴重な存在でもある。
「呼んでない。出て行け」
妻の関心がほんの少しでも別の男に向けられるのは許さないとばかり、
キリルは王弟を威嚇した。
「お前の詰めが甘いから俺が出てきてやったんだろ?」
言うなりベリルは短剣を懐から引き抜くや、微塵の躊躇いも見せずに、
それを振り挙げた。確実にリアンの腹を狙って。
油断すべきではなかった。
彼は…リアンの命は守るが心を守ってはくれない。
バシッ。
次の瞬間、短剣は弾け飛び、転がった先で二つに折れた。
ベリルは辛うじてその場に踏み留まったが、右手首が変な方向に
捻じ曲がっていた。
「リアンっ!」
自らも先の衝撃波から回復できぬまま、キリルはいざるように妻に
近づくと、背後から抱き止めた。
ベリルからお腹の子を守るために、またも力を振るい、
その反動を受けて、彼女の顔は真っ青になっていた。
「そのまま押さえていろよ、キリル。一撃で終わらせやる」
半ば意識を失っているリアンを見て好機とばかり、ベリルはゆらりと
立ち上った。利き腕がやられてもどうということはない。
国軍大将である彼は左の拳一つで大の男でさえも、あの世送りにでき。
ましてや女子の腹にいる赤子の命など容易く奪ってしまえる。
リアンは白濁する意識の中で、両の腕を引き寄せ、赤子を守ろうとした。
王弟ベリルの“最愛の女”、“唯一の女”はミアン。
彼女との契約を、彼は彼女が死んだ後も忠実に守り続ける。
ミアンの娘リアンの命を守るという約束を。
けれども守るのは命だけ。リアンの意志は関係ない。
…つまりはリアンの命を脅かすと判断した対象は抹殺する。
例えそれが、王家の子、未来に国王となる可能性が高い赤子であってもだ。
ミアンが遺した契約。それこそがベリルを生かすもの。
もしもリアンの命が失われ、契約が霧散すれば、彼は生きる目的を失う。
キリルと同じく、ベリルもファネ王家の人間として簡単には死を選べない。
自分の中が空っぽになっても生きていなければならない。
だから。リアンは生かさねばならない。何としても。
ベリルは跳躍するや左の拳を繰り出した。その藍の瞳に慈悲はない。
「止めて、ベリル!」
リアンは叫んだが、言葉だけでは彼を止められない。
黄緑の瞳が涙を湛え、限界まで見開かれて王弟と対峙する。
(ミアン!)
その瞳の中に彼は最愛の女の姿を見た。
死してなお彼の心を縛り、屈服させる唯一の女。
娘の意志など知ったことではない。
けれども、そこにミアンの意志が在るのならば。
彼は…彼は…どうすれば良いのだろうか。
「止めろっ!」
時を同じくしてキリルが前に飛び出していた。
愚かな男はそれでも最後の瞬間に己が妻と子をその身に包みこみ、
全力で庇った。ベリルの拳はリアンの…ミアンの眼差しによって
必殺の威力を削がれていたが、それでもキリルに当たっては、
その右肩を砕いた。
「いい加減にしないか、この馬鹿者どもっ!」
そこに天から雷が落とされる。
“王家の塔”の花窓をビリビリと振動させるような大音響を轟かせた
のは国王ソランサ、その人であった。
先々代イランサ王が“偉大なる王”と讃えられ、先代キランサ王が
苛烈な王として恐れられたのに比べ、当代は温厚な、もっと言って
しまえば地味な存在であった。
その彼が頭から湯気が立ちそうなほど怒りを露にしている。
王の年下の叔父にあたるキリルはもちろん、王弟であるベリルでさえ、
そんな怒り心頭といった様子のソランサを見たことがなかった。
「…リアンを守るためと言いながら、結局は自分たちのためだろうが。
これが我が国の王太子と国軍大将かと思うと情けない限りだ」
ソランサ王は叔父と弟を容赦なく叱責するや、後に控えていた
レムルを促した。
「この馬鹿二人を王室騒擾罪で当面の間、内務省の留置場に放り込んでおけ」
「畏まりました」
内務省長官は、よもや自分が幼少より主と定め仕えてきたキリルを
牢に入れることになろうとは想像だにしなかったが王の措置に否やは唱えなかった。
レムルがキリルをリアンから引き離すのに代わるように、
進み出たのは三人の女たち。
太王太后イルーネに王妃シャララ、そしてフッサール伯爵夫人フローネ。
示し合わせた訳ではない。
皆がそれぞれに王太子夫妻の…王家の危機を察知し、その場に集ったのだ。
「キリル…馬鹿な子」
「母上…」
イルーネはボロボロになった息子の肩に触れた。
母子は互いに泣きそうな顔をしていた。
ほんの少し肩の痛みが柔いだところで、キリルは母を止めた。
「私のために力を使わないで下さい。リアンを頼みます」
王家の最長老はもう一人の迷い子のことも忘れてはいなかった。
「ベリル、貴方も、いつまでも捕らわれて。ミアンは貴女を
苦しませるために契約を遺した訳ではないでしょうに」
「先生…」
王弟がイルーネを“先生”と呼ぶのは究極の落ち込みにある時なのだが
本人に自覚はない。遠い昔に、姉リウカと兄ソランサと共にベリルは
大神殿の巫女姫であるイルーネから神学を習っていた。
その時の名残であるが、傲岸不遜のワグナ殿下が珍しく他人に甘えを
見せる瞬間でもあった。
「内務省でじっくり、叔父と甥で話し合って頂戴」
そう言って、イルーネはベリルの右手首の痛みもほんの少しだけ
癒してやった。
「リアンは死なないわ。ちゃんと元気な赤ちゃんを生んで、
自分もしぶとく生きるに決まっているわ!」
フローネは初めての友人、それもいつの間にか親友と呼ぶに近い存在
となった女性の上半身を抱き締めながら、二人の暴走した男たちに
向かって叫んだ。
「死なさないわ。絶対にリアンも赤ちゃんも死なさない!」
「そうね。守りましょう。私たち皆で。
諦めないで、二つの命を守ってゆきましょう」
シャララがフローネに同調して頷いた。
王妃は王家から消えてしまった娘の分もリアンを守りたいと思った。
王家のためでも世嗣のためでもない。
同じ母としてリアン親子の命を守りたいと思った。
心から。
「さて、わしは役得でリアンを運ばせてもらおうかな」
「いや、それはわしがやる」
互いに譲らず狭い螺旋階段から姿を現したのは、宰相レナイドとアギール伯ハリドで。
リアンの大叔父と祖父はもちろん王太子夫妻がお忍び外出に出たと報告を受けてから
王宮で張り込んでいた。爺ズの勘も相当のものである。
ちなみにリアン叔父であるシャイン子爵クロンは内務省で留守を任されている。
彼は泣くほど嫌がっているが、彼が内務省次官もしくは同位の要職に就く日も近い。
もう一人、王太子付きのヴァンサラン侍従長はなぜか国軍で留守を任されて
しまっていた。騎士団長も有能だが、荒っぽい事にかけては
元盗賊首領である赤髪の大男の方が優れている。
さて、ぐったりしているリアンを抱き上げたのは祖父の方であった。
それを大叔父は恨めしげに見つめたが、仕方ない。
緊急に宰相として政務に戻らねばならぬ事態となってしまったからだ。
王太子と国軍大将が王命によりまさかの入牢。
公にできることではないので、箝口令を敷きつつも、二人の不在を
埋めて働かなければならない。
(リアンの子が生まれたら、ぜってー引退する)
そうして可愛い赤子をあやしながら余生を送る。宰相はそう決意を新たにした。
(リアン…)
キリルは愛する妻に切ない視線を送り、ベリルと前後して塔を降りた。
逃亡の兆候は皆無であったが、内務省長官は容赦なく二人を連行した。
「リアンは私より赤子の方が大事なのでしょうか」
キリルがぽつりと漏らした言葉をベリルは聞いて呆然とした。
「我が身に代えても産もうとするなんて」
しょんぼりとする王太子の姿には王国随一である貴公子の片鱗もなく、
捨てられた駄犬のようであった。
「…だからだろう」
ほんの少しだけ、ベリルはこの大馬鹿な叔父に同情したのだろうか。
というかミアンの娘に同情したという方が正解か。
「えっ?」
問い返したキリルに今度ははっきりと答えてやった。
「愛する男の子だからだろう。女ってのはそういうのに命を掛ける
ものなんだと。俺にはさっぱり理解できんが」
俯いたキリルから零れた一粒の滴をベリルは見ないふりをした。
*** *** *** *** ***
その年の秋も更けゆく頃に、ファネ国王太子妃リアンは一子を産んだ。
新たな王子の誕生が発表されれば、国を挙げてのお祭り騒ぎとなる
はずであった…が、王宮内は不気味なほどに静まりかえっている。
王子誕生を祝う間もなく、リアンは…全ての力を使い尽くしたかのように
息を引き取った。
生まれてきた子を抱き締めることも、名を呼ぶことも、乳を含ますこともできぬまま
…我が子の瞳の色も確かめることなく、この世を去った。
「大嘘つき」
固く閉じられた瞼に口付けて、キリルはそう呟いた。
そうして彼は妻の亡き骸に覆い被さり、自らも一切の動きを止めた
…生まれたばかりの我が子には一瞥すら与えることなく。
疲労困憊。睡眠不足。しばしの間、意識が遠のいて、ふっと我に返りノートPCの
ディスプレイを見やれば…あれっ?リアンが死んじゃったよ。主人公なのに。
作者の知らぬ間にあの世に行ってしまわれました。
残すところ「エピローグ」だけだし、そんなもんか…な、わけないでしょうが!
「自治省の悪臣」、そんな話ではないはず。ないはず…ですよね?
さて、いよいよ、次回最終回です。